『スタートレック4 故郷への長い道』(1987年3月7日・パラマウント・レナード・ニモイ)
この映画を観たのは1987年3月。ヨーロッパ、アメリカへの一人旅を終えて帰ってきてすぐ、旧知の映画宣伝マン・田中英彦さんから「今回のスター・トレックいいですよ。シリーズを知らない人も楽しめます」と連絡を頂いて、公開初日に東銀座の東劇に出かけたのをよく覚えている。
勤めていたテレビの制作会社をやめて、映画原稿だけで食べていけるのか?と漠たる不安を抱え、ならばと帰国時期を決めずにモスクワ〜ドイツ〜ウイーン〜スイス〜イタリア〜スペイン〜モロッコまでユーレイル・パスであちこち回った。ロンドンからシカゴ、ニューヨークで最後にブロードウエイミュージカルを観て帰国して、まだ三日かそこらしか経っていなかった。
次の仕事をどうしようかと考えていたところに、田中英彦さんからの電話。
「冒頭に日本独自のダイジェスト映像も上映されます」と聞いて、初日に足を運んだ。
久しぶりにBlu-rayで、この映画をスクリーン投影しながら、その頃のことを思い出しておりました。というわけで、今回は16,000文字を超える長編レビューとなりました。宜しければ、お付き合いください。

―悪役も宇宙戦争もない、シリーズ最大の冒険
1986年11月26日に全米公開された『スタートレックⅣ 故郷への長い道』。原題は“Star Trek IV: The Voyage Home”。劇場公開時の邦題は『故郷への長い道 スター・トレック4』。日本では翌1987年3月に公開された。監督はミスター・スポック役のレナード・ニモイ。主演はジェームズ・T・カークを演じるウィリアム・シャトナー。劇場版第2作『カーンの逆襲』、第3作『ミスター・スポックを探せ!』から続く、いわゆる「ジェネシス三部作」の完結編にあたるが、色んな意味で前二作とは大きく異なる。
宿敵との激しい宇宙戦はなく、光線銃の撃ち合いもない。銀河征服を企む独裁者も登場しない。カークたちが立ち向かうのは、未来の地球へ飛来した巨大なエイリアン・プローブ。だが、そのプローブにも人類を滅ぼそうという悪意はない。プローブは、かつて地球の海に生息していたザトウクジラへ呼びかけているだけなのだ。
ところが、23世紀の地球では、ザトウクジラはすでに絶滅している。応答する者のいないプローブは、強大な信号を発し続ける。その影響で宇宙艦隊の機能は麻痺し、海面では激しい蒸発が起こり、地球環境そのものが崩壊の危機へ追い込まれていく。地球を救う唯一の方法は、プローブの呼びかけに応答できるザトウクジラを未来へ連れてくること。そこでカークたちは、前作でクリンゴン人から奪ったバード・オブ・プレイに乗り、20世紀末の地球へタイムトラベルする。
目的地は1986年のサンフランシスコ。未来人たちが、すでに失われたクジラを探すため、観客にとっての「現在」へやって来るのである。この奇抜な設定から生まれたのが、シリーズでもっとも明るく、もっともユーモラスで、そしてもっとも広い観客に愛された作品だった。
『故郷への長い道』は、SF映画の形を借りた環境保護の物語である。同時に、地位も宇宙船も故郷も失った仲間たちが、もう一度、自分たちの帰る場所を取り戻す物語でもある。さらにいえば、前二作で死と再生を経験したスポックが、再び「仲間の一人」へ戻っていく物語として構成されている。
第一章 悪役のいない『スター・トレック』
前作『ミスター・スポックを探せ!』に続いて監督を務めたレナード・ニモイは、プロデューサーのハーヴ・ベネットとともに、第4作をそれまでとはまったく違う映画にしようと考えた。第2作ではスポックが死んだ。第3作ではカークの息子デヴィッドが殺され、長年ともに航海を続けてきたエンタープライズ号も自爆した。二作続けて重い喪失を描いた以上、次は観客が笑顔で劇場を出られる映画にしたい。
そこで、今回は主要人物を死なせない。光線銃を乱射しない。明確な悪役を登場させない。その方針から生まれたのが、『故郷への長い道』だった。本作の危機を生み出すエイリアン・プローブは、人類に敵意を持っているわけではない。プローブから見れば、自分たちが長い年月にわたって交信していた地球上の知的生命体へ、いつものように呼びかけているにすぎない。その声があまりに強力であるため、結果として人類文明を破壊しかけているのである。つまり、本作には倒すべき悪人がいない。
問題の原因は、人類がザトウクジラを絶滅させてしまったことにある。人類は、自分たちだけが地球上で意味のある知的生命体だと思い込んでいた。しかし、宇宙の彼方からやって来た存在が対話を求めていた相手は、人間ではなくクジラだった。
この逆転が、本作最大のアイデア。23世紀の科学技術をもってしても、絶滅した生物を蘇らせることはできない。ジェネシス装置は生命のない場所に生命を生み出すことができたが、一度失われた種と、その種が蓄積してきた記憶や文化までは取り戻せない。未来の人類は高度な文明を築いた。恒星間を航行し、物質を転送し、異星人と外交関係を結んでいる。それでも、自分たちの祖先が絶滅させた生命を元へ戻すことはできない。だからカークたちは、過去へ向かう。
未来の危機を解決する鍵が、未来の科学ではなく、20世紀に生きている二頭のクジラに託されているのである。ここには、『スター・トレック』らしい思想がある。未知の存在に出会った時、まず攻撃するのではなく、その声の意味を理解しようとすること。相手を敵と決めつけず、自分たちの側に問題がある可能性を考えること。
人類の危機を、人類中心主義から離れた視点で捉え直すこと。宇宙戦争を描かないことは、単に明るい映画を作るための選択ではなかった。戦う代わりに理解する。敵を倒す代わりに、失われた対話を回復する。本作は、シリーズ本来の理念を、最も親しみやすい娯楽映画の形で描こうとしたのである。
第二章 ジェネシス三部作の完結
『故郷への長い道』は、単独でも楽しめる明るいSFコメディとして作られている。しかし、物語は明確に『カーンの逆襲』『ミスター・スポックを探せ!』から連続している。『カーンの逆襲』で、スポックはエンタープライズと仲間たちを救うため、自らの命を犠牲にした。
「多数の必要は、少数の必要に勝る」
それがスポックの論理だった。続く『ミスター・スポックを探せ!』では、その論理をカークたちが逆転させる。一人のスポックを救うため、多数の仲間たちが地位と名誉を捨て、宇宙艦隊の命令を破り、エンタープライズ号さえ犠牲にした。そして第4作では、スポックを救った仲間たちが、今度は二頭のクジラを救うことで、地球上のすべての生命を救う。一人を救うこと。二頭を救うこと。それが最終的に、多数を救うことへつながっていくのがイイ。
「多数か少数か」という単純な二者択一ではなく、一つの生命を大切にする行為そのものが、やがて無数の生命を救う可能性を持つ。それが、ジェネシス三部作を通じて描かれたテーマの到達点。『カーンの逆襲』が死の物語であり、『ミスター・スポックを探せ!』が復活の物語なら、『故郷への長い道』は、再生した者が再び共同体へ戻る物語である。その中心にいるのがスポックだ。スポックの肉体と精神は、前作の終盤で再び一つになった。
しかし、記憶も人格も完全には戻っていない。バルカン星で彼は、膨大な知識を取り戻すための再教育を受けている。コンピューターから高速で出題される科学、論理、歴史の問題には完璧に答えられる。しかし最後に投げかけられた、「どう感じるか」という問いには答えられない。知識は戻った。論理も戻った。だが、仲間たちと過ごした時間、その中で育まれた感情までは、まだ十分に取り戻せていないのである。母アマンダは、そんな息子に問いかける。カークたちと地球へ帰るのか。
スポックは、それを「論理的な選択」だと説明する。しかしアマンダは見抜いている。息子は、論理だけで彼らと行動を共にするのではない。スポック自身は、まだその感情に名前をつけられない。けれども、彼の身体と心は、すでに仲間たちのもとへ戻ろうとしている。
『故郷への長い道』は、スポックが再び「人間らしさ」を獲得する物語ではない。スポックは人間になるのではなく、バルカン人としての論理と、地球人の母から受け継いだ感情の両方を、自分自身の一部として受け入れていく。それこそが、彼の本当の帰還なのである。

第三章 未来人が「現在」へやって来る
バード・オブ・プレイは、太陽の重力を利用して時間の壁を越え、1986年の地球へ到着する。この設定は、テレビシリーズ『宇宙大作戦』で用いられた時間旅行の方法を発展させたものだ。しかし、そこで待っているのは、未来の科学を駆使した壮大な冒険ではない。
必要なのは、現代社会で生きていくための現金である。カークたちは23世紀から来たため、当然20世紀の通貨を持っていない。路線バスに乗るにも小銭がいる。食事をするにも金がいる。電話をかけるにも使い方が分からない。宇宙艦隊の伝説的なクルーたちが、当時の観客にとってありふれた日常生活に右往左往する。そのカルチャーギャップが、本作の笑いを生み出している。
カークとスポックはザトウクジラを探す。スコッティとマッコイは、クジラを収容する巨大水槽の材料を手に入れる。スールーは、その材料を運ぶためのヘリコプターを調達する。ウフーラとチェコフは、バード・オブ・プレイのエネルギー源に必要な高エネルギー粒子を得るため、原子力艦を探す。
普段なら艦橋で一つのチームとして働く仲間たちが、1986年のサンフランシスコでは、それぞれ小さな班に分かれて行動する。そのため、一人ひとりの個性が際立つ。チェコフはロシア訛りの英語で、「ニュークリア・ウェッセルはどこですか?」と街の人々に尋ねて回る。冷戦下のアメリカで、ロシア人風の男が原子力艦の場所を聞いているのだから、怪しまれない方がおかしい。それでもチェコフは、何の疑いもなく真剣に質問を続ける。
この街頭場面では、多くのエキストラに交じって、撮影中に偶然その場に居合わせた一般女性が自然に返答し、そのやり取りが本編へ残されたことで知られている。脚本通りに統制された宇宙船内の場面とは違い、実際のサンフランシスコの空気や、市民たちの反応が映画の中へ入り込んでいる。それが本作独特の軽やかさを生み出している。
未来人が現代へ来たのではなく、『スター・トレック』の登場人物たちが、突然1980年代の現実世界へ飛び出してきたように感じられるのである。この構成は、長年シリーズを見続けてきたファンにとっても実に新鮮。それまでカークたちは、未知の惑星や異星文明を訪れ、相手の習慣に戸惑ってきた。本作では、その構図が逆転するのがいい。
彼らにとっての異星文明は、観客が暮らしている20世紀のアメリカなのだ。つまり本作は、私たち自身の社会を、未来人の目を通して「奇妙な文明」としてプレゼンテーション。現金を使い、騒音をまき散らし、原子力に依存し、クジラを絶滅させようとしている社会。笑いの背後には、現代文明への穏やかな批評が込められているのである。
第四章 言葉を学び直すスポック
現代社会でもっとも困惑するのは、記憶を完全には取り戻していないスポックである。彼は地球人の習慣を理解しようとするが、何事も文字通りに受け取ってしまう。カークが乱暴な言葉を口にすると、スポックは20世紀では罵倒語を会話に交えることが社会的な慣習なのだと考える。
そこで彼も、覚えたばかりの言葉を、まったく不適切な場面で使い始める。理屈としては理解している。だが、言葉の温度や間合いが分からない。そのぎこちなさが笑いになる。同時にそれは、スポックが人との関係を一から学び直していることも示している。言葉は、単に意味を伝えるための記号ではない。誰が、誰に、どのような感情で語るかによって意味が変わる。
論理だけでは完全に理解できない人間の言語世界を、スポックはもう一度経験し直しているのである。その象徴的な場面が、路線バスの中である。パンク青年がラジカセから大音量で音楽を流している。カークは音量を下げるよう頼むが、青年は指を立てて拒絶する。するとスポックが、バルカン・ナーブ・ピンチで青年を眠らせる。静かになった車内で、乗客たちから拍手が起こる。このパンク青年を演じたのは、本作に準プロデューサーとして参加していたカーク・サッチャーである。
ラジカセから流れる「I Hate You」も、撮影のために作られたオリジナル曲だった。短い場面だが、ここには本作の精神がよく表れている。未来人たちは、20世紀社会に対して優越的な立場にいるわけではない。彼らもまた現代の騒音、交通、金銭、言葉の乱れに振り回される。しかし、その混乱を排除するのではなく、驚き、困り、時には笑いながら、その時代の人々と関わっていく。カークもまた、現代の罵倒語を自在に使いこなしているわけではない。
スポックに説明する一方で、自分自身も時代の空気に合わせて言葉を選んでいるにすぎない。二人のやり取りは、教師と生徒というより、異文化の中で互いに助け合う友人同士の会話である。『故郷への長い道』は、未来社会が現代を裁く物語ではない。未来と現在が、互いの奇妙さを映し出すコメディなのである。そしてスポックは、笑いの中で少しずつ、かつて自分が持っていた人間関係の感覚を取り戻していく。
第五章 スコッティと透明アルミニウム
20世紀で巨大なクジラを運ぶには、バード・オブ・プレイの貨物室を水槽へ改造しなければならない。二頭のザトウクジラと大量の海水を支えるには、軽量で強度の高い透明素材が必要となる。そこでスコッティとマッコイは、地元企業を訪ねる。
未来の技術者スコッティが提示するのは、「透明アルミニウム」の製造方法である。彼は、会社のコンピューターへ向かう。ところが、1980年代のパソコンには音声で命令しても反応しない。スコッティはMacintosh Plusのマウスを持ち上げ、それをマイクのように口元へ近づける。「コンピューター?」返事はない。そこでマッコイからキーボードを使うよう促されると、スコッティは、「何と原始的な」と呟き、猛烈な速さで入力を始める。この場面は、シリーズを代表する名場面の一つとなった。
未来人と現代のテクノロジーの差を、専門用語ではなく、マウスをマイクと間違えるという単純な動作で表現したからである。しかも、スコッティは古いコンピューターを見下しながら、その仕組みを瞬時に理解し、使いこなす。彼は単なる機械好きではない。どの時代の技術であっても、その原理を読み解き、目的に合わせて活用できる真の技術者なのだ。
同時に、この場面にはタイムトラベル物につきまとう矛盾も含まれている。スコッティは、20世紀には存在しないはずの技術を過去へ教えてしまう。それによって未来の歴史が変わる可能性はないのか。マッコイがそれを心配すると、スコッティは、相手の社長こそ透明アルミニウムの発明者だったかもしれないと平然と言う。
原因と結果が円環を作る、いわゆる因果のループである。しかし本作は、その矛盾を深刻に論じない。「そうだったかもしれない」と笑って済ませる。SF設定の厳密さよりも、登場人物の魅力と物語のリズムを優先する。その軽やかさこそ、本作の成功の理由。スコッティが未来の知識を一方的に与えるだけでなく、20世紀の企業家もまた、その価値を理解し、協力する。未来と現在は、対立するのではなく、技術を媒介に手を結ぶ。クジラを救うために必要なのは、未来の宇宙船だけではない。20世紀の工場、素材、輸送手段、そして人々の協力も必要なのである。
第六章 二頭のクジラ、ジョージとグレイシー
カークとスポックは、サンフランシスコの鯨類研究所で二頭のザトウクジラを発見する。雄のジョージと、妊娠中の雌グレイシーである。その由来は、1930年代から50年代にかけて大人気だったコメディチーム、ジョージ・バーンズとグレイシー・アレン。日本でいうと「ワカナ・一郎」「京唄子・鳳啓介」のような感じである。
二頭を世話しているのが、海洋生物学者ジリアン・テイラー博士だ。彼女はクジラを深く愛しながらも、研究所の方針によって、二頭が海へ放されることを受け入れなければならない。自然へ帰すことは正しい。しかし外洋へ出れば、捕鯨船に殺される可能性がある。
ジリアンは、その矛盾に苦しんでいる。スポックは水槽へ入り、グレイシーと精神融合する。人間とバルカン人の間で行われてきた精神融合が、ここでは人間以外の生命へ広げられる。スポックは、グレイシーが妊娠していることを知り、彼女自身から未来へ行くことへの同意を得たと語る。
もちろん、ジリアンにとっては信じ難い話である。しかし本作は、人間だけが言葉や意思を持つという前提を静かに崩していく。プローブはクジラと交信していた。スポックもクジラの精神に触れることができる。ならば、人間が理解していないだけで、クジラにはクジラの言葉と記憶と社会があるのではないか。
ここに環境保護という主題の核心がある。クジラを守るべきなのは、かわいらしい動物だからではない。人間に役立つからでもない。人間とは異なる仕方で世界を認識し、他者と交信し、世代を超えて何かを受け渡している存在だからである。
人類は、その価値を理解しないまま、彼らを絶滅させようとしている。23世紀の危機は、20世紀の人類が、自分たちとは異なる生命の声を聞こうとしなかった結果として起きる。つまり未来の地球を救うために必要なのは、クジラを物として運ぶことではない。クジラの声を、未来へ連れていくことなのである。
グレイシーが妊娠しているという設定も重要。カークたちが未来へ連れていくのは、現在生きている二頭だけではない。まだ生まれていない次の世代も同時に運ぶ。それは、絶滅を免れるための最小限の希望であると同時に、未来へ生命を受け渡す象徴でもある。ジョージとグレイシーは、物語を動かす道具ではない。未来へつながる記憶と生命そのものなのである。

第七章 ジリアン・テイラーという現代人
企画の初期段階では、当時パラマウント最大のスターの一人だったエディ・マーフィの出演が検討されていた。初期脚本では、カークたちが20世紀で出会う人物として、宇宙人の存在を信じる大学教授または天体物理学者の役が構想されていた。しかし企画は実現しなかった。
マーフィ側が役柄に満足しなかったことに加え、スタジオ側にも、人気絶頂のコメディスターと『スター・トレック』を組み合わせることで、どちらの個性も弱まるのではないかという懸念があった。最終的にマーフィは『ゴールデン・チャイルド』へ出演し、現代側の主要人物はクジラ研究者のジリアン・テイラー博士へ書き換えられた。演じるはキャサリン・ヒックス。テレビ映画「伝説のマリリン・モンロー Marilyn: The Untold Story」でモンローを演じた人。
結果として、この変更は作品に大きな利益をもたらした。ジリアンは、単なる案内役ではない。彼女は、20世紀の人類が何を失おうとしているのかを理解している人物である。未来から来たカークたちにとって、クジラは地球を救うために必要な存在。しかしジリアンにとっては、ジョージとグレイシーは、いま目の前で生きている、かけがえのない生命である。未来の大義と、現在の感情。その二つをつなぐのがジリアンなのだ。カークとの間には、軽妙な男女の掛け合いと、淡いロマンスの予感がある。
カークは正体を隠しながら、未来の地球を救うためにクジラが必要だと説明しなければならない。ジリアンは彼の言葉を疑いながらも、彼が普通の人物ではないことを感じ取る。このやり取りは、従来のカークの恋愛譚とは少し異なる。
ジリアンはカークに魅了されるだけの女性ではない。自分の判断で二頭を守り、自分の意志で未来へ行く。ジョージとグレイシーを未来へ送るだけでなく、自分も未来へ行くことを決断するのは、クジラたちが未来で生きていくためには、彼らを理解し、守る専門家が必要だからである。ジリアンもまた、自分の帰るべき場所を選ぶ。
彼女にとっての「故郷」は、1986年という時代ではなく、守るべき生命のそばにある。未来へ同行する彼女は、20世紀の人類を代表する存在でもある。過去のすべてが愚かだったわけではない。失われようとしている生命を理解し、救おうとしていた人々もいた。ジリアンの存在によって、本作は単純な現代批判ではなく、時代を超えた協力の物語になるのがイイ。
第八章 サンフランシスコという異星世界
『カーンの逆襲』と『ミスター・スポックを探せ!』は、宇宙船内や惑星セットを中心とする、密室的な映画だった。それに対し、『故郷への長い道』は、サンフランシスコの街へ飛び出していく。ゴールデン・ゲート・ブリッジ。街路。公園。バス。海辺。水族館。カークたちは、観光客のように街を歩き、一般市民に交じって移動する。
このロケーション撮影が、映画全体に開放感をもたらしている。『スター・トレック』の登場人物たちは、それまで未来的なセットの中に存在していた。ところが本作では、実在する街の雑踏へ入り込む。通行人たちの視線、車の音、風景の色、1980年代の服装。そのすべてが、映画の世界と観客の現実を直接結びつける。本作がSFファン以外の観客にも受け入れられた理由の一つは、物語の大半が宇宙ではなく、誰もが知る現代の街で展開することにある。
難しい宇宙艦隊の組織も、惑星間政治も理解する必要がない。必要なのは、変わった服を着た未来人たちが、クジラを探して右往左往しているという状況を楽しむことだけだ。しかし、サンフランシスコは単なる現代的な背景ではない。カークたちにとっては、未知の習慣に満ちた異星世界である。彼らは道に迷い、文化を誤解し、現金の価値も分からず、周囲から奇異の目で見られる。
テレビシリーズで数多くの惑星を訪れた彼らが、今度は自分たちの母星の過去を異文化として経験する。この反転が、本作の笑いと批評性を同時に支えている。一方で、美術と特殊効果が後退したわけではない。冒頭と終盤には、プローブに覆われた未来の地球、バルカン星、宇宙艦隊本部、バード・オブ・プレイ、そして新たなエンタープライズが登場する。現代のサンフランシスコを実景で描くことにより、未来の世界を見せる場面へ製作資源を集中することができた。
本作は単純な低予算映画ではなく、前作より製作規模は拡大している。ただし、過去作のセットや模型を活用し、現代劇として実景ロケを増やすことで、費用を画面の効果へ結びつける工夫がなされている。制約を隠すのではなく、物語そのものを制約に適した形へ変える。そこに、ニモイ監督と製作陣の賢さがあった。
第九章 本物よりも本物らしいクジラ
本作最大の技術的課題は、ザトウクジラをどのように撮影するかだった。本物のクジラを俳優の指示通りに泳がせることはできない。まして、未来の宇宙船へ運び込む場面や、貨物室の中で泳ぐ場面を実写だけで表現することは不可能である。そこで特殊効果を担当したILMは、実際のクジラの映像、精巧な模型、無線操縦によるミニチュア、光学合成を組み合わせた。クジラの模型は、動きや皮膚の質感まで細かく研究して作られた。
完成映像はあまりに自然で、本物のクジラへ接近して撮影したのではないかと疑われたという逸話も伝えられている。重要なのは、観客に技術を見せつけることではない。ジョージとグレイシーを、単なる特殊効果ではなく、登場人物として感じさせることである。二頭には台詞がない。人間のような表情もない。それでも観客は、ジリアンが彼らを失うことを恐れる気持ちを理解し、捕鯨船が近づく場面では危機を感じる。
未来の海へ放たれ、プローブへ応答する場面では、彼らが長い沈黙を破って話し始めたような感動を覚える。特殊効果が成功しているのは、本物そっくりだからだけではない。物語の中で、二頭のクジラが守るべき生命として存在しているからである。本作の映像には、1980年代の特撮映画ならではの手触りがある。
模型は実際に水中へ置かれ、光を受け、波を起こす。水の抵抗や浮力は、すべてが計算通りになるわけではない。その物理的な偶然が、映像に生命感を与えている。ジタル映像では自在に動かせるものを、当時のスタッフは現実の水と模型の重さを相手に作り上げた。その制約が、クジラの動きを過剰に演技的なものにせず、むしろ静かで巨大な生命として見せている。
ジョージとグレイシーは、物語上の「鍵」であるだけではない。カークたちと同じように、観客が無事を願う登場人物となった。それこそが、ILMの技術が達成した最大の成果だったのである。
第十章 捕鯨船との対決
ジョージとグレイシーは、研究所から予定より早く海へ放される。ジリアンはそのことを知り、カークに助けを求める。バード・オブ・プレイは、二頭を探して海上へ向かう。そしてクジラたちは、捕鯨船に追われている。ここで本作は、初めて明確な対立を描く。しかし捕鯨船の乗組員たちも、宇宙の悪役ではない。彼らは当時の現実社会に存在した産業の一部として、クジラを追っているだけである。
だからこそ、その光景は重い。未来人の視点から見れば、彼らが行っていることは、地球を滅亡させかねない行為である。けれども、当人たちはその未来を知らない。バード・オブ・プレイが遮蔽を解き、巨大な姿を捕鯨船の前に現す。乗組員たちは恐怖に包まれ、船を引き返す。光線で破壊する必要はない。宇宙船の存在そのものが、人間の傲慢さを打ち砕く。
未来の人類は、20世紀の人類を裁くために来たのではない。二頭のクジラを救うために来た。その目的の違いが、本作をシンプルな文明批判から救っている。捕鯨に反対するメッセージは明確でありながら、映画は人間を悪魔化しない。問題なのは、特定の悪人ではなく、人類全体が別の生命の価値を理解していないことにある。だからこの映画には、倒せばすべてが解決する悪役がいないのである。
この場面は、この映画そのものを象徴している。未来の地球を脅かしていたプローブにも悪意はない。クジラを追う捕鯨船員にも、地球を滅ぼす意図はない。しかし、悪意がなくても破壊は起こる。知らないこと、想像しないこと、他者の声を聞かないことが、取り返しのつかない結果を生む。本作の環境思想は、善人と悪人を分ける単純なものではない。自分が日常的に行っている行為が、遠い未来で何を引き起こすのか。その想像力の欠如こそが、本当の危機なのだと訴えているのである。
第十一章 未来へクジラを運ぶ
ジョージとグレイシーを収容したバード・オブ・プレイは、再び太陽へ接近する。貨物室には二頭のクジラと大量の海水が収められ、さらにジリアンも同行している。ただでさえ損傷を抱えたクリンゴン艦にとって、それは過酷な航海である。太陽の重力を利用して時間の壁を越えるという方法も、成功が保証されているわけではない。カークたちは、未来へ戻るために、過去へ来た時以上の危険を冒す。
この帰還航海には、前作までの旅とは違う緊張感がある。彼らが守っているのは、兵器でも機密情報でもない。二頭の生き物である。水温、呼吸、貨物室の構造、船体への負荷。どれか一つに問題が起これば、クジラは死ぬ。23世紀の地球を救う計画は、きわめて巨大な目的を持ちながら、実際には二頭の生命を注意深く守るという繊細な作業にかかっている。船は時間の壁を越え、23世紀へ帰還する。
しかし、プローブによる影響で制御を失い、地球の海へ墜落する。貨物室は水に満たされ、仲間たちはクジラを外へ出そうとする。ところが扉は開かない。スポックは水中へ入り、手動で扉を開こうとする。前作で放射線に満ちた機関室へ入った時と同じように、彼はまた一人で危険な場所へ向かう。しかし今回は、死ぬためではない。
生命を解放するためである。ジョージとグレイシーは海へ出る。二頭はプローブの呼びかけに応答する。長い交信の末、プローブは信号を止め、地球を離れていく。人類は救われた。この時、地球を救ったのはカークの命令でも、スポックの科学知識でも、宇宙艦隊の兵器でもない。クジラの声だった。文明を救ったのは文明ではなく、文明によって失われかけた生命だったのである。
第十二章 「どう感じるか」という問い
地球が救われた後、スポックは、グレイシーとの精神融合について語る。彼は、未来へ来る意思があるかどうかを、グレイシー本人に尋ねたという。この言葉には、本作におけるスポックの変化が凝縮されている。冒頭のスポックは、知識と論理を取り戻すための訓練を受けていた。どの問いにも正しく答えられる。しかし、「どう感じるか」という問いには答えられなかった。
正解を計算できる問題ではない。本人の内側にある感情を、自分自身で見つけなければならない問いだからである。20世紀での経験を通じて、スポックは少しずつ、その答えへ近づいていく。彼はカークと歩き、現代人の言葉を学び、乗客たちの苛立ちを理解しようとし、グレイシーの精神に触れた。そして、クジラを単なる任務上の対象として扱わず、彼女自身の意思を確かめようとした。
生命を救うことは論理的だった。しかし同時に、彼はグレイシーの不安や意思を尊重した。それは、以前のスポックにも備わっていた資質である。ただ、復活したばかりの彼は、それを一から発見し直している。本作におけるスポックの回復は、失われた記憶が突然すべて戻ることではない。仲間と行動し、他者の生命に触れ、感情を必要とする場面を一つずつ経験することで、自分が誰だったのかを身体で思い出していくことなのである。
スポックは、論理を捨てたわけではない。グレイシーの同意を確認することは、倫理的にも論理的にも正しい。だが、以前の彼なら、任務の必要性を優先していたかもしれない。この映画では、論理と感情が対立するのではなく、互いを補い合っている。相手の意思を尊重することが、最も論理的な行動になる。その境地へ戻ることこそ、スポックの再生の完成なのである。
第十三章 裁判という名の帰還
地球を救った後、カークたちは宇宙艦隊の裁判へ出頭する。彼らは前作で、命令違反、エンタープライズ号の強奪、宇宙艦隊施設への侵入など、数々の罪を犯していた。地球を救ったからといって、その行為がなかったことになるわけではない。彼らは自分たちの決断に責任を負うため、逃げることなく帰還したのである。しかし、地球を救った功績により、仲間たちへの訴追は取り下げられる。カークだけが、上官の命令に背いた責任を問われる。
その処分は、提督から大佐への降格だった。一見すれば罰だが、カークにとっては解放でもある。提督として机に向かうより、宇宙船の艦長として未知の世界へ向かう方が、彼らしい。第2作の冒頭で、カークは老いと地上勤務に閉塞感を抱いていた。自分は過去の英雄となり、若い士官たちを見送るだけなのか。その焦りが、彼の中にあった。
三部作の終わりに、カークは再び艦長へ戻る。スポックを失い、息子を失い、エンタープライズを失い、宇宙艦隊での地位を失った。その長い旅の果てに、彼は自分が本当に生きるべき場所を取り戻すのである。この降格は、シリーズにとっても重要な意味を持つ。カークは再び、仲間たちと同じ船に乗り、同じ危険を引き受ける現場の指揮官になる。
三部作を通じて、彼は老いに抗うのではなく、自分の経験を生かせる場所を見つけた。若返ったわけではない。失ったものが戻ったわけでもない。それでも、自分が進むべき未来を選び直すことはできる。裁判の場面は処罰ではなく、カークが本来の自分へ帰るための通過儀礼なのである。
第十四章 新しいエンタープライズ
裁判を終えた仲間たちは、新たな宇宙船へ案内される。シャトルの窓外を、最新鋭艦エクセルシオールが通り過ぎる。スールーは、あの船を任されるのではないかと期待する。観客もまた、カークたちが次世代艦へ移るのだと考える。しかしシャトルが向かった先には、見慣れた形の宇宙船が待っている。
U.S.S.エンタープライズ。船体には、新たな登録番号が刻まれている。NCC-1701-A。失われたエンタープライズの名を継ぐ、新しい船である。この場面には、懐かしさと新しさが同時にある。船の形は、前作までのエンタープライズに近い。艦橋にも、かつての居場所へ戻ったような安心感がある。しかし、同じ船ではない。旧エンタープライズは、ジェネシス惑星の空で燃え尽きた。その喪失は取り消されない。
新しい船は、過去を復元するためではなく、名前と精神を継承するために存在する。その瞬間、乗組員たちは完全に故郷へ帰る。故郷とは地球ではない。宇宙艦隊本部でもない。彼らにとっての故郷は、エンタープライズの艦橋であり、ともに宇宙へ旅立つ仲間たちのいる場所なのだ。
NCC-1701の末尾に「A」を加えるという表記は、以後のシリーズに大きな伝統を残した。エンタープライズD、E、そして後の時代の船々へ。船体や乗組員が変わっても、エンタープライズという名前は受け継がれる。それは単なる宇宙船の登録方法ではない。未知の世界を恐れず、異なる生命と対話し、よりよい未来を目指すという理念の継承である。『故郷への長い道』のラストは、三部作の終幕であると同時に、新しい航海の出発点なのである。
第十五章 音楽が告げる新しい出発
本作の音楽を担当したのはレナード・ローゼンマン。劇場版第1作のジェリー・ゴールドスミス、第2作と第3作のジェームズ・ホーナーが、荘厳で重厚な宇宙の音楽を作り上げたのに対し、ローゼンマンは明るく、軽快で、どこか躍動感のある新しい主題曲を書いた。それは本作のトーンによく合っている。
この映画でカークたちは、悲劇を背負いながらも、再び笑うことを覚える。現代の街で道に迷い、金に困り、言葉を間違え、バスに揺られる。音楽もまた、宇宙の神秘を見上げるのではなく、登場人物たちと一緒に街を歩き出す。前二作の音楽には、死と喪失、運命との対決という重さがあった。今回の音楽には、過去を引きずりながらも、もう一度前へ進もうとする明るさがある。それは悲劇を忘れた軽さではない。悲劇を経験したからこそ生まれる、再出発の喜びに満ちている。
一方で、アレクサンダー・カレッジによるテレビシリーズのテーマも引用される。新しい冒険でありながら、そこには『宇宙大作戦』へ帰ってきたという感覚がある。テレビシリーズから劇場版へ。重厚な第1作から、ジェネシス三部作へ。シリーズは何度も形を変えてきた。ローゼンマンの音楽は、その歴史を背負いながら、本作を独自の作品として成立させている。
また、本作の主題曲には、行進曲のような前向きさと、コメディに似合う跳躍感がある。それは、カークたちが軍人でありながら、本作では戦うためではなく生命を救うために行動することとも響き合う。艦隊の行進ではなく、仲間たちの冒険の音楽。『故郷への長い道』は、帰還の映画であると同時に、再出発の映画なのだ。音楽は、その新しい航海の始まりを高らかに告げている。
第十六章 1986年という時代
この映画が公開された1986年は、国際捕鯨委員会が決定した商業捕鯨モラトリアムが、現実に実施へ移された時期と重なる。「クジラを救え」という運動は、すでに世界的な環境保護の象徴となっていた。海洋汚染、森林破壊、核兵器、絶滅危惧種。人類の科学と経済活動が、地球環境そのものを脅かしているという認識が、広く共有され始めた時代でもある。
しかしこの映画は、その主張を声高なスローガンとして掲げてないのもいい。23世紀という未来から1986年を振り返ることで、当時の観客に、自分たちの行動が未来からどのように見えるかを考えさせる。クジラの絶滅は、遠い未来の架空の出来事として描かれる。けれども、その未来は、現在の延長線上にある。
ジョージとグレイシーを救わなければ、彼らの子孫は生まれない。クジラの声が未来へ受け継がれなければ、地球は救われない。人間が自然を守ることは、自然に対する慈善ではない。人類自身の生存条件を守ることでもある。この映画が優れているのは、その主張がお説教くさくないと。観客は、カークたちの失敗に笑い、スポックの奇妙な言葉遣いに笑い、スコッティがマウスに話しかける姿に笑う。その楽しい冒険を見終えた時、クジラを絶滅させることの愚かさが自然に心へ残る。
環境保護と大衆娯楽。一般には両立が難しい二つの要素を、本作は明るいタイムトラベル・コメディとして結びつけた。1986年には捕鯨船が存在する一方で、ジリアンのようにクジラを守ろうとする人々もいる。人類は破壊者であると同時に、過ちに気づき、未来を変えることもできる。その希望を失わわなかったから、この映画は時代の風雪を超えることができた。
第十七章 次世代への架け橋
『故郷への長い道』は、オリジナルキャストによる劇場版の中でも最大級の商業的成功を収めた。熱心なファンだけでなく、普段はSFを観ない観客、家族連れ、女性層にも広く受け入れられた。その理由は明快。複雑な設定を知らなくても楽しめる。明確な悪役がいない。暴力に頼らない。登場人物たちのキャラクターが分かりやすい。そして、笑いと冒険の中に、普遍的な主題がある。本作の製作とほぼ同時期、パラマウントでは新しいテレビシリーズ『新スター・トレック』の企画が進んでいた。
したがって、第4作の成功を見てから企画が始まったわけではない。しかし、本作の大ヒットが、『スター・トレック』というシリーズが一部のファンだけのものではなく、幅広い観客へ届く力を持っていることを証明したのは確かである。翌1987年、『新スター・トレック』の放送が始まる。
新たなエンタープライズ。新たな艦長。新たな時代。本作のラストで、NCC-1701の名がNCC-1701-Aへ受け継がれたように、『スター・トレック』という物語そのものも、次の世代へ継承されていく。この映画の「SFマニアでなくても楽しめるキャラクタードラマ」という方向性も、後のシリーズに大きな可能性を与えている。
専門用語や設定だけに頼るのではない。人物同士の信頼、文化の違い、現代社会への問いかけを、親しみやすい物語として描く。その姿勢は、『新スター・トレック』以降のシリーズにも受け継がれていく。また、タイムトラベルを悲劇や歴史改変だけでなく、異文化コメディとして描いたことも大きな遺産となった。
未来人が過去へ行き、その時代の日常に戸惑う。その笑いの中から、現在の社会を客観的に見つめ直す。この形式は、後の『スター・トレック』作品でも繰り返し用いられることになる。『故郷への長い道』は、ジェネシス三部作を終わらせただけではない。シリーズが次の時代へ進むための、新しい語り口を発見した作品でもあったのである。
エピローグ 故郷とはどこにあるのか
『スタートレックⅣ 故郷への長い道』という邦題は、この映画の本質をよく表している。原題の“The Voyage Home”は、「故郷への航海」という意味である。カークたちは、宇宙艦隊の命令に背いた罪を償うため、地球へ帰ろうとしている。スポックは、失われた記憶と感情の故郷へ帰ろうとしている。ジョージとグレイシーは、未来の海へ運ばれ、絶滅した種が再び生きることのできる場所へ向かう。ジリアンは、二頭を守るため、自分の時代を離れて未来へ行く。そしてエンタープライズの仲間たちは、新しい船の艦橋へ帰っていく。
しかし、故郷とは単に生まれた場所ではない。自分が必要とされる場所。自分が誰であるかを思い出させてくれる場所。守りたい誰かがいる場所。ともに旅を続ける仲間がいる場所。そこが故郷なのである。『カーンの逆襲』で、スポックは多数を救うために死んだ。『ミスター・スポックを探せ!』で、仲間たちは一人のスポックを救うためにすべてを捨てた。そして『故郷への長い道』では、その仲間たちが二頭のクジラを救うことで、地球上のすべての生命を救った。
多数と少数。論理と感情。未来と過去。人間と自然。一見対立しているものは、実は切り離されてはいない。一つの生命を救うことは、世界を救うことにつながる。過去を守ることは、未来を守ることになる。他者の声を聞くことは、自分自身が生き延びる道を見つけることでもある。
本作に登場するプローブは、人類へ問いかける。お前たちは、地球でともに生きてきた別の生命の声を覚えているか。スポックに投げかけられた問いも同じである。お前は、何を知っているかではなく、何を感じるのか。その二つの問いに答えるための旅が、『故郷への長い道』だった。宇宙戦争も、残酷な悪役も必要なかった。必要だったのは、二頭のクジラと、七人の仲間と、失われた声に耳を澄ます想像力だった。
レナード・ニモイは、ロケーション撮影、既存資産の活用、俳優たちの個性と遊び心、そしてシリーズが長年育ててきた人間関係を組み合わせ、笑いながら環境問題を考えられる、稀有な娯楽映画を作り上げた。『故郷への長い道』は、もっとも異色の『スター・トレック』である。同時に、未知の生命を尊重し、対話によって危機を乗り越え、仲間とともに未来へ進むという、『スター・トレック』本来の理念をもっとも親しみやすい形で示した作品でもある。
だからこそ、この映画は今も古びない。私たちの未来が危機に直面するたび、映画は静かに問いかけてくる。いま、私たちが耳を澄ますべき声は何なのか。そして、私たちが帰るべき故郷とは、どこにあるのか。
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