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安土城考(その10)「天守指図」と安土城遺跡の関係

 「天守指図」が偽書であるという宮上氏の論文における、その根拠のほとんどすべてが誤りであることを3回にわたって検証したので、今回は「天守指図」と安土城の天主台遺跡とが、どのように合致しているのか(あるいは合致していないのか)を検証してみたい。

1. 地階(石蔵)平面

 まず、安土城天主台の実測平面図における礎石の位置は「天守指図」の柱の位置にぴったり符合する。また、石蔵の内辺を「天守指図」の一重目(地階)に重ねてみると、ほぼ一致している(図中では赤い線で表示)。
 内藤氏は「石蔵内辺は、現状天主台跡のみからでは一見不等辺六角形であるが、東側に登閣御門を礎石にしたがって設定すると(中略)不等辺七角形と考えられ、本指図とよく照応している」(内藤2006:142)と述べている。

出典:「天守指図」および内藤(2006)p.192の付図-3

 柱についても、「天守指図」にある柱の位置を天主台実測平面図に重ねてみると、ほとんど礎石の上にあることが分かる(実測平面図の上に柱の位置を赤丸で表示)。
 南西の8本の柱が石蔵内に収まらない点については、安土城考(その7)において検討済みであるが、高橋和生氏から、この8本の柱以外にも天主台石垣の上に立っている柱があるので、それが「天守指図」に描かれていないという矛盾があるとのご指摘をいただいた。たしかに天主一階(二重目)を支える柱は、この8本以外にも存在しているので、この点については回をあらためて検討したい。

出典:「天守指図」および内藤(2006)p.192の付図-3

2. 一階(二重目)平面

 次に、安土城天主台実測図から想定される石垣上端を結ぶ線を「天守指図」の一階(二重目)に重ねると、ほぼ一致していることが分かる(図中では青い線で表示)。

出典:「天守指図」および内藤(2006)p.192の付図-3

 ちなみに、この想定される石垣上端を結ぶ線のうち、天主台西側のラインでは石垣に反りを想定している。この反りについて、当時の石垣技術では造るのは無理だったのではないという意見がある。この点については、別の回で検討したい。

3. 登閣御門の構造

 天主台への入り口は、実測平面図でわかるように天主台の東にあり、まず西向きに登り、門があったと思われるところ通過したところで右(北方向)に折れ、突き当たりで左(西方向)に折れるというクランク状になっている。この形は東西の縮尺が少し変ではあるが「天守指図」に描かれている石蔵への入り口の構造に一致する。
 さらに内藤氏は「とくに石蔵内部に入る二間幅の「かと(門)」北脇に「くくり木戸」の記入があり、これが細長い礎石のあることによって実証できるのは重要であろう」(内藤2006:142)と指摘している(図中では赤い楕円で示した)。

出典:「天守指図」および内藤(2006)p.192の付図-3

4. 地階中央位置のみ礎石が欠如している点

 石蔵内部には礎石が7尺(2.1m)間隔で規則的に並べられている。安土城(その7)で書いたように、ちょうど中央に当たる部分には礎石がない。

出典:「天守指図」および内藤(2006)p.192の付図-3

 昭和の発掘でこの部分に「約二尺平方の大さにて深さ約四尺許の穴」が発見されている。この「穴の中には全部燒土と思しき土砂及び木炭化せる木片等」が詰まっており、「燒土層の中から褐(旧字体)色の壺の破片十數箇」が発見されている(滋賀県2023:46)。
 「天守指図」では、この礎石のない部分に宝塔(のようなもの)が描かれている。内藤氏は「ここに宝塔が位置すれば、先述天主台跡の地階中央に礎石がない問題は、容易に理解できる。二尺平方深さ四尺の穴にあった壺の破片にも、舎利容器の存在を推定してもよいかもしれない」(内藤2006:144)と述べている。
 舎利容器があったかどうかは別にして、この部分に礎石がないことと、「天守指図」のこの部分に宝塔(のようなもの)が描かれていて柱がないことは一つの合致点である。

5. 本丸御殿と天主をつなぐ廊下

 天守指図の二重目(一階)の図面の左端(南東角)には「東ノ御いゑろうかみち」という書き込みがある(下図の赤枠の中)。これは天主から天主台の南東下の本丸にある御殿(「御幸御殿」とも呼ばれる)につながる通路(廊下)があったことを示している。この通路は、緊急時には取り外すことが可能な「引橋」だったと思われる。
 遺跡ではこの通路に該当する部分に礎石が発見されている。これも天守指図と遺跡との一致点の一つである。
 ちなみに内藤氏は「『天守指図』ではじめて知られる建築内容が多々に確認でき、とくに一階(二重目)東南角辺にある『東ノ御いゑ(本丸御幸御殿)ろうかノみち」は、直下の本丸御殿跡に引橋礎石が近年発見され、その存在を実証できる」と述べている(内藤2006:316)

出典:「天守指図」および内藤(2006)pp.190-191の付図-2

6. 変形瓦の発見

 一般的に瓦屋根は、その勾配は一定であり、その上端(「水上」と呼ばれる)も下端(軒先のことで「水下」と呼ばれる)も水平である。ところが「天守指図」の二階平面図は矩形であるのに、一階が不等辺八角形であるため、一階の屋根の一部は水上か水下を斜めにしなければならない。
 内藤復元案では、水上(屋根の上端部)を水平にし、水下(軒先)を斜めにしている。たとえば西側の一階の屋根は、中央左寄りに向かって水下(軒先)が下がる形になっている。

出典:内藤(2006)のp.205の付図16 安土城天主復元西立面図

 「天守指図」を見ると、軒先が下がって外壁が低くなる一階の部分は、ちょうど窓の記載がない。つまりこの復元案は「天守指図」と整合していると考えられる。
 この水下(軒先)が斜めになった屋根を瓦葺きにするには、先端が水平ではなく、斜めになった変形瓦が必要になる。
 実際、安土城天主台遺跡から、2種類の変形瓦が発見されている。内藤氏は、その著書で次のように述べている。
「そこで特記したいのは、天主台東面での発掘屋根瓦の唐草瓦正面が、流れ方向に対して七六度の変形平瓦が見出されていることだ。これはまさに東側ないしは西側辺屋根の斜角に一致している。また瓦当(巴瓦)正面が流れ方向に対し、六六度の変形瓦が発掘されている。これは西北隅辺屋根の斜角に一致する。ようするに発掘品からも『天守指図』の不等辺八角形平面を実証できるわけである。」(内藤2006:234)

76度の変形平瓦(出典:満田2017)
66度の変形巴瓦(出典:満田2017)

まとめ

 以上のように、「天守指図」と安土城の天主台遺跡とは、多くの点で合致しており矛盾はない(「天守指図」一重目(地階)の南西の8本の柱が石蔵内に収まらない点については、回をあらためて考察したい)。
 安土城天守台は、天正10年(1582年)に天主が炎上崩壊した後、その残骸などによって埋もれており、昭和の発掘まで、その詳細が不明であったことを考えると、「天守指図」は天主炎上崩壊の前に描かれた図面をもとに作成された絵図を元に作成されたと考えざるを得ない。
 
 次回は「天守指図」は池上右平による創作であるという説について、もう一度考えてみたい。

安土城考(その11)に続く

安土城考(投稿一覧)https://note.com/torumaegawa/m/m5a8a4f123862

参考文献 (著者あいうえお順)


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