見出し画像

安土城考(その1) 『復元安土城』を読んで

はじめに

 『復元安土城』(内藤昌著、講談社学術文庫、2006.12)を読み終えた。建築学について十分な知識がないこともあって、すべてを理解できたわけではないが、この復元案は綿密な考証によって作成されており、信頼性に足るものだと思われる。
しかし、この内藤昌氏の安土城復元案については、宮上茂隆氏などの研究者がかなりはっきりと否定をしている。宮上氏らの論文等はまだ読んでいないので、確定的なことは言えないが、インターネットで検索した情報を総合すると、その批判は次のようにまとめることができる。

1.    「天守指図」は後世の偽書である
 宮上氏らは、内藤案の根拠となった池上右平の「天守指図」を、「信長公記」や遺構の観察から後世の大工が創作した偽書だと主張している。特に、指図に記載された吹抜け構造が「信長公記」等の文献に記述されていない点を問題視し、史料としての信頼性を否定している(宮上氏は1977年の論文で、指図が現地遺構を観察して創作した「想像図」と考え、史料価値を否定している)。
 ちなみに、「天守指図」は発掘調査結果と一致していないという指摘もある。第二次発掘調査(1989~)で得られた礎石配置や穴蔵の構造は、「内藤案の規模や設計と一致しないとする意見もある。特に、指図にない「伝・二の丸への出入り口」の遺構が発見されたことは、指図が竣工図ではない可能性を示唆している。

2.    吹抜け構造はあり得ない

 宮上氏らは、内藤案の天守中心部の「4階吹抜け空間に宝塔を収める」設計を「常軌を逸した架空の構造」であると主張している。内藤は西洋教会の吹抜けを援用したのだろうと推論しているが、反対派は日本の伝統建築との整合性が乏しいと反論している。ちなみに、宮上氏の天守復元案は、内藤案より小型で実用的な構造を提案している。

「天守指図」は偽書なのか

 宮上氏らは「天守指図」を偽書だと考えている。しかし、昭和15年(1940年)の発掘調査で確認された天守台の礎石配置や「曲がった穴倉出入り口の石段」は「天守指図」の記載と完全一致している(p.137-142)。これは決して偶然に一致するようなものではない。したがって、後世の大工が「信長公記」などの文献を読んで創作した「想像図」ではないことは明らかである。
 そこで内藤案を否定する研究者たちは、後世の大工が安土城の遺構を観察した上で創作した図面が「天守指図」であるという説を主張している。この可能性については、内藤氏も「あえて想像をたくましくするならば、(池上右平が)安土城天守台跡を実測調査し、その結果をふまえて復元図を作成する可能性がないであろうか」と自問した上で、以下の2点から天守の礎石の配置を後世の大工が知り得る可能性はないと断定している(p.164)。
 第一に、昭和15年(1940年)の発掘調査時に天守台跡に石蔵床面叩き漆喰が残っていたことから、天守台は天正10年(1582年)の焼亡以来そのまま放置されてきたと考えられること。
 第二に、江戸時代の加賀藩の大工が幕府の許可なく他領の城跡を調査できた可能性は、政治的・現実的にないことである。

 以上で「天守指図」が偽書でないことは明らかであるが、さらに付け加えれば、内藤氏が『指摘しているように「天守指図」には「安土城」という文字がないこと(同p.165)や、「4階吹抜け+宝塔」という普通では考えられない設計になっているという点も「天守指図」が偽書でない証だと考えられる。つまり、後世の大工が、誰かに見せるために(自らの能力を誇示するために)制作したとすれば、単に「天守指図」ではなく「安土城天守指図」と記すであろうし、「4階吹抜け+宝塔」があるという常識では考えられない設計図ではなく、より万人受けするような常識的な天守を設計するだろう。この設計の奇抜さゆえ「天守指図」は本物だと考えてよいのではないだろうか。

吹抜け構造はあり得ないのか

 次に、4階吹抜け構造について考えてみよう。宮上氏らは、内藤案の「4階吹抜け+宝塔」設計は、伝統的な日本建築の技術体系から逸脱している上に、吹抜け構造が「信長公記」等の文献に記述されていない点を指摘している。
 太田牛一による「信長公記」にはさまざまなバージョンがあるが、どのバージョンにも「4階吹抜け+宝塔」に関する記述はない。しかし、「信長公記」などの文献に記述がないことを理由に吹抜け構造がなかったと考えるのは間違っているのではないだろうか。

 「信長公記」における安土城天守に関する記述は、村井貞勝の「拝見記」を参照して書かれたものだというのが通説である。この経緯は「安土日記」の天正7年(1579年)の1月25日に記載されている。当時、京都所司代であった村井貞勝が京都から正月の挨拶のため安土にやってきた時、信長は林秀貞を呼び出し、二人に安土城の天主を見せたのである。この時の記録が「拝見記」であり、太田牛一が、この「拝見記」を元にして「信長公記」の9巻にある「安土御天主之次第」を記述したと言われている。
したがって、村井貞勝が見学して拝見したところのみが記載されており、拝見しても記録しなかったところや、拝見していないところについては記録がない。
 たとえば、地階部分は表題のみで、その部屋割りや内装、柱などに関する記録はまったくない。「天守指図」によれば、吹抜け部分は地階から三階まで続いており、地階の中央には宝塔らしきものが置かれ、二階には吹抜け部分に突き出した舞台が設けられている。さらに、三階には吹抜けを取り囲む部屋に沿った回縁と南北の回縁を結ぶ橋がかけられている。しかし、「信長公記」には、二階の舞台や三階の回縁と橋に関する記述は一切ない。おそらく村井貞勝は、吹抜けにつながる入り口がある地下一階には入っておらず、二階の舞台や三階の回縁と橋を見学していないのではないだろうか。もしそうだとすれば、吹抜けの存在を知ることもなかったことになる。

 ついでに言えば、安土城跡の「(伝)大手道」についても「信長公記」には一切記述がない。(伝)大手道は、幅が約9メートル、長さが約180メートルもある石段の道で、他に類をみない直線の登城路である。安土城を訪問すれば誰もが驚くものでありながら、太田牛一はこれを記録していない。この他に類がない登城路と天守の吹抜け構造は相通ずるところがあるように思える。

 ここから先は想像に過ぎないが、信長は吹抜け構造を村井貞勝と林秀貞に見せなかったのではないだろうか。もしかすると、吹抜けに突き出した2階の舞台で幸若舞を披露する時まで吹抜け部分は隠しておきたかったのかもしれない。

結論

 宮上氏らの「天守指図」は後世の偽書であり、吹抜け構造はあり得ないという主張は、根拠がないどころか、内藤案を否定するために捻り出した屁理屈のように思える。ただ、世の中には内藤案を支持しない研究者が一定数存在する。三浦正幸監修『よみがえる真説 安土城』や(公財)日本城郭研究会監修『決定版 日本の名城 No.4 安土城』のように、宮上氏の弟子筋の三浦正幸氏の復元案を採用した書籍が発行されている。また、映画「火天の城」では吹抜けのある構造は火災に弱いという理由で内藤案は否定されいる。(ただし、NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」では内藤案が採用されている。)
 無論、内藤案が100%正しいという証拠はないが、他の復元案は「天守指図」を無視し、「信長公記」などの文献を元に考案されており、かなり恣意的なものになっている。やはり内藤案が、現時点では最も信頼できる復元案なのではないだろうか。

安土城については、まだまだ書きたいことがあるのだが、次の機会にしたい。

(注)高橋和生氏から、NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」では内藤案が採用されているとのご指摘をいただいたので、該当部分を修正しました。(初稿では三浦氏の復元案を採用していたと記述していた)(2025.12.3記)

安土城考(投稿一覧)
https://note.com/torumaegawa/m/m5a8a4f123862

【参考文献】(順不同)

  • 内藤昌『復元安土城』講談社(講談社学術文庫)2006.12

  • 佐藤大規「安土城天主の平面復元に関する試案」史學研究255号、広島史学研究会、2007.2、pp.1-22

  • 中村泰朗(2020)「最新の発掘成果に基づいた安土城天主の復元的考察」前田記念工学振興財団研究報告、2020.6

  • 三浦政幸監修『よみがえる真説 安土城』学習研究社、2006.3

  • 公益財団法人 日本城郭研究所監修『決定版 日本の名城 No.4 安土城』(株)デアゴスティーニ・ジャパン、2024.4

  • 滋賀県「安土城復元研究の過去・現在・未来」「幻の安土城」復元プロジェクト・歴史セミナー資料(https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/5391312.pdf

  • 丸山淳一「“幻の威容”安土城の実像探る「令和の大調査」で浮かび上がった信長と秀吉の天下人への思い」毎日新聞オンライン(https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20240219-OYT8T50144/

  • 高橋和生「安土城の復元」(https://www.pontak.jp/traditional-architecture-japan-aduchi-castle/

  • Asitaka-Jyunnya「安土城復元案」(https://www1.asitaka.com/index.htm

いいなと思ったら応援しよう!