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安土城考(その6)「天守指図」 - 序

 「天守指図」は安土城天主の実像を探る上で、極めて重要な史料であるが、一部の研究者からその信頼性について疑問が投げかけられている。今回から数回にわたって1969年に内藤昌氏が発見した「天守指図」を取り上げる。

1.静嘉堂文庫

 「天守指図」は1969年(昭和44年)に内藤氏が静嘉堂文庫で発見した図面である。
 静嘉堂文庫は、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎の弟であり、三菱財閥の二代目当主である岩崎弥之助が1892年(明治25年)に創設した「静嘉堂」を起源とする文庫である。静嘉堂文庫は弥之助が蒐集した東洋古美術・書籍を収蔵している。
 ちなみに「静嘉」は中国の古典『詩經』の「大雅」(105篇)の中の「其告維何、籩豆靜嘉 朋友攸攝、攝以威儀」(其の告ぐること維れ何ぞ、籩豆靜く嘉し。朋友攝むる攸、攝むるに威儀を以てせり)という句から取られた弥之助の堂号であり、「清潔にして美しい」という意味らしい。

 静嘉堂文庫は設立当初、弥之助の自邸がある神田駿河台に置かれていたが、1911年に弥之助の子である小弥太によって岩崎家の高輪別邸に移転され、1924年には世田谷区岡本にある弥之助の墓の隣接地に移設された。1940年に小弥太は、蔵書や文庫の施設など一切を財団に寄付して財団法人静嘉堂を創立して膨大な典籍を一般に公開して研究の利用に供した。
 この財団は戦後財政難に陥り、1953年(昭和28年)に国立国会図書館の支部図書館という形で運営が継続されることになったのだが、1970年(昭和45年)に三菱グループの支援を得て、国立国会図書館の傘下から離れ、三菱グループ経営の私立図書館となっている。
 内藤氏が「天守指図」を発見したのは1969年なので、ちょうど国立国会図書館の支部図書館であった時期にあたる。

2. 発見された「天守指図」

 内藤昌『復元安土城』(2006:pp.130-131)によれば、「天守指図」は幅が約26センチメートル、長さが約2メートルの巻子本(紙や布を横に長くつなげて軸に巻きつけた書物)で、裏面に雲母摺りをほどこした良質で厚地の和紙でできており、錦織の表装に「天守指図」と記されている。

天主指図
出典:小川守「安土城『天守指図』を巡って」

 この巻物に記載されているのは天守の平面図であり、いしくら(地階)、二重目(一階)、三重目(二階)、四重目(三階)、五重目小家ノ段(四階)、六重目八角の段(五階)、七重目四角(六階)の計7つの平面図が描かれている。
 各階の平面図は柱間一間を5分(約15mm)とする縮尺で描かれている。一間を2.1mとすれば、140分の1のスケール(縮尺)だということになる。

 天守指図には各階の平面図が詳細に描かれ、柱間寸法、壁・窓・建具の配置がわかるほか、室名が襖絵や貼付絵に基づいて記入されている。この点は、単なる想像図や後世の推定を大きく凌駕する精密さをもち、工匠史料としても極めて貴重である。

 巻物の最後の下部に「池上右平 正治」と署名があり、その隣に釣鐘状の篆刻印が墨で影写されている。つまり篆刻印が捺印されたものではなく、捺印された印影を墨で透写したものであることから、池上右平の自筆本の写本であると推察されている。

3. 池上右平について

 内藤(2006:pp.159-163)によれば、この「天守指図」の筆者である池上右平は池上家三代目の新左衛門正次であり、右平が書いた「天守指図」を透写したのは池上家七代目の猪右衛門延世であったと推定されている。
 この辺りについては小川守氏の「安土城『天守指図』を巡って」にも詳しく説明されているので、興味のある方は是非お読みいただきたい。

 池上家は代々、加賀藩の重臣(家臣でありながら1万石以上の禄高の家老)八家の一つ奥村家の作事奉行を務めており、建仁寺流(江戸時代の社寺建築における主要な流派の一つ)の正当な流れを汲む建築の専門家である。
 右平は、奥村家の作事奉行として城郭・殿舎などの建築行政を担った技術官僚的な立場にあったと考えられている。

4.内藤昌の1976年の論文

 当時、名古屋工業大学の教授であった内藤氏は、静嘉堂文庫で発見した「天守指図」を安土城天守の設計図と比定し、その信憑性を文献批判と実測調査により検証し、その成果を『国華』987号(1976.2)と988号(1976.3)に「安土城の研究(上)(下)」として発表している。「天守指図」の発見から7年近くが経過している。

 内藤氏が「天守指図」を安土城天守の設計図であると推定した根拠は大きく2つある。第1は「天守指図」の図面が安土城天守遺跡の石垣・礎石の実測結果とほぼ一致していること、第2は『信長公記』の記述内容とよく符合していることである。

 内藤氏は「天守指図」を基にして、安土城天主を外観五重、内部七階(地階穴蔵+石垣上六階)の望楼型天守の復元案を提示した。その最大の特徴は、(「天守指図」に基づいて)中央部に地階から四階までの巨大な吹き抜け空間を設け、地階の中心には宝塔のような構造物を据え、吹き抜けの二階の北西角に舞台を、三階には南北をつなぐ橋を架けるという極めて特異な空間を備えていることである。

5. 宮上茂隆氏の批判(1977年)

 この内藤氏の論文に対して、当時、東京大学工学部建築学科助手であった宮上茂隆氏が「天守指図」は偽書であるという批判論文を『国華』998号(1977.3)と同999号(1977.4)に発表した。
 宮上氏は、この「安土城天主の復原とその史料について(上)(下)」という論文で、「天守指図」は、建築についてある程度知識がある武士が、『信長公記』を読み、現地の八角形石垣遺構を見て空想的に描いたものであって、偽書であると判断した。

 宮上氏が「天守指図」を偽書だとする根拠は次の3つである。第1に「天守指図」を安土城天守遺跡と照合すると矛盾するところがあること。第2に「天守指図」を(宮上氏が判定する)「信長公記」善本と照合すると矛盾する点があること。第3に「天守指図」の粗本が実在した証拠がなく、「天守指図」の天守は非実在性が顕著であること。(この宮上氏の指摘に関する詳細は「安土城考(その7)」で取り上げたい)

「安土城考(その7)」に続く)

安土城考(投稿一覧)https://note.com/torumaegawa/m/m5a8a4f123862

参考文献


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