2026年8月9日。長崎原爆の日です。映画が伝えてきた「8月9日」――若い人に観てほしい四本
今日は8月9日、長崎原爆の日です。1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、長崎に原子爆弾が投下されました。
8月9日生まれのぼくにとって、この日は子供の頃から特別な日でした。先日の「音符の歳時記」で藤山一郎さんの「長崎の鐘」について書いたように、昭和40年代から50年代、誕生日が近づくと、テレビやラジオからこの歌が聞こえてきました。
誕生日を祝ってもらう喜びと、その同じ日が、多くの人々の生命が奪われた日であるということ。子供心にも、その二つがいつも重なっていました。
そして映画もまた、長崎の8月9日を繰り返し描いてきました。興味深いのは、長崎原爆を描いた映画を年代順に観ていくと、日本映画が「原爆」をどのように語ってきたのか、その変遷そのものが見えてくることです。
占領下では描くことのできなかったもの。
時代が過ぎることで、ようやく描くことのできたもの。
そして、直接惨禍を映すのではなく、「失われる前の日常」を描くことで原爆を表現しようとした映画。今日は、若い人たちにぜひ観てほしい四本を紹介します。
『長崎の鐘』(1950年・大庭秀雄監督)
まずは、永井隆博士の手記を映画化した松竹『長崎の鐘』です。監督は大庭秀雄、脚本は新藤兼人。若原雅夫、月丘夢路、津島恵子、滝沢修らが出演。長崎医科大学の医師だった永井隆は、自らも被爆し重傷を負いながら救護活動に奔走しました。その後、白血病と闘いながら浦上で執筆を続け、原爆の惨禍と平和への願いを世界へ発信しました。
映画が公開されたのは1950(昭和25)年。まだ日本は占領下にありました。だから、この作品を現在の感覚だけで観て、「なぜ原爆そのものをもっと激しく告発しないのか」と考えるだけでは、この映画の本当の意味を見失ってしまいます。そこには占領下における原爆表現の制約という大きな問題がありました。
そのため映画は、被爆の惨状そのものより、医師として人々を救おうとする永井の献身、妻との愛、信仰、そして死を目前にしながらも「生きる」ことを訴え続けた人間の姿へと重点を置いています。
しかし、1950年という時代に、長崎の原爆を題材とする劇映画が作られたこと自体が、日本映画史において大きな意味を持っています。
新藤兼人が脚本を書いていることにも注目したいところです。のちに『原爆の子』を監督する新藤が、すでにここで原爆と映画の関係に向き合っていたのです。

『長崎の歌は忘れじ』(1952年・田坂具隆監督)
二本目は大映『長崎の歌は忘れじ』。田坂具隆が原作・監督、沢村勉が脚色。京マチ子、根上淳、久我美子、山内明、滝沢修、東山千栄子らが出演しています。
物語の入口は、戦時中のハワイの日本人捕虜収容所です。そこで日本兵から未完成の楽譜を託されたアメリカ人が、戦後、その約束を果たすため長崎を訪れる。そして、原爆によって視力を失った女性と出会います。ここで描かれるのは、「音楽」です。戦争によって敵と味方に分かれ、殺し合った日本人とアメリカ人。その間に音楽を置くことで、田坂具隆は、人間同士が再び理解し合うことは可能なのかを問いかけました。
公開は1952(昭和27)年3月27日。日本が主権を回復する直前、まだ占領下にあった時期です。だからこそ、この映画には占領末期という時代の複雑さが刻み込まれています。原爆によって身体に傷を負った日本人女性とアメリカ人との交流を描きながら、それを単純な憎悪の物語にはしない。音楽によって、戦争によって断絶した人間と人間をもう一度結び直そうとする。そこに、この時代ならではの映画の祈りがあります。
そして主演が京マチ子、根上淳、久我美子という、まさに日本映画黄金時代を代表する俳優たちであることも、若い映画ファンにはぜひ知ってほしいと思います。

『この子を残して』(1983年・木下惠介監督)
それから30年以上の歳月を経て、永井隆博士の世界にもう一度向き合ったのが、木下惠介監督の『この子を残して』。原作は永井隆。脚本は木下惠介と山田太一。永井隆を加藤剛が演じ、十朱幸代、淡島千景、山口崇、大竹しのぶ、麻丘めぐみらが出演しています。
1950年の『長崎の鐘』と見比べると、この33年間に日本映画の原爆表現がどれほど変化したのかがよくわかります。木下惠介は、もはや原爆の残酷さから目をそらしません。
愛する妻を失い、自らも病に冒され、幼い子供たちを残して死ななければならない父親。そこにあるのは聖人としての永井隆だけではありません。「この子たちを残して死ななければならない」という、一人の父親の恐怖と無念があります。
木下惠介は戦後一貫して、戦争によって人生を狂わされた「普通の人々」を描き続けてきた映画作家です。『二十四の瞳』にも通じる木下の視線が、この晩年の作品では原爆へと向けられました。
しかも脚本を山田太一と共同で手掛けています。原爆を歴史上の巨大事件としてではなく、一つの家族から父や母を奪い、子供たちの未来を変えてしまった出来事として描く。そこに『この子を残して』の重さがあります。

『TOMORROW 明日』(1988年・黒木和雄監督)
そして、ぼくが特に若い人たちに観てほしいと思うのが、この作品です。井上光晴の『明日―一九四五年八月八日・長崎』を原作に、黒木和雄が監督。脚本は黒木和雄、井上正子、竹内銃一郎。桃井かおり、南果歩、仙道敦子、黒田アーサー、佐野史郎、長門裕之、原田芳雄、田中邦衛らが出演しています。
この映画の凄さは、原爆を描くために、原爆をほとんど描かないという発想にあります。1945年8月8日。長崎には普通の人々の生活があります。結婚する若い男女がいる。子供を産もうとしている女性がいる恋人との未来を夢見る若者がいる家族が食事をし、仕事をし、笑い、語り合っている。
もちろん戦争中ですから、決して平穏な暮らしではありません。それでも、人々には「明日」があります。観客だけが知っています。その「明日」が来ないことを。
彼らが何気なく交わす言葉も、笑顔も、食事も、結婚式も、すべてがかけがえのないものに見えてきます。時計の針が8月9日午前11時2分へ近づいていく。これほど残酷な映画的サスペンスはありません。
黒木和雄は、爆発の巨大さではなく、その一瞬によって奪われた無数の「日常」こそが原爆の恐ろしさなのだと描きました。黒木監督はのちに『美しい夏キリシマ』『父と暮せば』『紙屋悦子の青春』へと連なる作品群で、戦争を「歴史」ではなく、そこで生きていた一人ひとりの記憶として描き続けます。その重要な出発点に位置するのが『TOMORROW 明日』なのです。

映画が「8月9日」を未来へ運ぶ
この四本を年代順に並べると、一本の日本映画史が見えてきます。
1950年、占領下の制約のなかで作られた『長崎の鐘』。
1952年、占領末期に、日米の間に横たわる戦争の傷を音楽によって乗り越えようとした『長崎の歌は忘れじ』。
1983年、戦後38年を経て、原爆の残酷さと父親の無念を正面から描いた『この子を残して』。
そして1988年、惨禍そのものではなく「奪われる前の日常」を描くことで、8月9日を現代に生きる私たち自身の問題へと引き寄せた『TOMORROW 明日』。
同じ「長崎原爆」を題材にしていても、映画の表現はこれほど違います。そして、その違いそのものが、戦後日本が原爆とどう向き合ってきたかを物語っています。
ぼくは1963年8月9日に生まれました。子供の頃、誕生日が来るたびに「長崎原爆の日」という言葉を聞きました。そしてラジオやテレビから藤山一郎さんの「長崎の鐘」が流れてきました。だから8月9日は、ぼくにとって「生まれた日」であると同時に、ずっと「失われた生命について考える日」でもありました。
被爆から81年。当時を知る方々、被爆体験を直接語ってくださる方々は、年々少なくなっています。しかし、その方々の言葉は残っています。
手記があります。歌があります。そして映画があります。映画の中では、1945年8月8日の長崎の人々が、今も笑っています。恋をしています。結婚しています。子供の誕生を待っています。明日のことを考えています。
彼らを「原爆犠牲者」という数字だけにしてはいけない。一人ひとりに昨日があり、今日があり、そして来るはずだった明日があった。映画は、そのことを何度でも私たちに思い出させてくれます。だからこそ、若い人たちに観てほしいのです。
8月9日午前11時2分。今年も長崎の鐘が鳴ります。その音を聞きながら、81年前、この街に生きていた一人ひとりの「明日」に、思いを寄せたいと思います。
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