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『スター・トレック5 新たなる未知へ』(1989年6月24日・パラマウント・ウイリアム・シャトナー)

シリーズ第5作『スター・トレックⅤ 新たなる未知へ』(1989年6月24日・パラマウント・ウイリアム・シャトナー)は、平成に入ってから最初のTOS映画だった。封切り時に劇場で観れずに、レンタルビデオで初めて見たが、その頃、夢中だった「新スター・トレック」が面白かっただけに、色々とがっかりした。アメリカでも日本でも、ファンの間でも「失敗作」とされ、当時の僕の感想も、これまでの四作品とは大きく異なるものだった。

とはいえ「宇宙大作戦」以来の「スター・トレック」ファンとしては、LD、DVD、Blu-ray、UHDと様々なスペックでリイシューされるたびに、繰り返し見てきた。そのたびに、初見の時と印象はあまり変わらないのだけど、シリーズものとしての「良さ」もある。今回は1979年の第一作から再見して、それぞれの作品についてテキストを書いてきた。

ということで、この第5作を「原稿を書くこと」を前提にスクリーン投影してみた。単なる失敗作と断じるのではなく、その背景などなどを調べつつ。この作品の果たした役割を原稿にまとめてみた。今回は、これまでで最長の20,000文字、原稿用紙にして50枚!となりました。宜しければ、お付き合いください。


『スター・トレックⅤ 新たなる未知へ』(1989年6月24日・パラマウント・ウイリアム・シャトナー)を読み解いてみた。

―神を探す旅の果てに、カークたちが見つけたもの

プロローグ

1989年に公開された『スター・トレックⅤ 新たなる未知へ』。原題は“Star Trek V: The Final Frontier”。テレビシリーズ『宇宙大作戦』のオリジナルキャストによる劇場版第5作である。監督はジェームズ・T・カークを演じるウィリアム・シャトナー。本作が長編映画監督デビュー作となった。音楽は、劇場版第1作『スター・トレック』を手がけたジェリー・ゴールドスミス。主演はシャトナー、レナード・ニモイ、デフォレスト・ケリー。製作は前作までと同じくハーヴ・ベネットが務めた。

前作『故郷への長い道』は、二頭のザトウクジラを未来へ運ぶという明るいタイムトラベル・コメディだった。宇宙戦争も、光線銃を振り回す悪役も登場しない。それでいてシリーズ最大級の興行的成功を収め、幅広い観客を『スター・トレック』の世界へ招き入れた。その大成功を受けて作られた第5作で、シャトナーが選んだ題材は、前作とは対照的なものだった。

「神は存在するのか」
そして、人間はなぜ神を求めるのか。


それは、シリーズの一作としてはあまりに大きく、危険な問いだった。シャトナーが構想したのは、宇宙の果てに神を求める巡礼の物語である。カーク、スポック、マッコイたちは、スポックの異母兄サイボックによってエンタープライズ号を乗っ取られ、銀河の中心にある伝説の惑星シャ・カ・リーへ向かう。そこには、あらゆる生命を創造した神が待っているという。しかし彼らが出会ったのは、救済を与える神ではなかった。

『新たなる未知へ』は、公開当時、批評的にも興行的にも厳しい評価を受けた。ゴールデンラズベリー賞では最低作品賞、最低監督賞、最低主演男優賞の三部門を受賞し、現在もシリーズの失敗作として語られることが多い。製作費は約3300万ドル、世界興行収入は約6300万ドルとされ、前作の勢いを維持することはできなかった。

確かに、物語には無理がある。特殊効果にも物足りなさが残る。クライマックスは混乱し、壮大な構想に映像が追いついていない。それでも、この映画には不思議な魅力がある。

カーク、スポック、マッコイという三人の関係が、これほど親密に描かれた劇場版はほかにない。人間が抱える苦痛と、その苦痛を取り除くことの危険。神を求める者と、神の名を疑う者。そして、宇宙の果てまで旅をしても、結局、人間を支えるのは隣にいる友人なのだという結論。

『新たなる未知へ』は、決して完成度の高い映画ではない。しかし、ウィリアム・シャトナーがカークという人物と、その仲間たちに対して抱いていた思いが、最もむき出しになった映画となっている。

第一章 ヨセミテから始まる宇宙の旅

物語は、宇宙ではなく、地球の大自然から始まる。カーク、スポック、マッコイの三人は、ヨセミテ国立公園で休暇を過ごしている。カークは、断崖絶壁エル・キャピタンを素手で登っている。命綱も使わず、岩肌に指をかけ、はるか地上を見下ろしながら登り続ける。それを見上げるマッコイは、あきれ果てている。なぜ、わざわざ死ぬような真似をするのか。

カークの答えは明快。自分は死なない。なぜなら、スポックとマッコイが自分と一緒にいるからだ。この言葉は、冗談のように聞こえるが、それこそ本作全体を支える主題である。カークは、自分が不死身だと思っているわけではない。自分が一人ではないと信じているのだ。

劇場版第2作『カーンの逆襲』で、カークはスポックを失った。第3作『ミスター・スポックを探せ!』では、息子デヴィッドとエンタープライズ号を失いながら、スポックを取り戻した。第4作『故郷への長い道』では、艦長としての居場所と新しいエンタープライズを手に入れた。三部作を通じて、カークは多くのものを失い、再び仲間と航海する場所へ帰ってきた。

だから彼は、崖から落ちても死なないと言う。スポックとマッコイがいる限り、自分は一人で死ぬことはない。やがて、三人は夜の森でキャンプファイアーを囲む。マッコイが用意した豆料理を食べ、マシュマロを焼き、酒を飲む。カークは皆で歌おうとする。宇宙艦隊を代表する英雄たちが、火を囲んで「漕げよマイケル」を歌う。

物語の本筋だけを考えれば、なくても成立する場面である。しかし、この時間こそが『新たなる未知へ』の心臓部だ。三人は上官と部下であり、艦長と科学士官と医師である。同時に、長い年月をともに生きてきた友人でもある。カークはスポックをからかう。マッコイは二人に悪態をつく。スポックは人間の歌や冗談を完全には理解しないまま、それでも二人のそばに座っている。

宇宙を救う任務から離れた時、彼らの間に残るものは何か。それは、火を囲んでくだらない話をし、同じ歌を歌う時間である。本作の製作は多くの問題を抱えた。けれども、ヨセミテの場面だけは、シャトナーが描こうとした映画の核をほぼ完璧な形で伝えている。『新たなる未知へ』は神を探す物語として始まるのではない。三人の友人が、互いの存在を確かめるところから始まる。

第二章 壊れたエンタープライズ

カークたちの休暇は、宇宙艦隊からの緊急命令によって中断される。彼らに与えられた新しいエンタープライズ、NCC-1701-Aは、まだ十分な状態ではなかった。自動ドアは正常に開かない。転送装置も安定しない。船内設備には故障が相次ぎ、スコッティは修理に追われている。前作のラストで、新しいエンタープライズが姿を現した時、仲間たちは故郷へ帰ってきたような喜びに包まれていた。しかし、本作ではその新造艦が、見る影もないほど不調を抱えている。

これは物語上、少し不自然だが、作品の主題を考えれば象徴的である。見た目は以前と同じでも、中身まですぐに以前と同じになるわけではない。スポックもまた、肉体と記憶を取り戻した後、完全な自分へ戻るまで時間を必要とした。エンタープライズAも、新しい船体に古い名前を与えられただけで、まだ仲間たちの故郷にはなりきれていない。カークたちは、壊れた船で再び宇宙へ出なければならない。

命令の目的地は、惑星ニンバスⅢ。地球連邦、クリンゴン帝国、ロミュラン帝国が共同で設けた中立惑星である。かつては、三大勢力が共存する「銀河平和の惑星」として期待されていた。ところが計画は失敗し、いまでは貧困と暴力が支配する荒廃した世界となっている。そこに駐在する三勢力の代表が、人質に取られた。

事件の首謀者は、一人のバルカン人だった。彼の名はサイボック(ローレンス・ラッキンビル)。人々の心に入り込み、過去の苦痛をよみがえらせ、その痛みから解放することで、相手を自らの信奉者へ変えていく男。中立と平和を掲げながら、誰からも見捨てられたニンバスⅢ。故障だらけのエンタープライズ。苦痛から逃れようとしてサイボックへ従う人々。

この映画の世界には、壊れたものが満ちている。サイボックは、その壊れたものを救おうとしている。しかし彼の救済は、本当に人を自由にするのか。それとも、本人の意志を奪い、別の信仰へ服従させるだけなのか。この問いが、カークたちを銀河の中心へ導いていく。

第三章 スポックの兄、サイボック

サイボックは、シリーズの中でも特異なバルカン人である。彼は論理を否定し、感情を積極的に受け入れている。スポックの異母兄であり、父サレクとバルカンの王女との間に生まれた。スポックとは母親が異なるが、幼い時期をともに過ごしたことがある。それまでのシリーズで、スポックに兄がいるという事実は語られていなかった。突然現れた設定であるため、唐突でもある。

しかし、サイボックという人物は、スポックの「もう一つの可能性」として興味深い。スポックは、バルカン人の父と地球人の母の間に生まれた。彼は、感情を持つ自分と、論理的であろうとする自分との間で、長く葛藤してきた。それに対してサイボックは、感情を抑圧するバルカンの伝統そのものを拒否した。苦しみも、喜びも、信仰も、自分の内部から湧き上がる感情として受け入れる。

一見すれば、彼はスポックより自由である。人々が心の奥に隠している苦痛を見抜き、その記憶を本人とともに体験する。そして「痛みを捨てよ」と語りかける。苦痛から解放された人々は涙を流し、サイボックを信じるようになる。彼は武器だけで人々を服従させるのではない。相手がもっとも救われたいと願っている場所へ入り込み、そこから支配する。

それがサイボックの危うさである。人は、苦痛から逃れたい。過去の悲しみを消したい。罪悪感や後悔を忘れたい。サイボックは、その願いをかなえてくれるように見える。しかし、痛みを消すことと、痛みを乗り越えることは同じではない。この映画の「神を求める旅」は、宗教そのものを否定する話ではない。救いを求める人の心が、どのように他者の支配へ利用されるのか。絶対的な答えを与える人物が、なぜ強い影響力を持つのか。

テレビ伝道師や新興宗教が社会的な注目を集めていた時代に、シャトナーは、宇宙をさすらうカリスマ的指導者としてサイボックを考えた。サイボックは単純な悪人ではない。彼自身もまた、強烈な幻視を体験し、神が自分を呼んでいると信じている。人をだまそうとしているのではなく、自分が真実を知ったと確信している。

だからこそ、彼は危険であり、同時に悲しい。信仰を演じている詐欺師なら、正体を暴けばよい。だが、自らの信仰を心から信じている者を、どうすれば止めることができるのか。

第四章 シャトナーが求めた「神」

本作の企画は、ウィリアム・シャトナー自身の発想から始まった。前二作でレナード・ニモイが監督を務めたこともあり、出演契約上の均衡も背景となって、シャトナーは第5作の監督を担当することになった。しばしば、ニモイへの対抗心だけで監督の座を求めたと説明される。確かに、主演俳優同士の競争意識はあっただろう。しかし、それだけで本作を理解するのは不十分である。

シャトナーは、自分がカークとして長年演じてきた『スター・トレック』で、これまで以上に根源的な問いへ挑もうとした。宇宙の果てへ行けば、人間が神と呼ぶ存在に出会えるのか。人は、なぜ目に見えない存在からの呼びかけを信じるのか。神を求める旅と、偽りの神にだまされることの境界はどこにあるのか。

初期構想では、サイボックはテレビ伝道師を思わせる人物であり、彼に導かれたカークたちは神の惑星へ到達する。そこで出会う神は、やがて悪魔の姿へ変わるという、より宗教寓話的で過激な物語だった。シリーズ創造者ジーン・ロッデンベリーは、この構想に反対した。

ロッデンベリーが描いてきた『スター・トレック』は、人間が理性と科学によって迷信や宗教対立を乗り越えた未来社会を基本としている。特定の宗教観を想起させる神や悪魔を実在の存在として登場させることは、その世界観と衝突する。ニモイとデフォレスト・ケリーも、初期脚本に異議を唱えた。特に問題となったのは、スポックとマッコイがサイボックの力によって苦痛から解放され、カークを見捨てる展開だった。長い年月をともに過ごしてきた二人が、一度の精神的体験によってカークを裏切るはずがない。

その指摘を受け、脚本は何度も修正された。神そのものを登場させる構想は後退し、シャ・カ・リーにいる存在は「神を名乗り、宇宙船を手に入れようとする邪悪な生命体」へ変えられた。スポックとマッコイも、サイボックの思想に理解を示しながら、最後にはカークとの友情を選ぶ。

本作の脚本を執筆したのはデヴィッド・ローヘリー。原案にはシャトナー、ハーヴ・ベネット、ローヘリーが名を連ねている。製作準備中には全米脚本家組合のストライキが起こり、脚本作業が中断された。ストライキ終結後も修正は続いたが、パラマウントは前作の成功による勢いを失わないため、十分な準備期間がないまま製作を急いだ。

壮大なテーマを扱う脚本が、最も慎重な推敲を必要としている時に、製作は急いで前へ進んだ。それが、本作の野心と完成形の間に大きな隔たりを生むことになる。

第五章 痛みを消すことは救いなのか

サイボックが乗組員たちの心を掌握する場面で、本作は、もっとも強い人間ドラマを見せる。彼は相手の心の奥にある苦痛を引き出し、その記憶をもう一度体験させる。マッコイの心に隠されていたのは、父親の死だった。寝たきりになり、激しい苦痛に苦しむ父。医師であるマッコイは、父の願いを受け入れ、その生命維持装置を止めた。ところが、その直後に病気の治療法が発見された。もう少し待っていれば、父を救えたかもしれない。

マッコイは、その後悔を長く抱えて生きてきた。デフォレスト・ケリーの演技は、この映画でもっとも深い感情を伝える。普段のマッコイは、皮肉と怒りによって自分の弱さを隠している。

スポックの論理を攻撃し、カークの無謀さに悪態をつく。しかし父の記憶を前にした時、その防御はすべて崩れる。自分は医師でありながら、父を殺したのではないか。愛する者を苦痛から解放したつもりで、その人から生きる可能性を奪ったのではないか。その罪悪感が、マッコイの心に何年も残っていた。サイボックは、その苦痛を受け止める。そしてマッコイは、一時的な解放を得る。

スポックが向き合うのは、自分の誕生の記憶である。赤ん坊のスポックを見たサレクは、「人間だ」と、失望をにじませる。スポックが生涯抱えてきた、自分は純粋なバルカン人ではないという意識。その根には、父親から受け入れられなかったという記憶があった。サイボックは、その痛みも取り除こうとする。

しかしカークは拒絶する。自分の苦痛を見せる必要はない。苦痛を消す必要もない。「私には痛みが必要だ」。カークはそう主張する。人間は、成功だけによって形成されるのではない。失敗、悲しみ、後悔、罪悪感。そのすべてが、その人を現在の自分にしている。苦痛だけを切り離せば、楽になるかもしれない。

しかし同時に、そこから学んだことや、他者を理解する力まで失うのではないか。カークが強いのは、傷ついたことがないからではない。傷を抱えたまま生きているからだ。息子デヴィッドを失った痛み。スポックを失った記憶。艦長として救えなかった者たちへの後悔。それらを消せば、カークはカークではなくなる。

この場面こそ、本作の作品論的な中心である。『新たなる未知へ』が描く本当の未知とは、銀河の中心ではない。人間の心の中にあり、本人さえ直視できない苦痛なのである。

第六章 なぜスポックとマッコイはカークを選ぶのか

サイボックは、マッコイとスポックの苦痛を理解する。二人にとって、それは深い救済体験となる。それでも二人は、カークを置いてサイボックと行くことを拒む。

初期脚本では、二人がサイボックの影響を受け、カークを裏切る展開が考えられていた。しかしニモイとケリーは、長年にわたって築かれた三人の関係から見て、それはあり得ないと反対した。脚本は、二人がサイボックの力を認めながらも、自らの意志でカークのそばへ残る形へ修正された。この修正によって、本作の主題は大きく変わった。

サイボックの能力は偽物ではない。マッコイは実際に苦痛から解放される。スポックも、兄の思想を全面的に否定しているわけではない。しかし、救済を与えてくれた人物へ服従しなければならない理由はない。苦痛を理解されたことと、自分の判断を明け渡すことは別である。

二人は、サイボックの信仰ではなく、カークとの友情を選ぶ。カークは二人の苦しみを消してはくれない。むしろ、無謀な任務へ連れ出し、何度も命の危険にさらす。マッコイは、そのたびに腹を立てる。スポックも、カークの行動を非論理的だと指摘する。それでも三人は離れない。なぜなら、カークは二人の心を支配しようとしないからだ。

サイボックは、人々を苦痛から解放することで、一つの目的へ向かわせる。カークは、仲間たちが自分とは異なる考えを持つことを認めたうえで、ともに行動することを求める。サイボックが信奉者を集めるのに対し、カークは友人と旅をする。そこに決定的な違いがある。

友情とは、苦痛を取り除くことではない。相手の苦痛を完全に理解できなくても、その人の隣に残ることだ。セミテでカークが語った、「お前たちがいる限り、私は死なない」という言葉は、ここで別の意味を持つ。カークは、自分を救済してくれる神を必要としていない。自分の痛みを消す力も求めていない。彼に必要なのは、自分が苦痛を抱えている時に、それでもそばにいる二人の友人なのである。

第七章 ニンバスⅢと失敗した理想郷

ニンバスⅢは、本作全体を象徴する惑星である。地球連邦、クリンゴン帝国、ロミュラン帝国が協力し、銀河平和のために設けた共同居住区。理念としては高尚だった。長年敵対してきた三勢力が、一つの惑星で共存する。そこから新しい和平の時代が始まるはずだった。しかし計画は失敗した。

三勢力は惑星への関心を失い、外交官たちは名目だけの存在となった。街には貧困と暴力が広がり、バー「パラダイス・シティ」には、故郷にも未来にも希望を持てない人々が集まっている。「銀河平和の惑星」は、皮肉にも、誰からも必要とされない場所になった。サイボックが信奉者を集めるのは、この荒廃した土地である。

人は、生活に満足し、自分の未来に希望を持っている時、簡単には救世主へすがらない。しかし、社会から見捨てられ、何を信じればよいか分からない時、絶対的な答えを語る者の声は強く響く。サイボックは人々へ、苦痛からの解放と、神のいる世界への旅を約束する。彼の言葉が力を持つのは、ニンバスⅢという社会がすでに崩壊しているからだ。

ここには、1980年代末のアメリカ社会を思わせる風景もある。繁栄の裏にある貧困。宗教的カリスマの台頭。テレビ伝道師による金銭問題やスキャンダル。社会制度からこぼれ落ちた人々が、個人的な救済を約束する指導者へ引き寄せられる。シャトナーの初期構想には、当時のテレビ伝道師への関心があった。サイボックは、信仰を商品として売る単純な詐欺師ではないが、個人の苦痛を利用して大きな運動を作り出す点では、カリスマ的宗教指導者の危険を体現している。

同時に、ニンバスⅢの失敗は、『スター・トレック』の理想主義に対する自己批評にもなっている。平和という看板を掲げるだけでは、平和な社会は生まれない。異なる民族や国家を同じ場所へ集めるだけでは、共存は成立しない。制度を作った者が責任を放棄すれば、理想郷は荒野へ戻る。銀河の中心にあるシャ・カ・リーだけが、偽りの楽園なのではない。物語の出発点であるニンバスⅢもまた、理想という言葉だけが残った偽りの楽園なのである。

第八章 シャ・カ・リーへの航海

サイボックは、エンタープライズ号を奪い、銀河の中心へ向かう。そこには「グレート・バリア」と呼ばれる危険な領域がある。いかなる宇宙船も突破できないと考えられてきた障壁。その向こうに、伝説の惑星シャ・カ・リーがある。バルカンの伝承ではシャ・カ・リー。クリンゴン人にとってはキタマーとは別の神話的な楽園。ロミュラン人にも、地球人にも、それぞれ異なる名前で語られてきた場所。

あらゆる種族の神話が、一つの惑星を指している。サイボックは、そこに創造主がいると信じている。シャ・カ・リーという名称は、サイボック役の候補として想定されたショーン・コネリーの名をもじったものだとされる。コネリーは『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』への出演などのため実現せず、サイボック役にはローレンス・ラッキンビルが起用された。

ラッキンビルのサイボックは、単なる狂信者ではない。穏やかで、知的で、人の話に耳を傾ける。暴力的に命令するより、相手が自ら協力したくなるように導く。その温かさが、かえって不気味である。エンタープライズの乗組員たちは、次々と彼の思想へ共鳴していく。だが、シャ・カ・リーへの航海には、作品上の大きな弱点もある。

銀河の中心までの距離。グレート・バリアをあまりにも簡単に通過してしまう展開。エンタープライズとクリンゴン艦が、短時間で伝説の領域へ到達する速度。SF的な尺度を厳密に考えれば、説得力は乏しい。しかし、本作が目指しているのは、科学的に整合した宇宙航海ではない。

神話における「禁じられた山」や「死者の国」への旅である。グレート・バリアは、物理的な障壁というより、人が触れてはならない領域との境界だ。シャ・カ・リーへ到達するまでが簡単すぎるのは、映画としての欠点である。一方で、信仰が人を危険な場所へ導く速度を表しているようにも見える。一度、絶対的な真実を確信した者にとって、障壁は障壁ではなくなる。

誰も越えられないと言われた場所へ、サイボックは迷わず進む。そして、あまりにも簡単に越えられたことを、神の奇跡だと受け止める。だが、障壁が外からの侵入を防ぐものではなく、中にいる何かを閉じ込めるためのものだったとしたらどうか。信仰は、扉を開く力になる。同時に、開けてはならない扉を開ける危険も持っているのである。

第九章 「神が宇宙船を必要とするのか?」

シャ・カ・リーに降り立ったカーク、スポック、マッコイ、サイボックは、光に包まれた巨大な顔と出会う。それは、さまざまな宗教的イメージを経て、白い髪と髭を持つ、人間的な神の姿を取る。サイボックは感動する。長い旅の果てに、自分を呼び続けていた存在と出会ったのだ。

彼は知識を求める。宇宙の意味。生命の始まり。創造の秘密。しかし、その存在が最初に求めたのは、エンタープライズ号だった。自分の知恵を宇宙全体へ伝えるため、船を使いたいという。そこでカークは問いかける。

「神が、なぜ宇宙船を必要とするんだ?」

本作でもっとも有名な台詞であり、映画全体を救っている瞬間でもある。サイボックは、神を求めるあまり、相手の言葉を疑うことができない。スポックもマッコイも、未知の存在を前に圧倒されている。だがカークだけは、その権威にひれ伏さない。神を名乗る存在であっても、言葉と行動が矛盾していれば疑う。相手が絶対的な力を持っているからといって、質問することをやめない。

これこそ、『スター・トレック』におけるカークの本質である。カークは無神論者だから疑うのではない。証拠のない権威へ、自分の判断を明け渡さないから疑うのだ。もし本当に宇宙を創造した存在なら、なぜ一隻の宇宙船を必要とするのか。なぜ、自分を知らないカークに怒るのか。なぜ、質問されただけで相手を攻撃するのか。

疑問を口にされた「神」は、たちまち暴力を振るう。その瞬間、正体が明らかになる。それは創造主ではない。グレート・バリアの内側に封じ込められ、外へ出る手段を求めていた強大な生命体である。サイボックが受け取った神秘的な幻視も、救いを求める彼の心を利用するための呼びかけだった。

カークの問いが重要なのは、宗教を否定するからではない。権威に対する批判的思考を守るからである。どれほど美しい言葉を使っていても、どれほど多くの人が信じていても、質問を禁じる存在は疑わなければならない。

「神が、なぜ宇宙船を必要とするのか?」。この単純な問いは、サイボックの信仰だけでなく、カリスマ的指導者、政治権力、宗教的権威、そして映画そのものが掲げる壮大な物語をも問い直す。本作の特殊効果や脚本には欠点がある。それでも、この問いだけは今も力を失っていない。

第十章 サイボックの目覚めと犠牲

神を名乗る存在の正体を知り、サイボックは崩れ落ちる。彼は、自分が選ばれた者だと信じていた。人々の苦痛を解放し、神のもとへ導く使命を与えられたと考えていた。しかし、自分が聞いていた声は、宇宙へ脱出しようとする囚人の誘惑だった。サイボックは、単にだまされた被害者ではない。

自らの信仰によって多くの人を巻き込み、エンタープライズを奪い、仲間たちを危険にさらした責任がある。それでも本作は、彼を断罪して終わらせない。サイボックは最後に、自分の過ちを認める。そして、偽りの神へ向かっていく。人々の痛みを引き受けてきたように、その存在の苦痛とも融合しようとする。

「お前の苦痛を見せろ」

その行動が、カークたちが脱出する時間を作る。サイボックは、最後まで自分の能力を捨てない。人の心へ入り込み、苦痛を共有するという力そのものが悪だったわけではない。問題は、その力を使って他者の意志を自分の目的へ従わせたことにある。最後に彼は、支配ではなく犠牲のために力を使う。

サイボックの死は、スポックの死と対照をなしている。『カーンの逆襲』でスポックは、論理的な判断によって多数を救うため自分を犠牲にした。サイボックは、感情と信仰に導かれて多くの者を危険へ巻き込み、最後にその責任を引き受けて死ぬ。二人は、ともにサレクの息子でありながら、正反対の道を歩んだ。

スポックは感情を抑えようとしながら、友情のために死んだ。サイボックは感情を解放しようとしながら、信仰のために道を誤った。それでも最後には、二人とも他者を救うため自らを差し出す。サイボックは悪役というより、スポックの影である。感情を完全に肯定することも、完全に否定することも、人を自由にはしない。

論理と感情。疑いと信仰。個人の意志と共同体への責任。その均衡を失った時、救済は支配へ変わる。サイボックの悲劇は、神を信じたことではない。自分の信じる真実が、他者にとっても唯一の真実だと思い込んだことにある。

第十一章 幻となった岩石人間

本作のクライマックスは、完成した映画でもっとも弱い部分である。神を名乗る存在は、巨大な顔として現れ、地面から光を放ってカークを追う。エンタープライズからの攻撃と、最後に現れるクリンゴン艦によって倒されるが、物語が積み上げてきた「宇宙の神」という主題に対して、映像上の決着はあまりにも小さい。

シャトナーが当初構想していたクライマックスは、これとは大きく異なっていた。偽りの神は、地面から岩石の怪物を生み出す。カークは複数の岩石人間に追われ、荒涼とした惑星を逃げ回る。シャトナーは、天使と悪魔が入り乱れる大規模な終幕を考えていたが、予算削減によって構想は縮小され、最終的には一体の岩石人間を撮影する案へ変えられた。

ところが、完成した着ぐるみは重く、動きが極端に制限された。期待された威圧感も得られない。実際に撮影を試みたものの、シャトナーが求める映像にはならず、岩石人間の場面は使用を断念した。よく語られる「十体の岩石人間が同時に襲う」「35万ドルを費やした」「スーツアクターが窒息しかけた」という細部には、資料によって違いがある。確実なのは、当初は複数の怪物が想定され、予算上の制約から一体へ減らされ、その一体も満足に機能しなかったため、クライマックスを大幅に変更せざるを得なかったことである。

この失敗は、単に特撮会社の技術だけに帰することはできない。製作側には、限られた予算と日程で、どこまで実現できるかを判断する責任がある。シャトナーの頭の中には、大規模な神話的映像があった。しかし、映画監督には、理想を持つだけでなく、現場の条件に合わせて理想を翻訳する力が必要になる。一体35万ドルの着ぐるみが機能しなかった時、それに代わる十分な演出を準備する時間も資金も残っていなかった。

結果として、爆発と光学効果に頼った、間の抜けた終幕となってしまった。シャトナーは後年、本作の失敗について、十分な予算がない状況で壮大な構想に固執したことを認めている。監督としての経験があれば、早い段階で規模を縮小し、俳優の演技や心理的恐怖を中心とするクライマックスへ切り替えられたかもしれない。

本作の皮肉は、巨大な岩石人間など登場させなくても、神を名乗る存在とカークたちの対話だけで十分な緊張を作れた可能性があることだ。もっとも野心的な映像を求めた結果、もっとも重要な思想的対決まで弱めてしまったのである。

第十二章 ILM不参加と特殊効果の混乱

前作『故郷への長い道』では、ILMが精巧なクジラの模型、宇宙船、光学合成を担当し、明るい物語を技術面から支えた。しかし第5作で、ILMは主要な特殊効果を担当しなかった。同時期、ILMは『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』など複数の大作を抱えており、本作の作業を引き受けられる状況ではなかったとされる。そこでパラマウントは、別の視覚効果チームへ作業を委ねた。

問題は、単に「有名会社を使えなかった」ことではない。与えられた期間が短く、予算も厳しく、製作途中で要求される映像が変化していったことにある。グレート・バリア。シャ・カ・リー。神を名乗る存在。岩石人間。宇宙船同士の攻防。本作は、前作以上に抽象的で大規模な視覚効果を必要としていた。にもかかわらず、脚本とクライマックスが固まりきらないまま、特殊効果の作業が進められた。

合成の輪郭が目立つ場面。宇宙船の動きが単調に見える場面。光の効果だけで済まされたシャ・カ・リーの景観。1989年という、『バットマン』『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』『アビス』など、映像面で強い印象を残す大作が公開された年に、本作の特殊効果は見劣りした。ただし、本作の映像すべてが失敗しているわけではない。

ヨセミテの自然。荒涼としたニンバスⅢ。砂漠を疾走する馬。シャ・カ・リーへ向かうエンタープライズの艦内。実景やセットを中心とした場面には、シャトナーの力強い画面作りがある。特に人物をローアングルから捉え、広い風景の中へ配置する演出には、西部劇のような感覚がある。

ニンバスⅢの襲撃場面も、馬、砂埃、銃撃、荒野の町という構成で、宇宙西部劇としての『スター・トレック』を強く意識している。つまり、シャトナーが不得意だったのは映像演出全般ではない。巨大な特殊効果を制御し、限られた条件の中で完成形へまとめることだった。俳優の身体と実景を扱う場面では、彼の情熱が画面に現れている。

一方、目に見えない神や宇宙的恐怖を特殊効果で表現する段階になると、構想と技術の間に大きな裂け目が生じた。その落差が、本作をいっそう不均衡なものにしているのである。

第十三章 スコッティとウフーラ、熟年の仲間たち

本作では、カーク、スポック、マッコイ以外のクルーにも、従来とは異なる表情が与えられている。スコッティとウフーラの間には、ほのかな親密さが描かれる。ウフーラはニンバスⅢへの潜入作戦で、砂漠の丘に立ち、踊りによって敵の注意を引きつける。この場面は、公開当時から賛否が分かれた。

ウフーラを演じるニシェル・ニコルズの魅力を生かした場面である一方、女性乗組員を性的な目くらましとして扱う演出には、古さも感じられる。それでも、オリジナルキャストたちが年齢を重ねたことを隠さず、その成熟を物語の一部にしようとした点は重要である。彼らは、テレビシリーズ時代の若い冒険者ではない。長年の任務を経験し、身体にも心にも傷を抱えている。

だからこそ、ヨセミテでの休暇が必要であり、仲間同士の冗談や気遣いが重みを持つ。スコッティは、新しいエンタープライズの故障に悪戦苦闘する。船のすべてを知っているはずの名機関長が、最新の設備を相手に苛立つ姿には、熟練者が新しい技術へ向き合う可笑しさがある。しかし、サイボックに支配された乗組員の中で、彼は最後までカークたちを助けようとする。

その直後、頭上の梁へぶつかって気絶するというギャグが入るため、緊張感が削がれてしまう。このような笑いの扱いも、本作の弱点の一つである。前作『故郷への長い道』では、人物の性格から自然に笑いが生まれていた。本作では、ときに登場人物が笑いのために不自然な失敗をする。しかし、その不均衡の中にも、シャトナーが仲間たち全員に見せ場を与えたいと考えていたことは伝わる。

スールーとチェコフは、森の中で道に迷ったことを認めたくない。ウフーラは二人が遭難していることを知りながら、からかうように応答する。スコッティはウフーラを気遣う。ニンバスⅢでは、それぞれが作戦の一部を担う。完成度にはばらつきがあるが、シャトナーはエンタープライズの仲間たちを、機能だけを担当する背景人物ではなく、長年連れ添った一つの家族として描こうとした。それが、失敗作である本作の愛すべき理由の一つになっている。

第十四章 カークを追う若いクリンゴン

この映画には、もう一人、カークを追う人物がいる。クリンゴン艦長クラー(トッド・ブライアント)である。彼はカークを倒し、自らの名声を高めようとしている。カークはすでに宇宙艦隊の伝説的英雄であり、クリンゴン帝国でも名を知られている。クラーにとって、カークを討つことは、自分が偉大な戦士であると証明する機会だった。

だが、クラーには、カーンやクルージほどの存在感はない。物語の中心的な敵はサイボックでも、偽りの神でもなく、複数の対立が分散している。クラーはエンタープライズを追跡し、終盤でカークを攻撃するが、その行動が主題と十分に結びついていない。しかし、彼の未熟さは、別の意味では本作のカーク像を際立たせる。

クラーは、英雄という名声だけを見ている。カークが何を失い、どのような責任を背負い、仲間たちとどれほど長い時間を過ごしてきたかを知らない。彼が求めているのは、カーク本人ではなく、「カークを倒した男」という称号である。それに対して、カークは自分が英雄であることを証明しようとはしない。神を名乗る存在へもひるまず問いかけるが、それは勇名を高めるためではない。

目の前の矛盾を見過ごさず、仲間を守るためである。最後には、サイボックに従っていたクリンゴンの将軍コード(チャールズ・クーパー)が、クラーへ攻撃中止を命じる。クラーはカークへ謝罪し、敵味方はひとまず和解する。この決着には唐突さがある。しかし本作が一貫して「倒すべき敵」を作ろうとしていないことを考えれば、クラーを殺さず、謝罪によって終わらせる判断は作品の精神に合っている。

本当の敵はクリンゴン人ではない。サイボックでもない。神の名を使う異星生命体だけでもない。人間やバルカン人やクリンゴン人の心にある、名声、救済、絶対的な答えへの渇望である。クラーもまた、自分の名を高めたいという幻想から目覚めなければならない人物なのだ。

第十五章 「私は神を知っている」

偽りの神を倒した後、カークはスポックへ問いかける。神は、あの惑星にいたのだろうか。スポックは答える。神は、外の宇宙にいるのではない。人の心の中にいるのではないか。本作は、神の存在を否定して終わるわけではない。シャ・カ・リーにいた存在が偽物だったからといって、宇宙に神が存在しないことが証明されたわけではない。

むしろ、神を外部の絶対的権威として求めることの危険を描いたうえで、人間の内部にある信仰や倫理へ視線を戻す。カークも、同じことを別の言葉で表現する。自分は神を知っている。神がどこにいるかも知っている。神はここにいる。人間の心の中にいる。

この結論は、やや観念的である。それでも、ヨセミテから始まった物語の終着点としては理解できる。カークたちは宇宙の中心まで行った。伝説の惑星へ到達した。神を名乗る存在と対面した。しかし、本当に彼らを救ったのは神の力ではなかった。

サイボックの犠牲。スポックの判断。マッコイの忠誠。クリンゴン将軍コードの命令。そして、互いを見捨てないという仲間たちの選択だった。外から降りてくる奇跡ではなく、人が他者のために行う行為が救済を生む。これは、『スター・トレック』が一貫して描いてきた人間主義とも通じている。

科学がすべての問いに答えるわけではない。論理だけで人間の苦痛を消すこともできない。しかし、分からないものをすぐ神秘の名で覆い隠さず、疑問を持ち、他者と対話し、自分の行動へ責任を負うことはできる。本作は「神はいない」と宣言する映画ではない。

「神を名乗る者に、自分の判断を預けるな」がテーマである。そして、究極の救済を遠い宇宙へ求める前に、目の前にいる友人を大切にせよと語る。宇宙の中心まで行って見つけた答えは、あまりに身近なものだった。それは、映画の構想に比べれば小さな答えである。しかし、カーク、スポック、マッコイの物語としては、それ以上にふさわしい答えはなかったのかもしれない。

第十六章 なぜ興行は失速したのか

『新たなる未知へ』は、1989年6月9日に全米公開された。公開初週末の成績は好調で、一時はシリーズ最高水準のスタートを切った。しかし批評と口コミは厳しく、その後、興行は急速に失速した。最終的な世界興行収入は約6300万ドルとされ、約3300万ドルの製作費を回収できなかったわけではないものの、前作の大成功には遠く及ばなかった。

公開時期も厳しかった。同じ1989年の夏には、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』『ゴーストバスターズ2』『リーサル・ウェポン2』、そしてティム・バートン監督の『バットマン』が公開された。特に『バットマン』は大規模な宣伝展開によって社会現象となり、観客の関心を独占した。

映像の壮大さや娯楽性を求める観客にとって、本作の特殊効果とクライマックスは見劣りした。さらに、前作のような明るいコメディを期待した一般観客にとっては、「神」「苦痛」「信仰」という主題は重く、物語も分かりにくかった。熱心なファンにとっても、スポックに突然兄がいたという設定、銀河中心への短すぎる航海、壊れ続けるエンタープライズ、人物描写の不統一は受け入れにくかった。

本作は、誰に向けた映画なのかを定めきれなかった。宗教的寓話。宇宙冒険。西部劇。人間ドラマ。コメディ。怪物映画。それぞれの要素が共存するのではなく、ときに互いを打ち消している。マッコイの父をめぐる感動的な場面の近くに、スコッティが梁へ頭をぶつけるギャグがある。

神を探す壮大な航海の先に、十分な映像を用意できない。カークたちの友情は丁寧に描かれるが、エンタープライズの乗組員が簡単にサイボックへ従ってしまう。作品が持つ野心に対して、脚本と製作の統一が追いつかなかったのである。

ラジー賞の三部門受賞は、その失望の大きさを象徴した。しかし、公開当時の激しい反発には、前作の成功によって期待が極端に高まっていたことも影響している。何の期待もされていない映画なら、これほど長く「最大の失敗作」と語られることもなかった。『スター・トレック』なら、もっと深く、もっと賢く、もっと美しくできたはずだ。その期待を裏切ったという感覚が、本作の評価を決定づけたのである。

第十七章 シャトナーの野心と責任

ウィリアム・シャトナーは、本作の失敗を長く背負うことになった。主演し、原案を考え、監督を務めた以上、作品に対する批判は彼へ集中した。もちろん、すべての責任が一人にあるわけではない。脚本家組合のストライキ。製作準備期間の不足。スタジオによる予算と日程の制約。特殊効果会社の選定。公開時期を優先したパラマウントの判断。

映画は、多くの条件と多くの人々によって作られる。それでも、シャトナーが監督として、実現可能性を超えた構想へ固執したことも事実だろう。ニモイが監督した『故郷への長い道』では、宇宙戦や大規模なセットを減らし、実景ロケと人物の掛け合いを中心にすることで、制約を映画の個性へ変えた。

シャトナーは逆に、神、銀河中心、巨大障壁、怪物、光と炎のクライマックスという、予算を必要とする方向へ進んだ。初監督作としては、あまりに難しい題材だった。後年、シャトナーは本作の問題について率直に語り、特にクライマックスの特殊効果を十分に実現できなかったことへの悔いを示している。ただし、しばしば引用される、

「すべては自分の思い上がりだった」「監督という仕事を理解していなかった」「ファンへ正式に謝罪した」という表現には、後年の発言を強く脚色した二次的な要約も混ざっている。シャトナーが失敗を認めていることと、作品全体を否定していることは別である。彼は、実現できなかった映画への悔しさを持ちながらも、作品の根底にある三人の友情には誇りを持ち続けている。

それは当然だろう。ヨセミテのキャンプ。カークの「私には痛みが必要だ」という言葉。スポックとマッコイが、サイボックではなくカークを選ぶ場面。偽りの神を疑う問い。最後に三人が再び火を囲む姿。これらの場面には、シャトナーが長年演じてきたカークへの理解がある。

彼は、カークを単なる勇敢な艦長として描かなかった。痛みを抱え、死を恐れ、仲間を必要とし、それでも権威へ問いを発する男として描いた。映画監督としての技術は未熟だった。しかし、カークという人物の孤独と強さを知る俳優として、シャトナーにしか撮れなかった場面も確かに存在するのである。

第十八章 第6作への道

『新たなる未知へ』の興行的失速によって、オリジナルキャストによる映画シリーズの将来は不透明になった。ただし、本作だけで『スター・トレック』というフランチャイズ全体が終わりかけた、という説明は正確ではない。1989年当時、テレビでは『新スター・トレック』が放送され、次第に高い人気を獲得し始めていた。

シリーズそのものは、すでにオリジナルキャストだけに依存する段階を越えつつあった。問題となったのは、カークたちによる劇場版をもう一本作る価値があるかどうかである。1991年は、テレビシリーズ『宇宙大作戦』放送開始から25周年にあたる。

パラマウントは、この記念年に合わせ、オリジナルキャストの完結編を製作することを決めた。第6作『未知の世界』では、『カーンの逆襲』を成功させたニコラス・メイヤーが監督に復帰した。

物語は、神という抽象的な題材から、連邦とクリンゴン帝国の和平をめぐる政治サスペンスへ移る。現実世界では冷戦が終結へ向かい、ソビエト連邦の体制が大きく揺らいでいた。第6作は、その時代の変化を宇宙社会へ置き換え、長年の敵とどのように和解するかを描くことになる。

特殊効果にはILMが復帰した。しかし、『新たなる未知へ』の反省が単純にすべてを決めたわけではない。第6作の成功は、メイヤーの演出、レナード・ニモイの原案、冷戦終結という時代状況、そして25周年の完結編という明確な目的が重なった結果である。

また、ジーン・ロッデンベリーが「初期スタッフを集めて総力戦を指揮した」という説明も正確ではない。ロッデンベリーは第6作の脚本や一部表現に意見を述べたものの、製作の中心へ復帰したわけではなかった。映画の試写を観た直後の1991年10月24日に亡くなっている。

それでも、『新たなる未知へ』の失敗が、第6作の方向性へ影響を与えたことは確かだろう。抽象的な神話より、現実社会と結びついた政治ドラマ。不安定なコメディより、人物の老いと偏見を正面から描く物語。分散した敵役より、和平を妨害する陰謀という明確な構造。不十分な特殊効果より、統一された視覚設計。

第5作でまとまりきらなかった要素を整理することで、第6作はオリジナルキャストの美しい終幕となった。だが、第6作の成功を語るためだけに、第5作を踏み台として扱うべきではない。『新たなる未知へ』が失敗したからこそ第6作が傑作になった、というほど映画史は単純ではない。

第5作には第5作にしかない問いがある。苦痛は消すべきなのか。神を求める心は、どこから生まれるのか。救済と支配の境界はどこにあるのか。その問いは、完成度の高低とは別に、シリーズの中で独自の価値を持っている。

第十九章 「失敗作」の中に残った三人

『新たなる未知へ』を見直す時、目につく欠点は多い。シリーズの世界観を揺るがす設定。説明不足の物語。唐突な人物の行動。神を名乗る存在の弱い造形。盛り上がりに欠ける終幕。笑いと悲劇の不自然な混在。現代の目で見ても、すべてを擁護することは難しい。

しかし、本作を単に「最低の『スター・トレック』映画」と呼ぶだけでは、もっとも優れた部分まで見落としてしまう。カーク、スポック、マッコイの三人の関係である。テレビシリーズでは、三人はしばしば人間の精神を構成する三要素のように描かれた。カークは決断する意志。スポックは論理。マッコイは感情。三人が衝突し、議論し、最後に一つの判断へ到達する。

本作では、その三角形が年齢と時間を重ね、友情へ変わっている。カークは、スポックとマッコイがいるから死なないと信じる。マッコイは、父の死という誰にも見せなかった傷を二人の前にさらす。スポックは、自分の苦痛を理解してくれた兄よりも、カークとの関係を選ぶ。三人は互いの傷を治すことができない。カークはマッコイの後悔を消せない。マッコイはスポックとサレクの関係を修復できない。スポックはカークが失った息子を戻せない。それでも、三人は一緒にいる。

本作の中で、サイボックは苦痛を消すことで人々を結びつけようとする。カークたちは、苦痛を抱えたまま互いと結びついている。こちらの方が不格好で、非効率で、しばしば口論も起こる。しかし、自由がある。相手が自分と異なるまま、そばにいることを認める。それが友情なのだ。シャトナーが本当に描きたかったものは、岩石人間でも、神の巨大な顔でもなかったのではないか。宇宙の果てまで行っても離れない三人。老い、傷つき、過去を背負いながら、それでも同じ火を囲む三人。映画の視覚的な野心は崩れた。

しかし、人間ドラマの中心には、その思いが残った。だから『新たなる未知へ』は、失敗作でありながら、奇妙な温かさを持っている。完璧ではないからこそ、そこに込められたシャトナーの思いが、かえって生々しく見えるのである。

エピローグ 新たなる未知とは何だったのか


原題“The Final Frontier”は、テレビシリーズ冒頭の有名な言葉、「宇宙、それは最後のフロンティア」に由来する。邦題は『新たなる未知へ』。

その題名から想像されるのは、まだ誰も見たことのない銀河への冒険である。しかし、本作で本当に描かれた「未知」は、宇宙の中心ではない。人間の心である。マッコイの後悔。スポックの孤独。サイボックの信仰。カークの痛み。

誰もが、自分自身にも説明しきれない何かを抱えている。宇宙船は恒星の間を移動できる。転送装置は物質を分解し、別の場所へ再構成できる。医療技術は多くの病気を治すことができる。

それでも、過去の苦痛をどう受け止めるかという問題には、簡単な答えがない。サイボックは、苦痛を消せば人は自由になると考えた。カークは、苦痛も自分自身の一部だと答える。神を名乗る存在は、絶対的な権威によって人を従わせようとした。カークは、ただ一つの疑問を投げかけた。

「神が、なぜ宇宙船を必要とするんだ?」この問いは、カークが宇宙艦隊の艦長である以前に、一人の人間として自分の判断を守った瞬間である。人は、救われたいと願う。正しい答えを誰かに与えてほしいと望む。苦痛の意味を説明し、進むべき道を示してくれる存在を求める。

しかし、絶対的な答えへ自分を委ねた時、人は自由を失うかもしれない。『新たなる未知へ』が描こうとしたのは、その危うさだった。(1989年6月24日・パラマウント・ウイリアム・シャトナー)映画として、その構想は十分に実現されなかった。脚本は揺れ、予算は不足し、特殊効果は破綻し、クライマックスは力を失った。

シャトナーの野心は、監督としての経験と製作条件を超えてしまった。その結果、本作はシリーズ最大の迷作と呼ばれることになった。だが、映画の最後に残るのは、特殊効果の失敗ではない。ヨセミテへ戻った三人である。カーク、スポック、マッコイは、再びキャンプファイアーを囲む。

宇宙の中心まで行き、偽りの神と出会い、死にかけ、それでも三人は元の場所へ帰ってくる。彼らが見つけた神は、シャ・カ・リーにはいなかった。奇跡を与える巨大な存在として、宇宙の果てに待っていたのでもない。他者の痛みを自分の思い通りに消すことも、神の力ではなかった。

神が存在するとすれば、それは人が自分の外部へ求める絶対的な支配者ではなく、他者を信じ、疑問を持ち、苦痛を抱えながらも生きようとする心の中にある。そしてカークにとって、それはスポックとマッコイの存在そのものだったのかもしれない。

自分が崖から落ちても、宇宙の果てで取り残されても、必ず迎えに来る二人。自分の痛みを消すことはできなくても、その痛みとともに生きる時間を分かち合う二人。『新たなる未知へ』は、神を見つけることには失敗した映画である。

映画としても、多くの目標を達成できなかった。しかし、その失敗の果てに、カーク、スポック、マッコイという三人の友情を見つけた。宇宙の最後のフロンティア。それは、遠い銀河の中心ではない。

もっとも近くにありながら、決して完全には理解できない、他者の心である。そして、その未知を恐れず、相手を支配せず、ともに歩き続けること。それこそが、『スター・トレックⅤ 新たなる未知へ』が、不完全な形で私たちへ残した、もっとも大切なメッセージなのである。


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佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所 よろしければ、娯楽映画研究への支援、是非ともよろしくお願いします。これからも娯楽映画の素晴らしさを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。