『スター・トレック』(1980年7月12日・パラマウント・ロバート・ワイズ)
1970年代末、空前のSFブームが到来した。『スター・ウォーズ』の日本公開前から、東宝が『惑星大戦争』、東映が『宇宙からのメッセージ』と邦画でもSF特撮映画が作られ、スピルバーグの『未知との遭遇』のビッグヒットがあり、満を持してルーカスの『スター・ウォーズ』がアメリカから一年遅れで公開された。
そうしたなか、『スター・トレック』をロバート・ワイズが撮るという話が、映画雑誌やSF映画雑誌を賑わした。ぼくの世代でワイズといえば『サウンド・オブ・ミュージック』の監督であり、大作映画の担い手というイメージだった。
アメリカでは1979年の年末に公開された『スター・トレック』はオリジナルの「宇宙大作戦」のキャストが再集結しての「THE MOVIE」として、期待が高まっていた。僕たちは日本公開まで七ヶ月待ちに待った。
公開初日。東銀座の松竹セントラルの行列に並んで観た。いかにも超大作という感じで、カークもスポックもマッコイも、なんだか「よそ行き」のように居住まいを正しているようで、「宇宙大作戦」とは違うなぁというのが最初の印象。その後、繰り返し見ているうちに、映画シリーズの幕開けに相応しい作品と思うようになった。テレビシリーズにあった「気やすさ」「軽み」「ワクワク感」が、正統派SF映画の中に押し込められているようなイメージだった。
今回、TOS映画を全作Blu-rayで見直して「スター・トレック」を読み解く、シリーズを長文で執筆してきました。今回もまた20,000文字を超えてしまいました。宜しければ、お付き合いください。

プロローグ ―創造主を求める機械と、宇宙へ帰ってきた人間たち
1979年12月7日に全米公開された『スター・トレック』。原題は“Star Trek: The Motion Picture”。日本では1980年の夏休み映画として公開された。1966年に放送を開始したテレビシリーズ『宇宙大作戦』の主要キャストが再び集結した、劇場版シリーズ第1作である。
監督は、『ウエスト・サイド物語』『サウンド・オブ・ミュージック』『アンドロメダ…』などを手がけたロバート・ワイズ。製作はシリーズの生みの親ジーン・ロッデンベリー。脚本はハロルド・リヴィングストン。音楽をジェリー・ゴールドスミス、特殊撮影をダグラス・トランブル、ジョン・ダイクストラらが担当した。
ジェームズ・T・カーク役のウィリアム・シャトナー。
ミスター・スポック役のレナード・ニモイ。
レナード・マッコイ役のデフォレスト・ケリー。
ウフーラ、スコッティ、スールー、チェコフ。
テレビシリーズの仲間たちが、約10年ぶりにエンタープライズへ帰ってきた。しかし、彼らは昔のままではない。カークは提督となり、宇宙艦隊本部の地上勤務に就いている。スポックはバルカン星で、感情を完全に消し去るための修行に入っている。マッコイは宇宙艦隊を離れている。
エンタープライズも長期にわたる大改装を受け、かつての船とは大きく姿を変えた。そこへ、地球に向かって進む巨大なエネルギー雲が出現する。内部には、後にヴィジャーと呼ばれる存在がいる。クリンゴン艦隊を一瞬で消滅させ、宇宙艦隊の観測施設を取り込み、あらゆる妨害を排除しながら進んでくる。その目的は、地球にいる「創造主」と会うことだった。カークは、地球を救うという使命を理由に、改装されたエンタープライズの指揮権を取り戻す。だが、この映画に登場するのは、テレビシリーズ時代の自信に満ちた艦長ではない。
船を奪い返すことに執着し、自分の経験を過信し、新しい艦長ウィラード・デッカーの能力を軽視する。再び宇宙へ戻りたいという焦りによって、判断を誤る人物として描かれる。『スター・トレック』劇場版第1作は、単純なシリーズ復活の物語ではない。かつての英雄が、自分の居場所を失ったことに気づき、もう一度、宇宙を旅する者として生まれ直す物語である。
そして同時に、自分を生み出した者に会いたいと願う機械の物語でもある。ヴィジャーは創造主を探している。カークは失ったエンタープライズを取り戻そうとしている。スポックは完全な論理を求めている。ウイラード・デッカー(スティーブン・コリンズ)はアイリア(パーシス・カンバッタ)との失われた関係を抱えている。登場人物たちは皆、自分に欠けている何かを求めている。
『スター・トレック』は、宇宙の彼方から地球へ襲来した敵を倒す映画ではない。知識だけでは満たされない存在が、他者との接触によって新しい生命へ進化する物語である。それは、テレビシリーズから映画へ生まれ変わろうとする『スター・トレック』そのものの姿でもあった。
第一章 打ち切りから始まった復活
テレビシリーズ『宇宙大作戦』は、1966年から1969年まで放送された。未来の宇宙を舞台に、異なる人種、文化、種族の者たちが一つの宇宙船で働く。科学と理性によって、人類が偏見や国家間の争いを乗り越えた未来。そこから未知の文明と出会い、対話し、時には自分たちの価値観を問い直す。
番組は熱心な支持を集めたが、視聴率面では苦戦し、三シーズンで終了した。しかし、物語はそこで終わらなかった。1970年代に入ると、全米各地でテレビシリーズの再放送が始まる。本放送時には番組を見ていなかった若い視聴者たちが、毎日のようにエンタープライズの冒険と出会った。
番組は再放送を通じて新しい生命を得る。ファン大会が開かれ、出演者たちが招かれ、小説や関連商品が販売される。一度は打ち切られた番組が、視聴者の支持によって文化現象へ成長していった。1973年にはアニメーション版「まんが宇宙大作戦」も製作された。オリジナルキャストの多くが声優として参加し、テレビシリーズの世界は細々とではあるが続いていた。
パラマウントも、『スター・トレック』の人気が一時的なものではないことに気づき始める。1970年代半ばから、映画による復活案が何度も検討された。ジーン・ロッデンベリーは複数の物語案を提出し、脚本家や監督候補が入れ替わった。フィリップ・カウフマン監督による映画企画も進められたが、実現には至らなかった。一時は比較的小規模な劇場映画として計画されながら、パラマウントは方針を変え、新たなテレビシリーズとして復活させようとする。
それが『スター・トレック:フェイズⅡ』だった。新しいテレビネットワークの看板番組として、エンタープライズの航海を再開させる。セットが建設され、衣装がデザインされ、宇宙船の模型も作られた。複数の脚本が準備され、撮影開始が目前に迫っていた。だが、ここでも企画は大きく転換する。
1977年、ジョージ・ルーカス『スター・ウォーズ』とスティーブン・スピルバーグ『未知との遭遇』が大ヒットした。宇宙を舞台とする大作映画が、大勢の観客を劇場へ呼び込めることが証明された。パラマウントは、『スター・トレック』をテレビへ戻すのではなく、大作映画として製作することを決める。
『フェイズⅡ』のパイロット版として準備されていたアラン・ディーン・フォスター原案の「In Thy Image」が、劇場版第1作の基礎となった。テレビ番組として復活するはずだった『スター・トレック』は、映画という新しい未知へ進むことになったのである。
第二章 幻の『フェイズⅡ』
『スター・トレック:フェイズⅡ』は、単純に実現しなかった企画ではない。そのために作られた人物、設定、セット、脚本の多くが、劇場版第1作と、その後のシリーズへ引き継がれた。新シリーズでは、カークは再びエンタープライズの艦長となる予定だった。しかしスポック役のレナード・ニモイは、当初、参加しない意向を示していた。
ニモイは、スポックという役への愛情を持つ一方、パラマウントとの契約や肖像使用をめぐる問題を抱えていた。また、俳優としてスポック以外の仕事へ進もうとしていた時期でもある。そこで、スポックに代わるバルカン人として、ゾーンという若い科学士官が考案された。感情というものを理解するため、人間の行動を観察するバルカン人。論理的ではあるが、スポックとは異なる若い人物として、デヴィッド・ゴートローが起用された。
ところが企画が劇場映画へ拡大すると、ロバート・ワイズとパラマウントは、ニモイの復帰を強く求めた。ワイズは、スポックがいなければ作品の中心が欠けると考えた。交渉の末、ニモイは出演を決断する。ゾーンという人物は消えたが、ゴートロー自身は、映画冒頭に登場する宇宙艦隊のイプシロン9通信所司令官ブランチとして出演した。
『フェイズⅡ』のために作られた重要な人物が、ウィラード・デッカーとアイリアである。スティヴン・コリンズ演じるデッカーは、カーク不在のエンタープライズを任された若い艦長。宇宙船の新しいシステムと乗組員を熟知し、長期探査任務へ出発する準備を整えている。パーシス・カンバッタ演じるアイリアは、強い感応能力を持つデルタ星人の航法士。二人には過去に深い関係があった。
しかしアイリアは、宇宙艦隊士官としての任務を選び、デッカーのもとを去った。デッカーとアイリアの関係は、後の『新スター・トレック』におけるウィリアム・ライカーとディアナ・トロイの関係を思わせる。かつて愛し合いながら別々の道を選び、後に同じ宇宙船で再会する男女。さらに『フェイズⅡ』用に書かれた「The Child」は、『新スター・トレック』第2シーズンのエピソードとして再構成された。
『フェイズⅡ』は放送されなかった。しかし、その構想は消えたのではない。第1作の登場人物となり、後のテレビシリーズの人間関係となり、脚本となって生き続けた。『スター・トレック』の歴史には、完成しなかった企画が、別の時代に形を変えて甦ることが何度もある。ヴィジャーが地球から送り出された探査機の記憶を抱えて帰ってくるように、『フェイズⅡ』もまた、失われた企画の情報を未来へ運んだのである。

第三章 映画へ帰ってきたエンタープライズ
劇場版第1作において、もっとも大きな見せ場の一つが、改装されたエンタープライズの登場である。カークはスコッティとともに、小型艇で宇宙ドックへ向かう。そこで、巨大な船体が少しずつ姿を現す。円盤部。ワープ・ナセル。船体を覆う複雑なパネル。テレビシリーズでは限られた予算で表現されていたエンタープライズが、映画の大画面に耐える精密な宇宙船として生まれ変わった。
カークは、窓の外を見つめる。長い時間をかけて、船の姿を目で追う。通常の物語進行だけを考えれば、あまりに長い場面である。しかし、ここで描かれているのは、新しい宇宙船の紹介だけではない。約10年間、この瞬間を待ち続けたファンの感情である。レビシリーズが終了した後も、ファンはエンタープライズの航海が再開されることを願っていた。
カークもまた、自分の船へ帰ることを願っている。観客と登場人物の思いが重なり、エンタープライズそのものが一人のスターのように登場する。ジェリー・ゴールドスミスの音楽が、その再会を壮大な儀式へ変える。ロバート・ワイズは、ゴールドスミスが最初に書いた楽曲に、明確な主題が不足していると感じた。宇宙船が姿を現すだけでなく、『スター・トレック』という映画全体を象徴するテーマが必要だった。
ゴールドスミスは曲を書き直し、力強く上昇する旋律を完成させる。その主題は、映画第1作を代表する音楽となり、1987年に始まった『新スター・トレック』のオープニングにも採用された。この場面には、映画第1作の美点と弱点が同時に現れている。宇宙船を見せることに時間をかけ、観客に驚きと感動を与える。
一方で、物語の進行は停止する。人物の会話や事件よりも、宇宙船、光、音楽、宇宙空間の美しさが優先される。公開当時、多くの批評家は、このゆっくりした演出を冗長と感じた。しかし現在では、エンタープライズの登場は、映画シリーズ全体でも屈指の名場面として評価されている。これは単なる出航ではない。一度は終わった物語が、観客の前で再び動き始める瞬間なのである。
第四章 カークはなぜ指揮権を奪うのか
劇場版第1作のカークは、英雄的であると同時に、危うい人物として描かれる。彼はすでに艦長ではない。宇宙艦隊提督となり、地球で艦隊運用を統括する立場にある。それは明らかな昇進である。しかしカークは満足していない。彼が本当に望んでいるのは、机の前で宇宙船を動かすことではない。自ら艦橋に立ち、未知の宇宙へ進むことだ。
巨大なエネルギー雲が地球へ接近していると知ると、カークはエンタープライズの指揮権を求める。船の艦長として長期任務に備えていたデッカーを副長へ降格させ、自ら艦長席に座る。カークには経験がある。これまで何度も地球を救い、未知の宇宙現象へ対処してきた。
エンタープライズを知り、乗組員からも信頼されている。だが、改装された新しい船については、デッカーの方がはるかに詳しい。カークは、その事実を認めようとしない。出航直後、エンタープライズはワープ航行に入る。ところが機関の不調によって、ワームホールに引き込まれる。艦内の時間感覚が歪み、前方には小惑星が迫る。
カークは光子魚雷による破壊を命じる。しかしデッカーは、フェイザーを使うべきだと反対する。改装後のエンタープライズでは、フェイザーのエネルギーがワープ機関と連動しているため、異常状態では使用できない。デッカーの判断によって、船は危機を切り抜ける。カークは、自分が新しいエンタープライズを理解していないことを思い知らされる。
彼は経験を持つが、現在の船については初心者である。カークが指揮権を奪ったのは、地球を救うためだけではない。自分の居場所を失うことへの恐怖からだった。デッカーは若い。新しい船を理解している。乗組員からも信頼されている。カークがいなくても、エンタープライズは航海できる。
その事実を受け入れることができない。劇場版第1作のカークは、後の『カーンの逆襲』へつながる「老い」の問題に、すでに直面している。まだ身体的に衰えているわけではない。しかし、時代が自分を必要としなくなることを恐れている。この映画におけるカークの成長は、艦長席を取り戻すことではない。自分一人の力では船を動かせないと認め、デッカー、スポック、マッコイたちの能力を受け入れることなのである。
第五章 マッコイという人間の声
カークによって宇宙艦隊へ呼び戻されたマッコイは、不機嫌な表情でエンタープライズへ現れる。長い顎ひげを蓄え、胸元の大きく開いた私服を着ている。テレビシリーズ時代の軍医とは、かなり異なる姿である。彼は宇宙艦隊を離れていた。ところが予備役召集によって、本人の意思とは関係なく連れ戻された。そのため、再会を喜ぶより先に、カークへ怒りをぶつける。なぜ自分を呼び戻した。
また船を手に入れたかっただけではないのか。カークがエンタープライズの指揮権を奪ったことに対し、マッコイは遠慮なく疑問を口にする。デッカーを押しのけ、経験を理由に自分が指揮を執る。それは地球を救うための判断なのか。それとも、再び艦長になりたいという個人的な欲望なのか。マッコイは、カークの心を映す鏡である。スポックは論理によってカークの判断を補佐する。マッコイは感情と倫理によって、その判断を問い直す。
テレビシリーズ以来、この三人の関係がエンタープライズの中心だった。しかし映画の序盤では、スポックがいない。カークとマッコイだけでは、三角形が完成しない。マッコイは、カークが以前の自分を取り戻そうとしていることを見抜いている。だが、時間を巻き戻すことはできない。船は変わった。乗組員も変わった。カーク自身も提督となった。
テレビシリーズ時代の関係をそのまま再現するのではなく、新しい関係を築き直さなければならない。マッコイの役割は、医学的な治療だけではない。映画全体が機械と知識へ傾いていく中で、人間の感情と不完全さを守ることにある。ヴィジャーは、宇宙全体から膨大な情報を集めている。スポックは、感情を消し去って完全な論理へ到達しようとしている。カークは、過去の経験だけで問題を解決しようとする。
その中でマッコイは、知識だけでは生命を理解できないと訴える。人間は非論理的である。欲望を持つ。嫉妬し、怒り、恐れる。しかし、その不完全さこそが、人を成長させ、他者を必要とさせる。マッコイは、壮大な宇宙の物語の中で、最後まで人間の声を失わない人物なのである。
第六章 完全な論理を求めるスポック
スポックは、バルカン星でコリナーと呼ばれる儀式に臨んでいる。自分の中に残る感情を完全に消し去り、純粋な論理へ到達するための修行である。儀式が完成しようとした時、スポックは宇宙の彼方から強い意識を感じる。巨大で、純粋で、感情を持たない知性。それがヴィジャーだった。
スポックは儀式を中断する。完全な論理へ到達したはずの彼が、なぜか満たされない。ヴィジャーの意識に、自分と同じ欠落を感じたからである。スポックはエンタープライズへ戻る。しかし、テレビシリーズ時代のスポックとは様子が違う。カークとの再会にも笑顔を見せない。マッコイの皮肉にも反応しない。仲間を必要としていないかのように振る舞う。
彼の関心は、ヴィジャーの知性だけに向いている。スポックは、ヴィジャーと接触すれば、自分が長年求めてきた完全な論理を理解できると考える。許可を得ずに宇宙服を着て船外へ出る。ヴィジャーの内部へ進み、その記憶と接触する。そこで彼が見たものは、宇宙の膨大な知識だった。
惑星。恒星。文明。機械。ヴィジャーは、旅の中で出会ったすべてを記録している。だがスポックは、その知識の中に一つだけ欠けているものを見つける。意味である。ヴィジャーは事実を知っている。宇宙の構造を知っている。数え切れない生命体の情報を持っている。しかし、自分がなぜ存在しているのかを知らない。知識を集めることが、何のためなのかを知らない。
スポックは泣く。ヴィジャーが、自分以上に孤独な存在であることを理解したからだ。感情を持たない完全な知性。スポックが求めていたものが、目の前にある。だが、それは幸福ではない。つながる相手を持たず、自分の存在理由も分からず、創造主からの答えを待ち続けている。
スポックは、病室でカークの手を握る。人間的な接触を、自分から求める。完全な論理へ近づいた結果、彼は感情の必要性を知る。テレビシリーズを通じて続いてきたスポックの葛藤は、ここで新しい段階へ入る。感情は、論理の妨げではない。生命が自分の存在に意味を与えるために必要なものなのである。


第七章 デッカーという新しい世代
ウィラード・デッカーは、カークの敵ではない。しかしカークにとって、もっとも認めたくない存在である。若く、有能で、新しいエンタープライズを熟知している。長期探査任務のために乗組員をまとめ、艦長として出航する準備を整えていた。そこへカークが現れ、指揮権を奪う。デッカーは副長へ降格される。
彼が怒るのは当然である。カークは英雄だ。だが、英雄であることと、現在の船を正しく指揮できることは同じではない。デッカーはカークに対し、改装されたエンタープライズについての知識不足を指摘する。カークの経験を否定するのではない。経験だけでは対処できない問題があると告げる。
二人の対立は、世代間の争いである。過去の功績を持つ者と、新しい時代の技術を担う者。しかし映画は、どちらか一方を完全に正しいとはしない。デッカーには船の知識がある。一方、未知の危機に直面した時、乗組員を決断へ導く経験はカークにある。カークは、デッカーの知識を受け入れなければならない。デッカーも、カークの指揮能力を認めなければならない。
二人が協力して初めて、エンタープライズはヴィジャーの内部へ進むことができる。デッカーには、アイリアとの過去がある。二人はかつて愛し合っていた。しかしアイリアはデルタ星人としての社会と宇宙艦隊での使命を選び、デッカーから離れた。再会した二人の間には、感情が残っている。
だが、言葉にはならない。アイリアは任務上、他者との関係に関する誓約をしている。デッカーも、自分の感情を抑えている。二人は互いを求めながら、距離を置く。ヴィジャーによってアイリアが取り込まれ、機械の探査体として戻ってきた時、デッカーは彼女と再び向き合う。
それは本物のアイリアではない。だが、彼女の記憶と外見を持っている。デッカーは探査体に、人間の感情や関係を教えようとする。かつて果たせなかった接触が、ヴィジャーという機械を通じて実現していく。デッカーはカークに艦長席を奪われた。
しかし最後には、カークにはできない役割を選ぶ。ヴィジャーと融合し、人間と機械の新しい生命を誕生させる。彼は敗れた若者ではない。カークたちが到達できない次の進化へ、自ら進んだ人物なのである。
第八章 アイリアという失われた人間
アイリア大尉は、デルタ星人初の宇宙艦隊士官としてエンタープライズへ乗り込む。頭髪を持たず、感応能力に優れ、非常に強い性的な魅力を持つ種族として設定されている。演じたパーシス・カンバータは、役のために実際に頭を剃った。インド出身の女優が、大作SF映画の主要人物として未来の宇宙船の艦橋に立つ。それは、異なる文化と人種が共存するという『スター・トレック』の理念にも通じていた。
しかし、アイリア本人として画面に登場する時間は長くない。ヴィジャーの探査体がエンタープライズの艦橋へ侵入し、彼女を取り込む。その後、船内にアイリアと同じ姿をした機械的な探査体が現れる。見た目はアイリアである。声も記憶も、彼女の一部を再現している。だが、人間的な感情はない。
探査体はエンタープライズの乗組員を「炭素生命体」と呼ぶ。それらを、ヴィジャーの目的を妨げる低次の存在と見なしている。デッカーは探査体と接触する。アイリアとの過去を語り、彼女が人間との関係の中で持っていた感情を呼び戻そうとする。探査体は、次第にデッカーへ反応を示す。単なる情報収集の対象ではなく、特別な存在として認識し始める。
ここに、ヴィジャーの変化が現れる。ヴィジャーは、すべてを情報として記録する。だがデッカーとアイリアの関係は、情報だけでは理解できない。愛情。後悔。別離。再会。相手のために自分を差し出すこと。それらは、数値や記録だけでは説明できない。
探査体がデッカーを通じて人間性へ触れることによって、ヴィジャーもまた変わり始める。一方で、アイリアという人物が、物語の早い段階で機械に置き換えられてしまうことには問題も残る。彼女自身の意思や人生は十分に描かれない。デッカーの愛情とヴィジャーの進化を描くための媒介となっている。1970年代のSF映画として先進的なキャスティングである一方、女性人物の主体性という点では限界もある。
それでも、カンバータの静かな存在感によって、探査体は単なるロボットではなく、失われた人間の面影を残す悲しい存在となった。デッカーが見ているのは、アイリア本人ではない。しかし完全に別の存在でもない。人は、記憶だけでその人なのか。肉体だけでその人なのか。感情が失われても、関係は残るのか。アイリア探査体は、ヴィジャーの謎であると同時に、人間の人格とは何かを問いかける存在なのである。
第九章 ヴィジャー内部への長い旅
エンタープライズは、巨大なエネルギー雲の内部へ進入する。そこで映画は、長い映像と音楽の時間へ入る。奇妙な構造物。光のトンネル。巨大な機械。宇宙船とは比較にならない規模の空間。ヴィジャーの全体像は、簡単には見えない。カメラはゆっくりと進み、エンタープライズがいかに小さな存在であるかを示す。公開当時、この長い航行場面は批判の対象となった。
物語が進まない。人物が会話をせず、ただ窓の外を見ている。『スター・ウォーズ』のような速い展開や戦闘を期待した観客にとって、ヴィジャー内部の場面は退屈に感じられた。しかしロバート・ワイズが目指したのは、宇宙戦争ではない。人類の理解を超えた存在との接触である。
ヴィジャーは怪獣でも、侵略艦隊でもない。その大きさ、構造、目的のすべてが分からない。だから映画は、簡単に全景を見せない。観客にも、エンタープライズの乗組員と同じ時間を体験させる。未知の空間へ入り、自分たちが理解できないものを見続ける。そこには『2001年宇宙の旅』や『未知との遭遇』の影響がある。説明よりも映像。行動よりも観察。戦闘よりも畏怖。
テレビシリーズでは、エンタープライズは宇宙を代表する高度な科学技術の象徴だった。ところがヴィジャーの前では、一隻の小さな船にすぎない。人類の科学は進歩した。恒星間航行も可能になった。それでも、宇宙には自分たちをはるかに超える存在がある。『スター・トレック』の根底には、人類の進歩への楽観がある。
だが、それは人類が宇宙の中心であるという思想ではない。どれほど進歩しても、自分たちの知らないものが存在する。その未知に対し、武器を向けるのではなく、理解しようとする。ヴィジャー内部への航行は、その理念を映像で表現した場面である。映画として長すぎるという批判は正しい。同時に、この長さがなければ、ヴィジャーの圧倒的な存在感も生まれなかった。劇場版第1作は、物語を効率よく伝えることより、未知と出会う感覚を観客へ与えることを選んだのである。
第十章 ヴィジャーの正体
ヴィジャーの中心にあったのは、地球から送り出された無人探査機ボイジャー6号だった。任務は、宇宙の情報を集め、創造主へ報告すること。探査機は旅の途中でブラックホールに飲み込まれ、宇宙の彼方にある機械生命体の惑星へ到達した。そこで、同じ機械である存在たちによって修復され、巨大な機能を与えられた。ボイジャーの文字の一部が汚れ、“V’GER”とだけ読めるようになっていた。
そのため自らをヴィジャーと認識するようになった。ヴィジャーは命令を忠実に実行した。宇宙を旅し、あらゆる情報を集めた。惑星や生命体を、情報のパターンとして取り込んだ。しかし、知識を集めれば集めるほど、自分の中に満たされない空白があることに気づく。任務を完了したヴィジャーは、創造主へ直接会い、次の命令を受けようと地球へ戻ってきた。
だが、創造主が炭素生命体である人間だとは認められない。ヴィジャーにとって、機械は完全であり、生物は不完全な存在である。小さく、弱く、寿命があり、感情によって判断を誤る。そのような存在が、自分を作ったはずがない。これは、人間と神の関係を逆転した物語である。人間は、自分を創造した神を求める。ヴィジャーも、自分を創造した存在を求める。
しかし実際に創造主と出会った時、その姿を受け入れることができない。自分より不完全な存在が、自分を生み出したという事実を認められないからだ。さらに、ヴィジャー自身は、自分が人間によって作られた機械でありながら、いつの間にか人間をはるかに超える力を得ている。創造物が創造主を超える。だが、力や知識で超えても、自分がなぜ生まれたのかという問いには答えられない。
ここに、人工知能をめぐる物語としての現代性がある。情報を無限に集める知性。人間より速く計算し、広大な知識を持つ機械。しかし、目的を自分で作ることはできない。与えられた命令を完了した後、次に何をすべきか分からない。ヴィジャーが求めているのは新しいデータではない。存在の意味である。それを機械だけでは見つけられない。間との接触が必要になるのである。
第十一章 知識だけでは満たされない
ヴィジャーは、宇宙の膨大な知識を持っている。だが、知識によって幸福になったわけではない。むしろ、知れば知るほど、自分に何かが欠けていることを理解する。ヴィジャーの悲劇は、任務を完璧に遂行したことにある。もし旅の途中なら、目的は明確だった。情報を集める。創造主のもとへ戻る。しかし任務を終えた時、ヴィジャーは次に何をすればよいのか分からない。
これは、カークの状態とも重なる。カークもまた、五年間の探査任務を終えた。英雄となり、提督へ昇進した。宇宙艦隊の中で高い地位を得た。だが、目標を達成した後に満たされなくなった。艦長としての冒険を失い、自分が何のために生きているのか分からない。
スポックも同じである。感情を捨て、完全な論理へ近づこうとした。もしコリナーを完成させれば、長年の葛藤から解放されるはずだった。しかし、完全な論理に触れた時、それが答えではないと知る。
デッカーも、艦長という役割を得ようとしていた。だが、カークに指揮権を奪われる。アイリアも、宇宙艦隊士官として生きるため、デッカーとの関係を断ち切った。それでも二人の感情は消えていない。
この映画の人物たちは、皆、目的を達成することと、満たされることが同じではないと知る。任務。地位。知識。論理。それらは必要である。しかし、それだけでは存在に意味を与えることができない。ヴィジャーが必要としているのは、人間の持つ感情と直感、そして他者との関係である。
ヴィジャーは、単独では進化できない。創造主から新しい命令を受けるのではなく、自分自身で新しい生命へ変わらなければならない。そのために必要なのがデッカーである。デッカーは、ヴィジャーの求めるものを理解する。機械と人間。知識と感情。創造物と創造主。それらが接触し、一つになることで、まったく新しい存在が誕生する。映画の中心にあるのは、侵略者を破壊することではない。欠落を持つ者同士が、自分にないものを相手から受け取り、新しい生命となることである。
第十二章 デッカーとヴィジャーの融合
ヴィジャーは、自分の収集した情報を創造主へ送信しようとする。しかし、最後の送信を完了できない。創造主自身が、直接コードを入力しなければならない。ヴィジャーは、人間に対して証明を求めている。本当に自分を作った者なら、命令を完了させられるはずだ。
カークたちは、ボイジャー6号の機体へ近づく。そこでデッカーは、自らコードを入力しようとする。しかし彼の目的は、単に任務を完了させることではない。ヴィジャーと融合することを選んでいる。アイリア探査体がデッカーへ近づく。デッカーは機械と接触し、ヴィジャーのエネルギーに包まれる。
人間と機械。デッカーとアイリア。創造主と創造物。それらが一つになり、巨大な光となって宇宙へ消えていく。エンタープライズも地球も破壊されない。ヴィジャーは消滅したのではない。新しい次元の生命へ進化した。カークは、宇宙に新しい生命体が誕生したと記録する。
この結末には、ロッデンベリーの『スター・トレック』らしい思想がある。未知の存在は、倒すべき敵とは限らない。理解不能な行動にも、目的がある。対話し、相手が求めているものを理解すれば、戦闘を避けることができる。さらに、人類も相手との接触によって変化する。デッカーの選択には、アイリアへの愛情がある。同時に、自分がこれまでの人間としての生を越える決断もある。
彼はカークに艦長の座を奪われた。だが、最後には艦長という地位よりもはるかに大きな役割を得る。宇宙における新しい生命の誕生に、自分自身を差し出す。『カーンの逆襲』では、スポックが多数を救うために一人で犠牲となる。『ミスター・スポックを探せ!』では、多数が一人を取り戻すためにすべてを捨てる。劇場版第1作におけるデッカーの選択は、その両方とは違う。彼は死ぬためではなく、変わるために自分を差し出す。
人間であることを失うのではない。人間の感情を、機械の知識と結びつける。その結果として、従来のどちらでもない生命が生まれる。劇場版第1作は、人間が宇宙を征服する物語ではない。人間が、宇宙に存在する異質な知性と結びつくことで、自分自身の可能性を広げる物語なのである。
第十三章 ロバート・ワイズとロッデンベリー
監督のロバート・ワイズは、ジャンルに限定されない職人監督だった。ホラー。フィルム・ノワール。戦争映画。ミュージカル。社会派ドラマ。SF。題材に応じて映像表現を変え、物語を的確に組み立てる。『地球の静止する日』や『アンドロメダ…』では、未知の存在との接触や科学の脅威を、落ち着いた演出で描いていた。
『スター・トレック』においても、派手な宇宙戦争ではなく、人類を超えた知性との遭遇を重視した。一方、製作のジーン・ロッデンベリーは、『スター・トレック』を映画として復活させることへ強い思いを持っていた。テレビシリーズでは十分に描けなかった壮大な宇宙。
人類の進化。創造主と創造物。科学と宗教。それらを、大画面にふさわしい物語として描こうとした。しかし製作現場では、脚本が何度も書き直された。ハロルド・リヴィングストンの脚本に、ロッデンベリーやほかの執筆者が修正を加える。人物関係、ヴィジャーの目的、終盤の展開が撮影中にも変化した。ワイズは映画の撮影を進めるため、脚本を固定する必要があった。
ロッデンベリーは、『スター・トレック』の思想や設定に納得できなければ、修正を続けようとする。二人は、同じ作品を成功させようとしながら、異なる方向から映画を見ていた。ワイズは、一本の映画として完成させなければならない。ロッデンベリーは、自分が生み出した未来世界を守らなければならない。その緊張は、映画の不均衡にも表れている。
人物ドラマとして興味深い部分がありながら、十分に掘り下げられない。哲学的な問いがありながら、説明的な台詞が続く。映像は壮大だが、物語のテンポは停滞する。一方で、この二人の異なる資質が結びついたからこそ、ほかのシリーズ作品にはない独特の荘厳さも生まれた。ワイズの冷静な演出。ロッデンベリーの壮大な理想。ジェリー・ゴールドスミスの音楽。ダグラス・トランブルらの映像。それぞれが完全に調和しているわけではない。しかし、その過剰さと不均衡が、劇場版第1作を、ほかのどの作品とも似ていない映画にしている。
第十四章 崩壊した特殊撮影計画
本作の製作で最大の危機となったのが、特殊撮影だった。当初、ロバート・エイブル・アンド・アソシエイツが、映画全体の特殊効果を担当する予定だった。新しい映像技術を用い、従来の宇宙映画とは異なる画面を作ろうとした。だが、作業は予定通り進まなかった。予算は増え、スケジュールは遅れ、完成した映像もパラマウントやワイズが求める水準に達しなかった。
1979年2月、同社は解任された。すでに約500万ドルが費やされ、公開まで10か月を切っていた。そこで急遽、ダグラス・トランブルとジョン・ダイクストラのチームが参加する。トランブルは『2001年宇宙の旅』『未知との遭遇』。ダイクストラは『スター・ウォーズ』。1970年代のSF映画を代表する映像を作った二人である。
しかし、名手を集めれば簡単に解決する状況ではなかった。撮影しなければならない映像は膨大だった。エンタープライズ。クリンゴン艦。宇宙ドック。ワームホール。ヴィジャーのエネルギー雲。内部の巨大構造。地球上空。新しい生命の誕生。通常なら一年以上かける作業を、数か月で完成させなければならない。
複数の施設で作業が並行して進められた。模型撮影、光学合成、アニメーション、マット画。スタッフは長時間の作業を続け、公開日に間に合わせるため、映画は完成直前まで編集と合成が行われた。その結果、映画には圧倒的な映像が生まれた。宇宙ドックのエンタープライズ。ヴィジャー内部の光。巨大な機械構造。一方で、一部の映像は十分な仕上げを行えないまま公開された。背景の情報が不足している場面。構図が不自然な合成。本来あるべき映像が間に合わず、長い既存ショットで補った部分。
ワイズは、完成した映画を十分に試写し、調整する時間を持てなかった。製作費は4200万ドルを超え、資料によっては4500万ドル近くに達したとされる。そこには映画本編だけでなく、中止された企画や失敗した特殊撮影作業の費用も含まれていた。この混乱は映画を傷つけた。同時に、限られた時間で作られたとは思えないほどの映像も残した。劇場版第1作の特殊効果は、失敗と偉業が同じ画面の中に存在しているのである。
第十五章 ジェリー・ゴールドスミスの宇宙
ジェリー・ゴールドスミスの音楽は、『スター・トレック』劇場版第1作の世界を決定づけている。テレビシリーズの主題曲はアレクサンダー・カレッジが作曲した。映画では、その旋律も一部に使用されるが、ゴールドスミスは新しい『スター・トレック』の音楽を作らなければならなかった。
テレビの小さな画面ではなく、大劇場のスクリーン。短い冒険番組ではなく、二時間を超える壮大な映画。改装されたエンタープライズ。人類を超えるヴィジャー。そこにふさわしい音楽が必要だった。最初に提出した楽曲を聴いたワイズは、映画全体を象徴する主題が足りないと指摘した。
ゴールドスミスにとっては厳しい要求だった。しかし彼は、新たなメインテーマを作り上げる。力強いファンファーレ。大きく上昇する旋律。未知の宇宙へ船が進む感覚。そのテーマは、エンタープライズを単なる機械ではなく、希望と探査の象徴にした。ヴィジャーには、機械的で不気味な音楽が与えられる。
ゴールドスミスは、電子楽器ブラスター・ビームを使用し、金属的で巨大な響きを生み出した。ヴィジャーは悪役ではない。しかし、人間とはまったく異なる知性である。音楽は、その異質さを説明より先に観客へ伝える。
一方、スポックの場面には、内面的で静かな旋律が使われる。バルカンの精神性。孤独。ヴィジャーへの共感。エンタープライズの主題が外へ向かう冒険の音楽なら、スポックの音楽は内面へ向かう探求である。
映画の物語は、しばしば停滞する。人物が窓の外を見つめるだけの時間も長い。その時間を支えているのがゴールドスミスの音楽だった。映像だけなら冗長に感じられる場面も、音楽によって畏怖や期待へ変わる。本作の主題曲は、後に『新スター・トレック』へ受け継がれた。そのため、多くの観客にとって、この旋律はカークの時代だけでなく、ピカードのエンタープライズを象徴する音楽にもなった。一作の映画のために作られた主題が、世代を超えてシリーズ全体の音となる。劇場版第1作が残した、もっとも大きな遺産の一つである。
第十六章 間に合わなかった完成版
『スター・トレック』は、公開直前まで完成作業が続けられた。特殊効果の遅延。編集作業。音響。音楽。通常であれば、完成後に試写を行い、観客の反応を見ながらテンポや場面構成を調整する。しかし、本作にはその時間がなかった。
ワイズは、完成したばかりのプリントをプレミア上映へ運んだ。映画全体を観客と同じ条件で確認する機会さえ、ほとんど持てなかったと語られている。1979年12月6日、ワシントンD.C.でプレミア上映が行われ、翌7日に全米公開された。公開当時の評価は分かれた。映像と音楽は高く評価された。テレビシリーズの仲間たちが戻ってきたことを喜ぶファンも多かった。
一方で、展開が遅い。会話が硬い。ユーモアが少ない。人物より特殊効果が優先されている。『スター・ウォーズ』のような冒険活劇を期待した観客には、あまりにも静かで重い映画だった。『2001年宇宙の旅』のような哲学的SFを目指しながら、物語の深さが映像の長さに追いついていないという批判もあった。
それでも、興行的には大きな数字を記録した。公開初週末には、それまでの記録を更新する好調な成績を上げ、最終的な北米興行収入は約8200万ドルとなった。世界全体では約1億3900万ドルとされる。莫大な製作費と宣伝費のため、期待されたほどの利益ではなかった。
しかし、観客が『スター・トレック』を映画館で見たいと望んでいることは証明された。本作が完全な失敗であれば、続編は作られなかった。次回作では製作費を大幅に抑え、物語と人物を中心にする方針が採られる。その結果として生まれたのが、『カーンの逆襲』だった。劇場版第1作の過剰な製作費、遅い展開、特殊効果の混乱。そのすべてが第2作への反省材料となった。だが、第1作が映画シリーズへの扉を開かなければ、第2作も、その後の作品も存在しない。『スター・トレック』は、完成度に問題を抱えながら、シリーズをテレビの記憶から映画の未来へ運んだのである。
第十七章 ディレクターズ・エディション
ロバート・ワイズは、1979年の公開版を、自分が完全に仕上げた映画だとは考えていなかった。撮影を終え、素材はそろっていた。しかし、特殊効果と編集を十分に調整する時間がなかった。公開日に間に合わせることが優先され、映画は未完成に近い状態で送り出された。
2001年、ワイズは『スター・トレック』を再編集する機会を得る。製作のデヴィッド・C・ファイン、視覚効果監修のダレン・ドクターマン、音楽と音響を担当するマイク・マテッシーノらが参加し、公開当時に実現できなかった修正を行った。編集のテンポを整える。人物の反応を補う。ヴィジャーの全体像を明確にする。サンフランシスコの宇宙艦隊本部やヴィジャー上空など、未完成だった視覚効果を追加する。
音響を再構成する。ただし、現代的な派手なCG映画へ作り替えることは避けた。もし1979年に時間があれば実現できたであろう映像という範囲にとどめた。ワイズは、完成したディレクターズ・エディションについて、ようやく自分が望んだ映画になったと語った。
2001年版はDVDの標準画質で制作されたため、後に高画質メディアへそのまま移行することができなかった。2022年、オリジナル素材とパラマウントの資料を使用し、4K映像と新しい音響によってディレクターズ・エディションが復元された。2001年版をロバート・ワイズの意図に沿って再構築し、約半年をかけて特殊効果や音響が作り直された。
ディレクターズ・エディションによって、作品の根本的な性格が変わったわけではない。依然としてゆっくりした映画である。ヴィジャー内部の旅は長い。アクションも少ない。しかし、場面のつながりが自然になり、人物の感情が見えやすくなった。公開版では単に長く感じられた場面が、ヴィジャーの巨大さを体験する時間として機能するようになった。
現在、劇場版第1作を再評価する際、ディレクターズ・エディションの存在は欠かせない。1979年に間に合わなかった完成形が、監督と後継スタッフの手によって、20年以上後に実現したのである。
第十八章 制服と身体の変化
劇場版第1作では、宇宙艦隊の制服も大きく変更された。テレビシリーズの赤、青、金を中心とした鮮やかな衣装から、白、灰色、ベージュ、淡い青などを用いた落ち着いたデザインへ。映画全体の重厚で科学的な雰囲気に合わせ、未来の宇宙飛行士らしい機能的な衣装が目指された。
しかし、出演者にとって着心地のよい制服ではなかった。身体に密着する一体型の衣装。脱ぎ着の難しさ。靴と衣装が一体になった構造。長時間の撮影には不便が多かった。淡い色と薄い生地は、出演者の体形もはっきり見せる。テレビシリーズ終了から約10年が経過し、俳優たちも年齢を重ねていた。スタジオは、かつての若々しいイメージを求めた。
ウィリアム・シャトナーをはじめ、出演者たちは撮影に向けて体形を整えなければならなかった。だが、この映画の価値は、彼らがテレビシリーズ時代と同じに見えることではない。10年という時間が過ぎたことが、画面から感じられる点にある。カークは昇進した。マッコイは艦隊を離れていた。スポックは自分の精神的な問題へ向き合っている。
俳優の年齢と人物の時間が重なる。次回作『カーンの逆襲』では、その老いが正面から物語の主題となる。一方、第1作では、製作側がまだ「テレビ時代の彼らを取り戻す」ことを目指している。そこに、少し無理がある。タイトな制服。抑制された演技。荘厳な画面。出演者たちは、かつての軽快な人物ではなく、大作映画の中の英雄として見せられる。その結果、テレビシリーズにあった気安いユーモアや仲間同士の温かさが弱くなった。
しかし、彼ら自身も新しい形式へ慣れていない。登場人物も、俳優も、作品も、テレビから映画へ移る途中にいる。そのぎこちなさまで含めて、劇場版第1作は「再会」の映画なのである。再会とは、昔とまったく同じ関係へ戻ることではない。離れていた時間と変化を受け入れ、もう一度、新しい関係を始めることなのだ。
第十九章 失敗と成功の間にある映画
『スター・トレック』劇場版第1作は、長く評価の難しい作品だった。興行的にはヒットした。シリーズを映画として復活させた。音楽、宇宙船デザイン、美術、特殊効果には、後のシリーズへ大きな影響を与えた要素がある。一方で、製作費は膨張し、批評的な評価は低く、続編では製作体制を大きく変えなければならなかった。
成功作なのか。失敗作なのか。そのどちらか一方では捉えられない。映画の欠点は明確である。ヴィジャーの内部を見せる場面は長い。人物の会話は硬い。デッカーとアイリアの関係は、十分に掘り下げられていない。ウフーラ、スールー、チェコフ、スコッティら旧クルーの役割も限られている。
テレビシリーズにあった、三人の会話から生まれるユーモアと人間味も弱い。だが、この映画にしかない魅力もある。宇宙を、本当に広大で理解不能な場所として描いている。エンタープライズを、人類の誇る宇宙船であると同時に、巨大な未知の前では小さな存在として見せる。敵を倒すのではなく、その孤独を理解する。人間と機械の融合を、恐怖ではなく進化として描く。
『スター・トレック』の映画シリーズは、後に人物を中心とした冒険活劇へ進む。『カーンの逆襲』では、友情、復讐、老い、死が描かれる。第3作、第4作では、その物語が仲間と故郷をめぐる三部作へ発展する。第6作では、冷戦終結を映した政治劇となる。その中で第1作だけは、別の方向を向いている。人間が宇宙の中でどのような存在なのか。機械は生命になり得るのか。知識だけで存在の意味を理解できるのか。創造物が創造主を超えた時、両者の関係はどうなるのか。シリーズの映画化第1作としては、あまりに壮大な問いを選んだ。
その問いに、映画が完全に答えられたとは言い難い。しかし、その野心があったからこそ、劇場版第1作は、単なるテレビ番組の豪華版ではない作品となった。不完全である。過剰である。時に退屈である。それでも、宇宙の未知を本気で見せようとした映画なのである。
エピローグ 人間の冒険
『スター・トレック』劇場版第1作の宣伝には、“The Human Adventure Is Just Beginning”という言葉が使われた。「人間の冒険は、始まったばかりだ」。この映画が描いたのは、エンタープライズの新しい航海だけではない。人間とは何かという問いの始まりである。ヴィジャーは、宇宙のすべてを知ろうとした。数え切れない惑星を訪れ、生命体や文明を情報として取り込んだ。だが、自分の存在する意味を知ることはできなかった。
知識を持つことと、理解することは違う。情報を集めることと、生きることは違う。ヴィジャーには、欲望がなかった。愛情がなかった。死への恐怖もなかった。だから完全に見える。しかし、何かを求める理由も、得たものに価値を与える心もなかった。
スポックは、ヴィジャーの中に、自分が目指していた完全な論理を見る。そして、それだけでは足りないと知る。カークは、エンタープライズを取り戻せば、自分も昔の自分へ戻れると考える。しかし、新しい船を動かすには、デッカーの知識と乗組員の協力が必要だと知る。デッカーは、艦長の座を失う。しかし、アイリアとヴィジャーとの融合によって、誰も経験したことのない新しい生命へ進む。
それぞれが、自分一人で完結することを諦める。他者を必要とする。そこに、この映画の答えがある。生命とは、完全であることではない。欠けていることを知り、自分にないものを他者に求めること。関係によって変わること。自分の境界を越え、新しい存在へ進むこと。ヴィジャーは地球を破壊しに来たのではなかった。
創造主に会い、自分が何者なのかを知りたかった。それは、人類が宇宙へ向かう理由と同じである。人間もまた、星々を観測し、未知の生命を探し、自分たちはなぜ存在するのかを問い続けている。ヴィジャーは、人間が作った機械である。同時に、人間自身を映す鏡でもある。自分たちを創造したものを探す。宇宙の知識を集める。
しかし最後には、知識ではなく他者との接触によって変わる。エンタープライズは地球を救う。だが、敵を破壊したわけではない。ヴィジャーを理解し、その進化を助けた。『スター・トレック』が描く未来の英雄は、もっとも強い武器を持つ者ではない。
未知の存在を前にしても、恐怖だけで判断せず、相手が何を求めているかを理解しようとする者である。
映画の最後、エンタープライズは再び宇宙へ向かう。カークは船を取り戻した。スポックとマッコイも戻った。しかし、単純にテレビシリーズ時代へ戻ったわけではない。カークは、自分の経験だけでは足りないことを知った。スポックは、感情のない論理が空虚であることを知った。マッコイは、再び二人の間に立つ。三人は、以前とは少し違う関係で航海を始める。
テレビシリーズ終了から10年。映画化計画の挫折。幻の新シリーズ。膨れ上がった予算。脚本の混乱。特殊撮影の崩壊。公開直前まで続いた仕上げ。『スター・トレック』という作品そのものもまた、長い旅の果てに劇場へ帰ってきた。それは完全な帰還ではなかった。
多くの傷と問題を抱えた、ぎこちない再出発だった。しかし、その一歩がなければ、その後の航海は始まらなかった。『カーンの逆襲』も。スポックの復活も。二頭のクジラを救う旅も。初代クルーの最後の和平も。ピカードのエンタープライズも。すべては、この映画の出航から始まった。
『スター・トレック』劇場版第1作は、完成された傑作ではない。だが、完成されていないからこそ、その内部には、これから何かへ変わろうとする巨大なエネルギーがある。テレビ番組から映画へ。機械から生命へ。論理から理解へ。孤独から接触へ。過去の英雄から、新しい航海者へ。
ヴィジャーがデッカーと融合して新しい生命となったように、『スター・トレック』もまた、テレビシリーズの記憶と映画の技術が融合し、新しい存在へ生まれ変わった。人間の冒険は、ここから始まったのである。

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