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安土城考(その16)天守指図と信長記③

 前回に引き続き、指図と信長記の記述内容との照合を行う。

二階(三重目)

 信長記(尊経閣文庫蔵の『安土日記』)を引用する。

A 十二畳敷御繪有、花鳥の間と申也
B 別ニ一段四畳敷、御座之間有、同花鳥之御繪有
D 次南八畳敷賢人間、へうたんより駒の出たる所有
F 東麝香之間八畳敷
E 十二畳、御門之上
F' 次八畳敷、ろとうびんと申仙人杖なけ捨たる所
G 北廿畳敷、駒の牧之御繪有 繪のふりたる所、是ふゑつの圖と申
I 次十二畳敷、せい王母の御繪有 西御繪ハなし
M 御縁二段ひろ縁なり
K 廿四畳敷之御物置の御なんと有
L 口ニ八てう敷之御座敷在之

出典:宮上1977a:18(先頭のアルファベットは内藤氏が照合のため付けたもの)

 一方、指図は以下のようになっている(アルファベットは内藤氏が照合のためにつけたもの)。

出典:内藤1994:169

部屋 A、B
 A、B については部屋の広さも画題も一致しており、矛盾はない。

部屋 D
 信長記には「賢人の間」とあるが、指図には「せんにん」と記されている。また面積も信長記は8畳であるが、指図は部屋がL字型に曲がっていて12畳の広さがある。
 内藤氏は、信長記の8畳は東南角の東西二間×南北二間の部分に対応していて、そこには賢人の絵が描かれており、その北続きの東西一間×南北二間に瓢箪から駒(馬)が飛び出す絵が描かれていたのではないかと推測している。(内藤1976b:27-28)。

 冗談で言ったことが本当になってしまった時に使う「瓢箪から駒」という諺があるが、これは中国の仙人・張果老が瓢箪から白馬を出したという伝説に由来している。信長記の「へうたんより駒の出たる所有」という記述から考えれば、内藤氏の推測どおり、この部屋には張果老が瓢箪から駒を出す絵が描かれていたに違いない。
 張果老は中国唐代の道士で、「八仙」の一人であるので、指図に「せんにん」と記されていても何の不思議もない。
 内藤氏は、東南角の8畳部分の襖に賢人の絵が描かれていたので、信長記には「賢人の間」と記述されているのだと推論している。

部屋 E、F、 F'
 E、F、F' については少し複雑である。まず信長記では F → E → F' → G の順に記述されているが、部屋としては F と F' がつながっており、その隣に G がある。
 内藤氏は、指図の F と F' は一続きの2間×4間の16畳間ではなく、真ん中に(指図では描き漏れの)襖があって2間×2間の8畳間が二つ並んでいたのだろうと述べている。その上で、拝見記を書いた村井貞勝は、指図の D から一度 F に入り、東側の縁側に出てから E を見学した後、来た順路を戻ってF' 経由で G に入ったのではないかと推測している(内藤1976a:66)(この順路については後で図解する)。

 これに対して宮上氏は以下のように述べている。

『信長記』Fの「麝香之間八畳敷」と F' の仙人の繪のある八畳敷の二室を、『指図』の十六畳敷「せんにんノ間」F にあてておられる。しかし、『信長記』では F と F' の間に E の室があるのであるから、その解釋は妥當ではない。

出典:(宮上1977b:12)

 宮上氏は、内藤氏が想定する村井貞勝の拝見順路を理解しているのだろうか。もし反論するのであれば、この拝見順路が正しくないと考える理由を書く必要がある。単に記述の順序が F → E → F' だから部屋がこの順序で並んでいたはずだというのは反論の根拠にならない。
 村井貞勝を誰が案内したかは知らないが、D の北続きの東西一間×南北二間にある「瓢箪から駒」の絵を説明したあと、そのまま北側に続く F に案内をした後、登閣御門の上に部屋 E があることを思い出し、すぐに東の縁側にでて E に案内し、その後 F' に入ったと考えれば、何の矛盾もない。

部屋G
 G については信長記、指図ともに20畳敷で広さは一致している。また馬の絵があるという点も同じである。ちなみ宮上氏は「『指圖』ではそこに『馬ノくきゑノ間』とのわからないことを書いているが、馬の繪という點では『信長記』の記載と一致する。」(宮上1977b:12)と述べているが、この「馬ノくきゑノ間」については内藤氏が「馬の牧絵の間」であり「く」は「ま」を誤写したものであろうと述べている(内藤1967a:109)ことに言及がないのは不思議である。もしかすると宮上氏は、この内藤論文の最後にある付表の注記を読んでいないのかもしれない。

部屋 I、K、L と広縁 M
 部屋 I、K、L と広縁 M については、信長記と指図は一致している。

御くらノ上さしき
 指図を見ると北の端に「御くらノ上さしき」という東西4間×南北3間の部屋 J があるが、信長記には該当する部屋の記述がない。これについて内藤氏は「Ⅰ・II・Ⅲ類本に全く記述がないのは、祖本の記録者貞勝が、特殊な場所故拝見しなかつた結果と思われる。」と述べている(内藤1976b:29)。

舞台
 以上の他に指図にのみ記載されているものとして、吹抜け構造に張り出した舞台がある。指図には「ふたい」と記されている。この二間四方の舞台については「安土城考(その9)」でも取り上げたが、宮上氏は以下のとおり能舞台に関する定法に反しており、能舞台に関する常識のない大工の想像の産物だと決めつけている。

 ここでまず問題となるのは「ふたい」(舞臺)である。普通は正面三間・奥行き三間以上なのに、ここでは二間×二間の廣さしかない。その東に接續する「ゑん」(縁)を内藤氏は橋懸りと解しておられるが、それを假に認めたとしても普通左手にある橋懸りが右手にあるのは、やはり常規を逸脱しているといわざるを得ない。(中略)
 『郡書類従』所収『文禄三年前田亭御成記』の御成書院圖の縁のところに「此通り三間退、御舞臺有り」と記され、慶長十三年奥書の紀州大工平内家傳書『匠明』に「廣間と舞臺ノ間、三間をくべし」とあるように、當時舞臺は観客席となる座敷の縁端から舞臺前端までの距離を「三間」となるように設定する定法が存在していた。そしてそれが厳格に守られたことは當時の大名亭の指圖からも明らかであり、現に西本願寺對面所・北能舞臺がそうなつているのを見ることができる。しかるに『天主指圖』における座敷と舞臺の間隔は四間、あるいは二間で、それに反するのである。『天主指図』は、舞臺に關する常識さえない者によって作られたということになろう。

出典:宮上1977b:17

 しかし、宮上氏の言う能舞台の定法「匠明」は慶長13年(1608年)の奥書があるので、安土城築城開始の天正4年(1676年)の32年後に書かれたものである。
 「安土城考(その9)」でも述べたが、現在でも二間四方の能舞台の例はあるし、舞台正面の座敷までの距離が二間半という能舞台もある。定法に従わなければ能舞台ではないという宮上氏の考えは間違っている。
 おまけに、安土桃山時代は二間四方の舞台と三間四方の舞台が併存していた時期でもある。後藤慶二や山崎楽堂らによる「能楽研究会」の座談会記録が雑誌『能楽』に掲載されているが、その記事によれば、能や猿楽が始まった頃は二間四方の舞台が一般的で、足利時代末期になって三間四方の舞台が作られるようになり、桃山期は二間四方と三間四方の両方が用いられていたそうである。
 したがって、安土城天主二階の舞台が二間四方であっても何もおかしいことはない。

村井貞勝の拝見順路(二階)

 一階と同様に、信長記の記述から二階における村井貞勝の拝見順路を推定してみよう。

出典:内藤1994:169の二階平面図
(注)村井貞勝の拝見順路を赤矢印で表記

 スタートは A で最後は L である。A から B を見た後、一度南側の廊下(縁)に出て、D に入る。その先は、部屋 E、F、 F' の項で述べたように、D から F に入り、東側の廊下(縁)に出て短い階段を降りて E を見た後、同じ来た道を戻り F' を見て G、I を見学した後に北西の廊下(縁)に出て西側から K の納戸に入り、最後に L を見学している。一階と同様に反時計回りに見学していることがわかる。

(「安土城考(その17)」に続く)

安土城考(投稿一覧)https://note.com/torumaegawa/m/m5a8a4f123862

参考文献 (著者あいうえお順)

  • 内藤昌「安土城の研究(上)(下)」『国華』987号、1976.2(1976a)、同988号、1976.3(1976b)

  • 内藤昌『復元安土城』講談社選書メチエ17、1994.5

  • 内藤昌『復元安土城』講談社(講談社学術文庫)2006.12

  • 能舞臺研究會(六)」『能楽』第8巻6号、pp.33-39

  • 能舞臺研究會(十一)」『能楽』第8巻12号、pp.56-62

  • 宮上茂隆「安土城天主の復原とその史料について(上)(下)」『国華』998号、1977.3(1977a)、同999号、1977.4(1977b)


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