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『スター・トレック3 ミスター・スポックを探せ!』(1984年6月9日・パラマウント・レナード・ニモイ)

久しぶりにBlu-rayでシリーズ第三作『スター・トレック3 ミスター・スポックを探せ!』(1984年6月9日・パラマウント・レナード・ニモイ)をスクリーン投影。この映画を初めて見たのは、公開数日前、東京・日比谷有楽座での完成披露試写会。前作『カーンの逆襲』を一緒に見たガールフレンドを誘って有楽座に出かけたのをよく覚えている。

1979年のロバート・ワイズ監督の超大作から、空前のSFブームのなかスタートした劇場版「スター・トレック」だったが、前作『カーンの逆襲』で良い意味でテレビシリーズ「宇宙大作戦」の世界に引き戻してくれた。しかし、シリーズの要でもあるミスター・スポックの犠牲的精神、その死という衝撃のラストを迎えて、次はあるのか? とヤキモキしていたなかの第三作だった。

今回は、出演者がオリジナル・クルーである、カーク提督、ドクター・マッコイ、ヒカル・スールー(ミスター・カトー)、ウフーラ(ウラ)、チェコフ、スコッティに絞られ、前作から登場したバルカン人・サーヴィックが役者を変えて登場。さらに「宇宙大作戦」の味わいが増していた。

当時、評価は二つに分かれたが、子供の頃「宇宙大作戦」に夢中になったぼくとしては大満足。同行したガールフレンドに、色々と解説をしたけど、果たして通じていたかどうかは???(笑)

というわけで、これまで、依頼原稿のチャンスがなく「スター・トレック」については、前回の「カーンの逆襲」のレビューが、おそらく初めて書いた原稿となった。このnoteでは「依頼はないけど、娯楽映画研究家として書いておきたい原稿を書く」のがコンセプトなので、思い切り書いてみました。

1万文字を超える「完全読本」を目指したので、よろしければお付き合いください。


―死んだ友を、どうやって連れ戻すのか

プロローグ 葬送から始まる物語


1982年、映画『スター・トレックⅡ カーンの逆襲』のラストで、世界中の観客は息を呑んだ。論理の人、U.S.S.エンタープライズ号の副長、バルカン人ミスター・スポックが死んだのだ。

ジェネシス装置の爆発からエンタープライズを救うため、スポックはただ一人、放射線に満ちた機関室へ入った。カークが駆けつけた時、二人の間には透明な隔壁があった。触れ合うことすらできないまま、スポックはガラス越しにバルカン式の挨拶を示し、静かに息を引き取る。

「多数の必要は、少数の必要に勝る」

それは『カーンの逆襲』を貫いた論理であり、スポックが自らの命と引き換えに証明した信念だった。

やがて、宇宙葬に付されたスポックの棺は、誕生したばかりの惑星ジェネシスへ向けて射出される。棺は惑星の大気圏へと吸い込まれ、緑の森の中に着地していた。

しかし、スポックの存在は完全には消えていなかった。死の直前、彼はマッコイ医師の顔に手を当て、「忘れないでくれ」と語りかけていた。あれは別れの言葉ではない。スポックはバルカン人の精神、すなわち「カトラ」を、親友マッコイの中へ移していたのである。

肉体はジェネシスにある。
精神はマッコイの中にある。


では、二つを再び結びつけることができれば、スポックは甦るのではないか。『スター・トレック3 ミスター・スポックを探せ!』は、その問いに答えるために作られた映画である。

原題は“Star Trek III: The Search for Spock”。1984年に公開された劇場版第3作で、『カーンの逆襲』から直接続く物語であり、次作『スター・トレック4 故郷への長い道』へ連なる三部作の中間章でもある。そしてこれは、宇宙や地球を救うための物語ではない。

たった一人の友人を救うため、地位も名誉も、軍人としての将来も、そして愛する宇宙船さえも捨てる男たちの物語なのである。

第一章 死の意味を覆すジェネシス


『カーンの逆襲』で登場したジェネシス装置は、生命の存在しない惑星を、短時間で豊かな生態系を持つ世界へ作り変える装置だった。

表向きは惑星開発のための平和的技術である。しかし、既に生命の存在する場所で使用すれば、そのすべてを破壊し、別の生命へ組み替えてしまう。そのため、兵器として悪用される危険も持っていた。

前作でカーンが装置を起動した結果、ミューチュラ星雲の物質は一つの新しい惑星へと再構成された。それがジェネシス惑星である。

ところが、ジェネシスには致命的な欠陥があった。

装置の開発者であり、カークの息子でもあるデヴィッド・マーカスは、研究を成功させるため、禁止されていた不安定な物質「プロトマター」を使用していたのだ。そのため、ジェネシス惑星は驚異的な速度で生命を生み出す一方、同じ速度で老化と崩壊へ向かっていた。

その異常な生命力が、スポックの亡骸にも作用していた。棺の中から消えていたスポックの肉体は、惑星上で幼児として再生し、惑星の急速な変化と連動するように、少年、青年、成人へと成長していく。しかし、そこには精神がない。肉体だけが、本能と苦痛の中で成長を繰り返している。

一方、地球へ帰還したマッコイは、精神の均衡を失い始めていた。

彼の口から、時折スポックの言葉がこぼれる。バルカンへ行かなければならないと訴え、立入禁止となったジェネシス惑星へ向かう宇宙船を探そうとする。カークは当初、マッコイの異変を、スポックを失ったことによる精神的な衝撃だと考える。しかし、スポックの父サレクが訪れたことで、事態の意味を知る。

スポックは死の直前、自らのカトラを誰かへ託したはずである。サレクは、それがカークだと考えていた。ところが精神融合によってカークの記憶を調べても、カトラは見つからない。そこでカークは、スポックが最後に触れた相手がマッコイだったことを思い出す。

マッコイは病んでいるのではない。
一つの身体の中に、二つの精神を抱えているのだ。

スポックの肉体をジェネシスから回収し、マッコイとともにバルカンへ連れていかなければならない。そうしなければ、スポックの魂だけでなく、マッコイの生命も危うい。

カークは、艦隊司令部にジェネシスへの航行許可を求める。だが、ジェネシス計画は最高機密とされ、惑星周辺は立入禁止区域となっていた。さらに、長年にわたってカークたちと宇宙を旅してきたエンタープライズ号は、戦闘による損傷と老朽化を理由に退役が決まっていた。

カークは提督のままであり、この時点で降格処分を受けているわけではない。しかし、正式な命令系統の中では、もはやスポックを救う道は残されていなかった。そこでカークは決断する。命令に従うことをやめるのだ。

第二章 掟を破る仲間たち


スポックを救うためには、エンタープライズ号を盗み出さなければならない。

それは艦隊士官としての経歴を失うだけでは済まない重大犯罪だった。それでも、かつての仲間たちは迷わずカークのもとへ集まる。スコッティは、最新鋭艦U.S.S.エクセルシオールの機関部へ細工を施す。スールーはマッコイを拘束している警備員を鮮やかに倒す。チェコフは航行管制を担当し、ウフーラは転送室で同僚を閉じ込め、カークたちをエンタープライズへ送り届ける。そして、自分だけは地球に残る。

この一連の場面には、『宇宙大作戦』の魅力が凝縮されている。彼らは命令されたから動くのではない。カークが命じたからでもない。スポックは自分たちの仲間であり、その仲間を救うためなら、これまで築いてきたすべてを失っても構わないと考えているのだ。

自動化されたエンタープライズを、わずか五人で動かすという作戦も楽しい。巨大な宇宙ドックの扉は閉ざされ、追跡のため最新鋭艦エクセルシオールが出動する。エンタープライズは満身創痍。対するエクセルシオールは、革新的なトランスワープ・ドライブを備えた次世代艦である。まともに競争すれば勝ち目はない。

だが、エクセルシオールは発進直後に停止する。着任したばかりのスコッティが、あらかじめ機関部から重要な部品を抜き取っていたのだ。「新しい船ほど故障しやすい」。そう言わんばかりのスコッティの仕事ぶりに、テレビシリーズ以来のファンは思わず笑みを浮かべる。

本作は、前作の重厚な悲劇を受け継ぎながらも、カーク、スコッティ、スールー、チェコフ、ウフーラ、マッコイという仲間たちの個性を丁寧に描いている。

誰もが自分にできることをする。その積み重ねによって、エンタープライズは宇宙ドックを脱出し、禁断の惑星ジェネシスへ向かうのである。

前作でスポックは「多数の必要は、少数の必要に勝る」と語った。しかし本作で仲間たちは、その論理を逆転させる。たった一人のために、多数がすべてを賭けるのだ。

第三章 監督の椅子に座ったスポック


この映画の成立を語る上で、最も重要なのがレナード・ニモイの監督就任である。

『カーンの逆襲』でスポックを死なせることになった背景には、ニモイ自身がシリーズとの関係を整理しようとしていたこともあった。しかし、完成した映画を観たニモイは、その出来映えとスポックの描かれ方に満足し、再びシリーズへ関わる意欲を持つようになる。

パラマウントから第3作への出演を打診されたニモイは、復帰の条件として、監督を希望した。ところが、当時のパラマウント幹部マイケル・アイズナーは難色を示した。

アイズナーは、ニモイが1975年に出版した自伝『I Am Not Spock』の題名から、彼がスポック役や『スター・トレック』そのものを嫌っていると受け止めていたのである。また、スポックの死もニモイ本人の強い希望によるものだと誤解していた。

ニモイは、それが事実ではないことを説明した。『I Am Not Spock』はスポックを否定する本ではなく、世界的に有名な役と、それを演じる一人の俳優との複雑な関係を綴ったものだった。ニモイはスポックを理解し、そのキャラクターを大切に思っていた。

最終的にアイズナーは納得し、ニモイの監督就任が決まる。俳優としてスポックを演じてきた人物が、自らその復活の物語を演出するという、シリーズ史上でも特別な作品が誕生したのである。

ニモイは、自分の役を目立たせるために監督を引き受けたのではない。むしろ、物語の大半で成人したスポックは登場しない。監督としてのニモイは、カークと仲間たちの友情、マッコイの苦悩、カーク親子の関係、そしてエンタープライズとの別れを中心に据えた。

彼は長年の共演を通じて、俳優たちの呼吸を熟知していた。ウィリアム・シャトナーの力強さと脆さ。デフォレスト・ケリーの毒舌の奥にある優しさ。ジェームズ・ドゥーハン、ジョージ・タケイ、ウォルター・ケーニッグ、ニシェル・ニコルズが、それぞれの役に与えてきた細かな人間味。

ニモイは、それらを壊さず、映画の中で一人ずつに見せ場を与えた。初監督作でありながら、『ミスター・スポックを探せ!』にテレビシリーズのような親密さがあるのは、ニモイが誰よりもこの登場人物たちを知っていたからだろう。

第四章 ジェネシスを狙うクリンゴン


ジェネシス惑星へ向かっているのは、カークたちだけではない。クリンゴン帝国のクルージ艦長もまた、ジェネシス装置の情報を手に入れようとしていた。

クルージにとって、惑星に生命を与える技術は、同時に惑星を一瞬で消滅させる究極兵器でもある。彼は秘密保持のためなら、味方も恋人もためらわず殺す冷酷な軍人として登場する。

クルージを演じたのはクリストファー・ロイド。翌1985年、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のエメット・ブラウン博士、通称ドクを演じ、世界的な人気を得る直前の出演だった。

ロイドのクルージは、後年のクリンゴン人のような豪放な武人というより、冷静で執念深い現場指揮官として描かれている。ジェネシスを単なる科学技術ではなく、自国の安全を脅かす戦略兵器と見なし、その獲得に固執する。

彼の乗艦であるバード・オブ・プレイも、本作で初登場した。猛禽類が翼を広げたような船体。航行時と攻撃時で角度を変える可動翼。そして、敵の目から姿を消す遮蔽装置。

後の『スター・トレック』シリーズを象徴する宇宙船の一つとなるが、もともと初期段階ではロミュラン船として構想されたデザインだった。それが脚本上の変更によってクリンゴン艦となり、以後、長くクリンゴン帝国を代表する艦船として定着していく。

クルージは、ジェネシスを調査中の連邦科学船U.S.S.グリソムを破壊し、惑星上にいたサヴィック、デヴィッド、そして再生したスポックを捕虜にする。ここで、カークたちの救出行は、二つの悲劇へ向かう。

第五章 カークが失ったもの


ジェネシスへ到着したエンタープライズは、遮蔽を解いたバード・オブ・プレイへ先制攻撃を仕掛ける。しかし、長年にわたる航海と前作での戦闘によって傷ついたエンタープライズは、すでに十分な乗員も戦闘能力も持っていない。一度の攻撃で敵を仕留めることができず、逆に致命的な損傷を受けてしまう。

その頃、惑星上では、クルージが人質の一人を殺すよう部下に命じていた。殺されようとするサヴィックを守るため、デヴィッドが飛び出す。

そしてカークは、通信を通じて息子の死を知らされる。この時、カークは言葉を失い、よろめきながら後方へ倒れ込む。シリーズを通じて、幾度も死と向き合ってきたカーク。しかし、実の息子を失うという現実には耐えられない。

『カーンの逆襲』で初めて対面し、ようやく親子としての時間を持ち始めたばかりだった。デヴィッドはジェネシスにプロトマターを使用した責任を抱えていたが、最後にはサヴィックとスポックを守るため、自らの命を差し出した。

カークがこの映画で失うものは、スポックだけではなかったのである。そして彼は、もう一つの大切な存在を自ら手放すことになる。

エンタープライズ号である。

戦闘不能となった船を、クルージの手に渡すわけにはいかない。カークは艦内に自爆装置を設定し、仲間たちとともにジェネシス惑星へ転送する。何も知らずに乗り込んできたクリンゴン兵たちを乗せ、エンタープライズは爆発する。

円盤部で連続する爆発。崩れ落ちる船体。燃えながらジェネシス惑星の大気圏へ落下していくエンタープライズ。カークは地上からその光景を見上げる。

「あの船で何をしてきたか」

彼の人生の大部分は、エンタープライズとともにあった。テレビシリーズ以来、単なる乗り物ではなく、仲間たちの故郷であり、もう一人の登場人物でもあった船が、ここで完全に失われる。スコッティは、カークに尋ねる。

「一体、何をしたんです?」
カークは答える。
「やらなければならないことをした」

スポックを救うために地位を捨てた。息子を失った。そしてエンタープライズを失った。それでもカークは前へ進む。

本作の原題は「スポックを探す旅」だが、カークが探しているのは、単に一人のバルカン人の肉体ではない。スポックを救えなかった自分自身を救い、彼の死によって失われた仲間たちの心を、もう一度一つにする旅でもあるのだ。

第六章 顔の変わったサヴィック


本作では、前作から続投した人物のうち、サヴィックを演じる俳優が交代している。

『カーンの逆襲』でサヴィックを演じたのはカースティ・アレイだった。理性を重んじながら、若さゆえの動揺や感情も覗かせる人物像は強い印象を残した。しかし第3作への出演交渉はまとまらず、アレイは降板する。

代わってサヴィックを演じたのがロビン・カーティスだった。カーティスのサヴィックは、アレイ版よりも感情表現を抑え、姿勢や話し方にも一層バルカン人らしい禁欲性を感じさせる。

ジェネシス惑星では、急速に成長するスポックの身体を守り、その苦痛に寄り添う役割を担う。特に重要なのが、青年期に達したスポックに「ポン・ファー」の兆候が現れる場面である。バルカン人男性は一定の周期で激しい生殖衝動に襲われ、それを乗り越えなければ生命に関わる。精神を持たず、肉体だけが成長しているスポックを救うため、サヴィックは彼と手を重ね、その苦痛を引き受ける。

説明的な台詞はほとんどない。ニモイは、サヴィックの静かな表情と儀式的な所作によって、二人の間に起きたことを暗示する。アレイとカーティスでは、サヴィックの印象は確かに異なる。しかし、どちらが正しいというより、前作では未熟な士官候補生だったサヴィックが、本作ではスポックの生命を守る成熟したバルカン人として描かれていると考えれば、その変化も作品の一部として受け入れられる。

第七章 いくつもの肉体、一つのスポック


ジェネシス惑星で再生したスポックは、惑星そのものの急速な老化に合わせて成長していく。

そのため本作では、幼年期から青年期まで、複数の俳優がスポックを演じた。少年期を演じたカール・スティーヴン。13歳ほどの姿を演じたヴァディア・ポテンザ。青年期を演じたスティーヴン・マンリー。成人に近い姿を演じたジョー・W・デイヴィス。

そして、バルカンでカトラを取り戻した後のスポックを、レナード・ニモイ自身が演じる。俳優の顔や身体は変わっても、そこに存在するのは一人のスポックでなければならない。

若いスポックたちは、ニモイからバルカン人特有の姿勢、視線、身体の使い方について指導を受けた。ただし、この時点のスポックには、記憶も理性もほとんどない。そのため彼らが演じるのは、私たちが知る論理的なスポックではなく、スポックになろうとしている一つの生命体である。

言葉を持たず、痛みに耐え、サヴィックの手に導かれながら成長していく。その姿は、死者の復活というより、もう一度生まれ直す過程のように見える。

本作はSF的な蘇生の物語でありながら、肉体と精神は同じものなのか、人間の存在をその人たらしめるものは何か、という問いを秘めている。

スポックの身体だけでは、スポックではない。マッコイの中にあるカトラだけでも、スポックではない。肉体、精神、記憶、そして他者との関係。そのすべてが再び結びついた時に初めて、スポックはスポックとして戻ってくるのである。

第八章 金がないからこそ生まれた未来


『ミスター・スポックを探せ!』は、当時のSF大作として無制限の予算が与えられた作品ではない。

前作『カーンの逆襲』が、劇場版第1作より大幅に製作費を抑えながら成功したことで、第3作も限られた予算を有効に使うことが求められた。そのため、美術スタッフは既存セットの改造や再利用を重ねた。

宇宙酒場、医療施設、宇宙船の内部などは、壁面、照明、装飾、小道具を変更することで、それぞれ別の空間として生まれ変わっている。しかし、映像のスケールは前作より大きい。

特殊効果を担当したILMが、本作では企画の早い段階から参加したためである。なかでも最大の成果が、地球周回軌道上に浮かぶ巨大なスペースドックだった。

ILMは高さ約6フィートの外観模型を透明なプレキシガラスで製作し、その表面を塗装した。無数の窓は、一つずつ塗料を削り落として表現され、内部からネオン光を当てることで、巨大構造物の中に数え切れないほどの人々が暮らしているような光が生み出された。

内部の撮影には、さらに全長約20フィートの別模型が作られた。エンタープライズ号がスペースドックの中へ進入していく場面では、船体そのものよりはるかに大きな構造物が画面を覆い、宇宙艦隊という組織の巨大さを一目で感じさせる。

また、劇中ではエンタープライズより新しく、より巨大な艦として登場するエクセルシオール号も新造された。興味深いことに、撮影用模型そのものはエンタープライズ号の模型より約12インチ小さかった。画面上の設定上の大きさと、撮影に用いる模型の大きさは必ずしも一致しないのである。

バード・オブ・プレイもまた、本作が生んだ傑作デザインだった。翼を可動させ、攻撃態勢になると猛禽が獲物へ襲いかかるような形になる。その視覚的な力強さによって、以後の映画やテレビシリーズでも繰り返し使用されることになった。

限られた予算は、決して作品を小さくしなかった。むしろ、どこに新しいデザインを投入し、どこを既存の資産で補うか。その判断が、映画全体に独特の密度を与えたのである。

第九章 炎に包まれた撮影所


撮影開始直後の1983年8月25日、パラマウント撮影所の屋外セットで大規模な火災が発生した。

炎は歴史あるニューヨーク街のセットなどを焼き、撮影所全体を混乱させた。『ミスター・スポックを探せ!』の撮影も中断を余儀なくされ、現場にいたウィリアム・シャトナーらが消火活動を手伝ったと伝えられている。

ジェネシス惑星のセットそのものが全焼したわけではなかったが、撮影開始から間もない時期の大火災は、初監督のニモイにとって大きな試練だった。

映画の中では、ジェネシス惑星が急速に崩壊し、大地が裂け、炎が噴き上がる。その映像の裏側でもまた、製作現場は文字通り炎と向き合っていたのである。

それでもニモイは撮影を進め、作品を完成させた。俳優として長い経験を持っていても、監督には予算、日程、技術、スタッフ、スタジオとの交渉など、画面に映らない無数の判断が求められる。火災という予期せぬ事態を乗り越えたこともまた、ニモイが単なる「俳優出身監督」ではなく、一本の大作映画を率いることのできる演出家であると証明する出来事となった。

第十章 バルカンへの帰還


崩壊するジェネシス惑星で、カークはクルージと対決する。

ここには前作のような知略を尽くした宇宙戦はない。息子を殺され、船を失ったカークと、ジェネシスの秘密を手に入れようとするクルージが、崩れ落ちる大地の上で直接殴り合う。

最後にカークはクルージを倒し、仲間たちとともにバード・オブ・プレイを奪う。エンタープライズを失った彼らが、敵の船でバルカンへ向かうという展開も面白い。

スポックの故郷バルカン。セレヤ山。そこで、バルカンの高僧トゥラルを中心に、「ファル・トー・パン」と呼ばれる儀式が行われる。

マッコイの中にあるスポックのカトラを、再生した肉体へ戻す儀式である。しかし、それが成功する保証はない。サレクはマッコイに、危険を伴うことを告げる。

するとマッコイは、眠っているスポックへ毒づく。自分は、お前のせいで頭の中を引っかき回され、遠くバルカンまで連れてこられ、今度は命がけの儀式を受けようとしている。それなのに、本人は何も知らずに眠っている。

いかにもマッコイらしい愚痴である。だが、その言葉の奥には、スポックへの深い愛情がある。常に論理を優先するスポックと、人間の感情を代弁するマッコイ。テレビシリーズ以来、二人は口論ばかりしてきた。

しかし、だからこそスポックは、最後に自分の魂をマッコイへ託したのではないか。最も自分と異なる人物。最も激しく自分へ反論する人物。そして、決して自分を見捨てない人物。

長い儀式の末、カトラはスポックの肉体へ戻される。しかし、目覚めた彼に記憶はない。仲間たちが並ぶ前を、スポックは一人ずつ確かめるように歩く。

そしてカークの前で立ち止まる。
「船は?」
カークは答える。
「船と引き換えに、君を取り戻した」


スポックは、なおも記憶をたどる。やがて、かすかな言葉が戻ってくる。

「ジム。君の名前は……ジム」
スポックは完全に元へ戻ったわけではない。

しかし、カークとの友情の記憶は、深い場所に残っていた。仲間たちの顔に、初めて安堵の表情が浮かぶ。

『ミスター・スポックを探せ!』は、ここで終わる。

大団円ではない。カークたちは命令違反を犯し、艦隊へ帰れば処罰を受ける。エンタープライズは失われ、デヴィッドも帰らない。スポックの記憶が完全に戻るかどうかも分からない。それでも、彼らは一人の友を取り戻した。そのことだけで、今は十分なのだ。

エピローグ 船よりも、人が大事だ


『スター・トレック3 ミスター・スポックを探せ!』は、前作『カーンの逆襲』ほど高く評価されないことも多い。

前作には、カークとカーンの対決、スポックの死、ジェームズ・ホーナーの音楽、潜水艦戦のような宇宙戦闘という、一本の映画としての鮮烈な完成度があった。

それに対し、第3作は前作の結末を受けて始まり、次作へ宿題を残して終わる。独立した作品というより、三部作の中間章という印象も強い。しかし、本作が果たした役割は決して小さくない。この映画がなければ、スポックは帰ってこなかった。

カークたちが宇宙艦隊の命令よりも仲間を選ぶこともなかった。エンタープライズ号との別れもなかった。そして、『故郷への長い道』で描かれる、地球へ帰還するための旅も始まらなかった。

何より本作は、『スター・トレック』という物語の中心にあるものが、宇宙船でも、未来技術でも、巨大な宇宙帝国でもないことを明確にした。

それは人間関係である。カークとスポック。スポックとマッコイ。そして、エンタープライズに集った仲間たち。

彼らは理想的な未来社会に生きているから互いを助けるのではない。長い時間をともに過ごし、衝突し、理解し合い、かけがえのない存在になったから助けるのだ。

カークは、スポックを救うためにすべてを失った。しかしスポックを取り戻した時、彼は本当に大切なものまで失ったわけではないことを知る。エンタープライズは爆発した。

地位も名誉も失われるかもしれない。それでも、仲間はここにいる。前作でスポックは、多数を救うために一人で死んだ。本作では、多数の仲間が一人のスポックを救うために立ち上がる。

「多数の必要は、少数の必要に勝る」

その論理に対して、『ミスター・スポックを探せ!』は、友情というもう一つの答えを差し出した。時には、一人の存在が、多数にとってのすべてになる。だからカークたちは命令を破った。

だからエンタープライズを盗んだ。だから愛する船を自爆させた。そして、だから私たちは今も、この映画とともにスポックを探しに行く。

死んだ友を、どうやって連れ戻すのか。その答えは、ジェネシス装置にも、バルカンの神秘にもない。どれほど多くを失っても、その人を諦めないこと。スポックを現世へ連れ戻した本当の力は、未来の科学ではなく、仲間たちの変わることのない友情だったのである。



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