『スター・トレックⅥ 未知の世界』(1992年2月29日・パラマウント・ニコラス・メイヤー)
シリーズ第6作をロードショーで観たのは1992年2月29日。公開初日だった。前作でのガッカリ感もあり、あまり期待せずに、しかし「新スター・トレック」が面白く、自分の中でのスター・トレック熱が高まっていたので、劇場に足を運んだ。
前作からの3年間の間に、世界情勢は大きく変わっていた。ベルリンの壁の崩壊による東西冷戦の終焉。これで戦争のない世界へと新たな未来がひらけていくようなそんな甘い幻想を抱いていた。この第6作では、第2作以来のニコラス・メイヤーが監督に復帰、チェルノブイリ原発事故、東西冷戦の終焉、ソ連の崩壊といった「時代の空気」を「スター・トレック」に反映させて、シリーズ屈指の作品となり、満足度が高かった。
しかもTOSの映画シリーズ最終作として作られているので、色々と感慨深いものだった。前作が「宇宙大作戦」のムードを際限していたとすれば、今作は1991年のリアルタイムの「スター・トレック」でもある。
1966年の放映開始から25年。よくぞここまで続いてくれた!という嬉しさを噛み締めて、終映後、美味いビールを銀座で飲んだことを覚えている。
というわけで、今回も18,000文字の長編原稿となりました。宜しければ、お付き合いください。

『スター・トレックⅥ 未知の世界』を読み解く
プロローグ 敵のいない未来を、人は受け入れられるのか
1991年12月6日に全米公開された『スター・トレックⅥ 未知の世界』。原題は“Star Trek VI: The Undiscovered Country”。日本では翌1992年2月29日に公開された。監督は、劇場版第2作『カーンの逆襲』を成功へ導き、第4作『故郷への長い道』の脚本にも参加したニコラス・メイヤー。脚本はメイヤーとデニー・マーティン・フリンが執筆し、原案にはレナード・ニモイ、ローレンス・コンナー、マーク・ローゼンタールの名がある。
主演はジェームズ・T・カーク役のウィリアム・シャトナー、ミスター・スポック役のレナード・ニモイ、レナード・マッコイ役のデフォレスト・ケリー。テレビシリーズ『宇宙大作戦』の放送開始から25周年を迎えた1991年、初代エンタープライズの仲間たちが一堂に会する、事実上の完結編として製作された。
物語の始まりは、宇宙を揺るがす大爆発である。クリンゴン帝国のエネルギー生産衛星プラクシスが爆発。衝撃波は周辺宙域へ広がり、ヒカル・スールー艦長率いるU.S.S.エクセルシオールを直撃する。爆発によって、クリンゴン本星の環境は深刻な被害を受けた。このままでは、帝国は数十年以内に存続できなくなる。
長年、惑星連邦と対立してきたクリンゴン帝国は、軍事費を削減し、和平交渉へ踏み出すほかなくなった。その交渉を進めるのが、クリンゴン帝国宰相ゴルコン(デヴィッド・ワーナー)である。ゴルコン一行を地球まで護衛する任務が、退役を目前にしたカーク艦長とエンタープライズへ与えられる。
しかしカークにとって、クリンゴンは単なる政治上の敵ではない。彼の息子デヴィッドを殺した相手である。カークは、その憎しみをいまだ心の奥に抱えている。
『未知の世界』が描くのは、外交交渉の成否だけではない。長年「敵」と呼んできた相手が、明日から敵ではなくなる時、人は自分の心を変えられるのか。戦争を前提として生きてきた軍人たちは、平和な時代に自分の存在意義を見つけられるのか。理想を掲げる者たちは、自分自身の中にある偏見や恐怖を直視できるのか。
1989年のベルリンの壁崩壊から、1991年のソビエト連邦解体へ。現実世界の冷戦が急速に終わりへ向かう中、『スター・トレックⅥ』は、クリンゴン帝国をソビエト連邦に重ね、「壁が宇宙で崩れる」瞬間を描いた。本作の本当の敵は、クリンゴン人ではない。偏見。恐怖。変化を拒む心。そして、敵が存在しなければ生きられない者たちである。
『未知の世界』は、初代クルーの別れを描く映画である。同時に、彼らが次の世代へ手渡した平和が、どのような苦闘の末に生まれたのかを描く物語でもある。
第一章 宇宙で起きたチェルノブイリ
映画は、スールー艦長率いるU.S.S.エクセルシオールの航海から始まる。かつてエンタープライズの操舵士だったヒカル・スールーは、今や一隻の宇宙船を任される艦長となった。テレビシリーズ以来、長くカークの隣で舵を握ってきた男が、自ら艦橋の中央席に座っている。それだけで、本作が世代交代の物語であることが示される。
スールーは、宇宙で異常な衝撃波を観測する。やがて、その波がエクセルシオールを襲う。艦は激しく揺れ、乗組員たちは床へ投げ出される。爆発したのは、クリンゴン帝国の衛星プラクシスだった。帝国の主要なエネルギー生産施設が、ほぼ衛星ごと消滅したのである。
プラクシスの爆発は、1986年に起きたチェルノブイリ原子力発電所事故を直接的に想起させる。巨大な軍事国家が、その体制を維持するために築いてきたエネルギー構造が、一度の事故によって国家の存続そのものを脅かす。事故の被害は施設内にとどまらない。
クリンゴン本星の環境は破壊され、帝国は軍備と社会体制を従来のまま維持できなくなる。レナード・ニモイがニコラス・メイヤーへ示した発想は、簡潔なものだった。
「壁が宇宙で崩れる」
クリンゴン帝国は、テレビシリーズの時代からソビエト連邦を思わせる敵として描かれてきた。強大な軍事力。閉鎖的な社会。惑星連邦との長期的な対立。互いに直接の全面戦争を避けながら、勢力圏をめぐって競い合う冷戦構造。現実世界でベルリンの壁が崩れ、ソビエト体制が揺らいだ時、『スター・トレック』の世界でも同じ変化を起こしたらどうなるのか。
重要なのは、クリンゴン帝国が軍事的に敗北したのではないことだ。連邦艦隊が帝国を打ち破ったわけではない。内部に抱えていた社会的、経済的、環境的な矛盾によって、帝国は自らの構造を維持できなくなる。戦争による勝者と敗者ではなく、時代そのものが変化したのである。その変化は、連邦にとって単純な勝利ではない。長年の敵が弱体化した今、どのように接するのか。
敵の苦境につけ込んで完全な屈服を要求するのか。それとも、相手を対等な存在として和平の席へ迎えるのか。プラクシスの爆発は、クリンゴン帝国だけを揺るがしたのではない。敵の存在によって自らを定義してきた惑星連邦と宇宙艦隊の価値観をも揺るがす。この衝撃波は、宇宙空間だけでなく、カークたちの心へも押し寄せるのである。
第二章 和平という「未知の世界」
クリンゴン宰相ゴルコン(デヴィッド・ワーナー)は、惑星連邦との和平交渉を提案する。軍事費を大幅に削減し、連邦との長期的な対立を終わらせる。それは、クリンゴン帝国にとって生き残るための現実的な選択である。同時に、何世代にもわたって築かれてきた価値観を根底から変える決断でもある。
クリンゴン社会において、戦いは単なる外交手段ではない。名誉。勇気。家系。政治的地位。人生のあらゆる価値が、戦士としての生き方と結びついている。連邦との和平は、敵対関係の解消だけを意味しない。自分たちが何者であるかという、国家の自己像を作り直すことを意味する。
ゴルコンは、その困難を理解している。エンタープライズでの晩餐会で、彼はシェイクスピアの『ハムレット』を引用する。「未知の世界」。原題“The Undiscovered Country”は、『ハムレット』の有名な独白から採られている。原作における「未知の世界」とは、誰も帰ってきたことのない死後の世界である。
人間は、死後に何が待っているか分からないからこそ、現世の苦痛に耐え続ける。本作では、その言葉が「平和な未来」を意味するものとして使われる。長い冷戦の後に訪れる平和。敵と共存する社会。これまでの常識が通用しない新しい時代。それは希望に満ちた未来であると同時に、古い時代に生きてきた者たちにとっては、自分たちの存在が消えていく「死後の世界」にも等しい。
カークは長年、クリンゴンと戦ってきた。チャン将軍(クリストファー・プラマー)もまた、連邦との戦いを通じて軍人としての地位と名誉を築いてきた。二人は敵同士でありながら、戦争という同じ世界に適応してきた者たちである。和平が成立すれば、二人の生きてきた時代は終わる。
カークは退役する。チャンは軍事的な存在意義を失う。ゴルコンが語る「未知の世界」は、若い世代にとっては未来である。しかし、老いた兵士たちにとっては、自分の居場所がなくなる世界なのだ。本作は、平和を単純な善として描かない。平和そのものは望ましい。
しかし、そこへ移行する過程には恐怖と抵抗がある。人は、苦痛に満ちていても、知っている世界にとどまろうとする。敵がいる世界は危険だが、分かりやすい。敵がいない世界では、自分が何者なのかを、もう一度考えなければならない。その恐怖こそが、和平を阻む最大の力となるのである。
第三章 息子を奪った敵
カークは、和平交渉を心から歓迎してはいない。宇宙艦隊の最高司令部で、クリンゴン帝国の危機と和平案について説明を受けた時、彼は疑念を隠さない。クリンゴンは信用できない。彼らは生き残るために譲歩しているだけだ。機会があれば、再び連邦へ牙をむくのではないか。その警戒心には、軍人としての経験だけでなく、個人的な憎しみがある。
劇場版第3作『ミスター・スポックを探せ!』で、カークの息子デヴィッドは、クリンゴン人によって殺された。デヴィッドは、カークが父親として十分に向き合うことのできなかった息子だった。再会し、これから関係を築き直せるかもしれないと思った時、彼は失われた。その喪失は、カークの中に深く残っている。
カークは航海日誌に、「クリンゴンなど死なせておけばよい」。という趣旨の言葉を記録する。映画の主人公としては、衝撃的な言葉である。『スター・トレック』は、人種や文化の違いを乗り越えた未来社会を描いてきた。その中心にいたカークが、一つの種族全体の滅亡を容認するような言葉を口にする。ウィリアム・シャトナーは、この台詞に抵抗を示したとされる。カークは冷酷な人間ではない。彼がすべてのクリンゴン人の死を望むはずがない。
しかし、ニコラス・メイヤーが描こうとしたのは、理想的な英雄ではなく、変化の前で立ち止まる一人の人間だった。理性では、和平の必要性を理解している。だが感情は追いつかない。息子を殺した者たちと、明日から握手をしなければならない。その苦しみを描かなければ、カークが最後に和平を守る意味も生まれない。重要なのは、カークが最初から正しい人物ではないことだ。彼は自分の偏見を克服しなければならない。
ゴルコンを護衛する任務は、クリンゴン帝国を救うためだけの任務ではない。カーク自身が、過去の憎しみから脱出するための最後の航海なのである。メイヤーの作品において、カークは常に老いと時間に直面する。『カーンの逆襲』では、自分が年を取ったことを受け入れられず、過去から現れたカーンと戦った。『未知の世界』では、時代そのものが自分を追い越そうとしている。
カークは退役を目前にし、スールーはすでに艦長となっている。スポックは次世代の士官を育てようとしている。世界は、カークがいなくても前へ進もうとしている。和平を受け入れることは、デヴィッドの死を忘れることではない。自分の痛みを、未来の世代へ戦争として引き継がないと決めることなのだ。
第四章 スポックが選んだ最後の任務
クリンゴン和平への道筋を作ったのは、スポックである。彼はゴルコン宰相と秘密裏に接触し、和平交渉を実現するための外交工作を進めていた。カークは、自分が護衛任務へ選ばれたことに不満を抱く。しかも、その人選を推薦したのがスポックだったことを知り、強い怒りを示す。自分のクリンゴン嫌いを知りながら、なぜ自分を選んだのか。
スポックは、だからこそカークが必要だったと考えている。和平に賛成している者がクリンゴンを迎えるだけでは、歴史的な意味は弱い。長年クリンゴンと戦い、個人的な恨みを抱くカークが和平へ協力することで、初めて変化の可能性が示される。スポックは、カークを信じている。彼が感情的な偏見を抱えていても、最後には正しい選択をする人物であることを知っている。
しかし同時に、スポックの判断には傲慢さもある。本人の同意を得ないまま、カークを歴史的な役割へ押し出した。自分の論理的判断が正しいと信じ、友人の痛みを十分に考慮しなかった。本作では、カークだけでなく、スポックも過ちを犯す。
彼は、若いバルカン人士官ヴァリス(キム・キャトラル)を自分の後継者として育てようとしている。ヴァリスは優秀で、論理的で、冷静である。スポックは彼女を高く評価し、エンタープライズの仲間たちにも紹介する。だが、そのヴァリスこそが、和平反対派の陰謀に加担していた。スポックは、自分の後継者を見誤った。
論理を信じ、理性的な判断を重視するバルカン人であれば、和平という合理的な選択を支持するはずだと思い込んでいた。しかし、論理はそれを用いる者の前提によって、まったく異なる結論を生む。クリンゴンは予測不能で危険な種族である。その彼らと共存することは、連邦にとって大きな危険となる。将来の戦争を防ぐためなら、現在の和平交渉を破壊する方が合理的である。
そうした論理も、組み立てることはできる。ヴァリスの裏切りは、スポックに、自分自身の論理の限界を突きつける。カークは感情に囚われて和平を拒もうとする。ヴァリスは論理を絶対視して和平を破壊しようとする。二人は正反対に見えるが、自分の中にある恐怖を正当化している点では共通している。
スポックが学ばなければならないのは、感情を排除すれば正しい判断へ到達できるわけではないということだ。論理は、知恵の始まりにすぎない。それだけでは、人が変わる可能性も、過去を乗り越える勇気も計算できないのである。
第五章 エンタープライズでの晩餐
ゴルコン宰相とクリンゴン代表団は、エンタープライズへ招かれる。カークたちは、正式な晩餐会を開く。長年戦ってきた者たちが、同じテーブルを囲み、食事をし、酒を飲む。それは和平への第一歩であると同時に、互いの偏見が露出する危険な場所でもある。
会話は、初めからぎこちない。連邦側は、クリンゴン人を好戦的で粗野な存在として見ている。クリンゴン側は、惑星連邦を人間中心の偽善的な組織だと考えている。酒が進むにつれ、双方の言葉は鋭くなる。クリンゴン側が、帝国には生きるための空間が必要だと語る。
それに対し、連邦側は、かつてヒトラーが用いた「生存圏」という言葉を思い出させると反発する。クリンゴン人をナチスになぞらえることは、彼らを最初から絶対悪として扱い、対話の可能性を閉ざす行為でもある。
ゴルコンの娘アゼトバー(ロザンナ・デソート)は、惑星連邦の掲げる「人権」という言葉に異議を唱える。人間の権利。その表現自体が、連邦における地球人中心主義を表しているのではないか。惑星連邦は、多様な種族の共同体を名乗りながら、実際には地球人の価値観を宇宙全体へ広げようとしているのではないか。
この指摘は、連邦の理想主義に対する強烈な自己批判となっている。『スター・トレック』の未来社会は、差別や貧困を克服した理想として描かれてきた。しかし、自分たちを進歩した文明だと信じることが、新たな傲慢さを生む可能性もある。
自分たちは偏見を持たない。自分たちは正しい。自分たちの価値観は普遍的である。そう確信した瞬間、人は自分の中にある差別を見えなくしてしまう。本作の脚本には当初、クリンゴン人に対するさらに露骨な侮蔑的表現が含まれていたとされる。
ウフーラを演じてきたニシェル・ニコルズをはじめとする出演者たちは、長年、平等な未来を象徴してきた自分たちの役柄に、そのような言葉を語らせることへ抵抗した。一部の台詞は変更され、別の人物へ移された。この対立は、作品そのものが抱える緊張を表している。
メイヤーは、理想的な人物の中にも偏見が残っていることを描こうとした。出演者たちは、自分たちが25年間かけて築いてきた未来像を守ろうとした。理想を掲げることは大切である。同時に、理想を掲げる者も偏見から完全に自由ではない。晩餐会の場面が居心地の悪いものになっているのは、観客自身もまた、その矛盾から逃れられないからである。
第六章 見えない船からの暗殺
ゴルコン一行が自艦へ戻った後、突如、エンタープライズから二発の光子魚雷が発射される。魚雷はクリンゴン艦クロノス・ワンを直撃する。エンタープライズの記録上、魚雷は発射されていない。カークは攻撃を命じていない。だが、クリンゴン側から見れば、連邦艦から攻撃されたことは疑いようがない。
さらに、宇宙服を着た二人の暗殺者がクロノス・ワンへ侵入する。人工重力の失われた艦内で、クリンゴン人たちの血が紫色の球となって宙を漂う。暗殺者はゴルコンを撃ち、重傷を負わせる。この無重力暗殺場面は、本作を代表する映像である。流血を直接的に見せながら、重力が失われたことで血は床へ落ちない。紫色の球体となって宙を漂う。残酷さと美しさが同時に存在する。
カークは状況を悪化させないため、エンタープライズを降伏させる。そしてマッコイとともにクロノス・ワンへ乗り込み、ゴルコンを救おうとする。マッコイは医師として最善を尽くす。しかし、クリンゴン人の身体構造に関する知識と設備が足りない。ゴルコンは息を引き取る。
その最期の言葉は、カークへの願いだった。和平を終わらせてはならない。カークは、息子を殺した種族の指導者を救おうとした。だが救えなかった。ここで彼は、デヴィッドの死とは別の喪失を経験する。
ゴルコンは、カークが憎んできた「クリンゴン人」という抽象的な敵ではない。戦争を終わらせようとする、一人の老いた政治家だった。彼にも娘がいる。彼にも未来への願いがある。カークがゴルコンを救えなかった事実は、和平への責任を彼へ引き継ぐ。「未知の世界」へ向かうはずだった人物は殺された。
その代わりに、和平へ消極的だったカークが、その遺志を守らなければならなくなる。暗殺事件の構造には、冷戦期の政治的陰謀が凝縮されている。自国の指導者を、敵国の攻撃に見せかけて殺害する。その怒りを利用し、和平を破壊する。相手側の強硬派と秘密裏に手を結び、戦争状態を維持する。敵対する国家の過激派同士は、一見すると正反対である。
しかし、平和になっては困るという一点では、完全に利害が一致する。戦争を続けたい者にとって、本当の敵は相手国ではない。和平を実現しようとする自国の穏健派なのである。
第七章 裁判と流刑惑星
カークとマッコイは、ゴルコン暗殺の容疑者としてクリンゴン帝国の法廷に立たされる。エンタープライズから魚雷が発射された。カークは航海日誌に、クリンゴンに対する憎悪を記録していた。マッコイはゴルコンを治療したが、救うことができなかった。状況証拠は二人に不利である。
法廷でカークたちを弁護するクリンゴン人の弁護士を演じるのは、『新スター・トレック』でウォーフ少佐を演じるマイケル・ドーンである。後年の設定では、この人物はウォーフの祖父にあたるウォーフ大佐とされた。24世紀のエンタープライズでクリンゴン人士官が勤務する未来へ、本作から直接一本の線が引かれている。しかし、弁護士の努力にもかかわらず、カークとマッコイは有罪とされる。
二人は、流刑惑星ルラ・ペンテへ送られる。そこは、極寒の小惑星に作られた強制収容所である。地下の鉱山では、銀河各地から集められた囚人たちが働かされている。地表は凍りつき、脱走しても生き延びることはできない。ルラ・ペンテは、ソビエトの強制収容所、いわゆるグラーグを思わせる世界として描かれている。冷戦終結を扱う映画の中で、カークは「敵国」のもっとも暗い制度へ放り込まれる。
彼はそこで、クリンゴン帝国を外側から批判するだけでは知ることのできなかった現実に触れる。帝国は一枚岩ではない。クリンゴン人だけで構成されているわけでもない。その支配下には、多様な異星人の囚人がいる。体制に反対する者。犯罪者。政治的に利用された者。誰もが同じ場所へ押し込められている。
カークは、変身能力を持つ囚人マルティア(イマン・アブドゥルマジド)と出会う。彼女は、カークとマッコイの脱走を助けるように見える。しかし実際には、二人を殺し、脱走中の事故に見せかけるために送り込まれた協力者だった。暗殺計画は、ゴルコンの死だけでは終わっていない。カークが公開の場で裁かれ、流刑地で死ぬことによって、連邦とクリンゴン双方の憎悪は決定的になる。
和平反対派が必要としているのは、事実ではない。両陣営が戦争を望むようになる、説得力のある物語である。カークは、その物語の悪役として利用されているのだ。
第八章 エンタープライズの捜査
カークとマッコイが裁かれている間、エンタープライズではスポックが指揮を執る。宇宙艦隊上層部は、エンタープライズに地球への帰還を命じる。事件は外交問題となっている。これ以上の独自行動は、戦争を引き起こしかねない。だがスポックは、命令に従わない。
かつて『ミスター・スポックを探せ!』で、カークはスポックを救うためにエンタープライズを奪った。今度はスポックが、カークとマッコイを救うために宇宙艦隊の指示へ背く。三部作以来積み重ねられてきた友情が、ここで再び行動となる。ただし、本作のスポックは、単に友人を救うだけではない。
ゴルコン暗殺事件の真相を明らかにしなければ、和平そのものが崩壊する。カークたちを救うことと、歴史の流れを守ることが一つになる。スポックは、エンタープライズの乗組員たちに協力を求める。彼らは退役を目前にした熟練者たちである。公式命令に従い、無事に地球へ戻れば、長い任務を終えることができる。
それでも、彼らはカークを見捨てない。スコッティは艦内の魚雷を調べる。チェコフは攻撃の仕組みを考える。ウフーラは通信記録を追う。ヴァリスは、冷静な論理によって捜査を補佐する。一見すれば、彼女もスポックとともに真相を追っている。だが実際には、捜査の方向を監視し、必要に応じて妨害するため、内部に残っている。
ミステリーとして見れば、本作は「密室から発射された魚雷」の謎を追う物語でもある。エンタープライズから発射されたように見える。しかし、魚雷の搭載数は減っていない。ならば、別の船がエンタープライズの真下へ潜み、同じ方向から攻撃したのではないか。
しかも、攻撃した船は姿を消している。通常、クリンゴン艦は遮蔽中に武器を発射できない。その常識を破る新型艦が存在する。犯人は、技術上の不可能を利用して、カークへ罪を着せた。スポックたちは、宇宙船の記録、血痕、宇宙服、乗組員の所在を一つずつ調べ、陰謀の輪郭へ近づいていく。
初代クルーの最後の冒険は、彼ら全員の知恵と経験を必要とする捜査劇として描かれるのである。クリンゴン領域へ潜入する場面では、万能翻訳機を使用すれば連邦の機械的な翻訳パターンから正体を見破られる可能性があるため、ウフーラたちは紙の辞書をめくり、たどたどしいクリンゴン語で応答する。
人物設定より笑いを優先した場面ではあるが、初代クルーらしい温かさがある。最新の科学技術ではなく、経験と即席の共同作業によって危機を切り抜ける。完璧な未来人ではなく、互いに補い合いながら働く人々。それがエンタープライズの仲間たちなのである。

第九章 ヴァリスと論理の罠
捜査の結果、暗殺に使われた宇宙服がエンタープライズ艦内で発見される。だが、暗殺を実行した二人の乗組員は、すでに殺されていた。実行犯を消し、陰謀の中心人物へ捜査が及ばないようにするためである。スポックは、艦内に残る裏切り者を追い詰める。その人物は、ヴァリスだった。
自分が後継者として信頼し、育てようとしていた若いバルカン人士官。スポックにとって、ヴァリスの裏切りは、単なる任務上の失敗ではない。自分の判断そのものが否定されたことを意味する。企画初期には、ヴァリスではなく、劇場版第2作と第3作に登場したサヴィックを陰謀の一員にする構想があった。
サヴィックはスポックの教え子であり、観客にも知られた人物である。彼女が裏切るなら、スポックと観客の衝撃はさらに大きかっただろう。しかし、長年親しまれたサヴィックを突然反逆者にすることへの抵抗や、キャスティング上の事情などから、新しい人物ヴァリスが作られた。しばしばジーン・ロッデンベリー一人の反対によって変更されたと説明されるが、実際には製作側の複数の判断と、三人目のサヴィック役になることへのキム・キャトラルの意向などが重なったと考えられる。
ヴァリスは、自分の行為を感情的な憎悪としては説明しない。彼女にとって、和平反対は論理的な結論だった。クリンゴンは長年、惑星連邦を脅かしてきた。帝国が弱体化した今こそ、その脅威を完全に取り除くべきである。不安定な相手を連邦社会へ迎え入れることは、将来の危機を招く。少数の犠牲によって多数の生命を守れるなら、陰謀にも合理性がある。
それはかつてスポックが語った、「多数の必要は、少数の必要に勝る」という論理を、恐ろしい形で利用したものでもある。しかし、スポックが『カーンの逆襲』で犠牲にしたのは自分自身だった。ヴァリスが犠牲にしたのは、自分ではなく他人である。本人の同意なく命を奪い、その行為を多数の幸福によって正当化する。
そこには、論理を装った権力がある。スポックはヴァリスへ語る。「論理は知恵の始まりであって、終わりではない」。論理だけでは、人が変わる可能性を測ることはできない。過去のデータが敵対を示していても、未来まで同じだとは限らない。和平とは、確実な安全を選ぶことではない。相手が変わる可能性を信じ、自分も変わる危険を引き受けることである。ヴァリスには、その勇気がなかった。彼女は変化への恐怖を、論理という言葉で覆い隠したのである。
第十章 スポックの怒りと限界
ヴァリスが陰謀の一員であることを知ったスポックは、彼女の心へ強制的に精神融合を行う。彼はヴァリスの顔をつかみ、陰謀に関わる人物の名前を一人ずつ引き出していく。それは、長年スポックが見せてきた穏やかな精神融合とは違う。ヴァリスは苦痛に顔をゆがめる。スポックも怒りを抑えきれない。
自分が信じた教え子に裏切られた。カークとマッコイは死刑にされかけた。ゴルコンは殺された。和平交渉そのものが崩壊しようとしている。スポックは感情を排した存在ではない。むしろ、自分の感情を厳しく統制してきた人物である。しかしヴァリスの裏切りは、その統制を破る。この場面には、倫理的な不快さがある。
ヴァリスが犯罪へ加担したとしても、本人の意志を無視して心へ侵入することは許されるのか。和平を守るという大義のためなら、強制的な尋問は正当化されるのか。本作は、明確な答えを示さない。ただ、スポック自身が、その行動を誇っていないことは伝わってくる。彼はヴァリスを突き放し、自分の判断を悔いる。
カークへ向けていた論理的な確信も、ヴァリスへ向けていた師としての期待も、すべてが揺らぐ。本作では、理想的な人物たちが、次々と自分の限界を露呈する。カークは憎しみに囚われる。スポックは、自分の判断の正しさを過信する。ウフーラやチェコフたちは、クリンゴンへの偏見を口にする。ヴァリスは、恐怖を論理によって正当化する。惑星連邦の提督は、平和を守るべき立場にありながら、和平破壊の陰謀へ参加する。
誰も、理想を掲げているだけで正しい人間にはなれない。正しさは、状況ごとに選び直さなければならない。自分の中に偏見があると知ったうえで、それに従わないこと。自分の論理が間違う可能性を認めること。過去に敵だった相手が、未来にも敵であり続けるとは限らないと受け入れること。
和平とは、相手を信じることだけではない。自分自身の正しさを疑うことでもある。スポックがヴァリスから陰謀の全容を引き出す場面は、事件解決のための尋問であると同時に、彼が自分の中にある傲慢さと向き合う場面でもある。論理は知恵の始まりにすぎない。その先へ進むためには、謙虚さが必要なのである。
第十一章 チャン将軍と平和を恐れる者たち
和平反対派の中心にいるのが、クリンゴン帝国のチャン将軍である。演じるのは、カナダ出身の名優クリストファー・プラマー。舞台俳優としてシェイクスピア作品に精通していたプラマーは、チャンを単なる好戦的な悪役ではなく、知性と教養を備えた老兵として演じた。
チャンは、従来のクリンゴン人とは異なる姿をしている。頭髪はなく、頭蓋にはボルトのような装飾が埋め込まれている。額の隆起も比較的抑えられ、その表情が観客にはっきり見える。プラマーは、重い頭部装具や大きなかつらによって演技を隠すことを望まなかった。
その結果、チャンは獣的な怪物ではなく、鋭い目と豊かな表情を持つ知的な敵となった。彼はシェイクスピアを愛している。「クリンゴン語で読まなければ、本当のシェイクスピアは理解できない」。その発言は笑いを誘う。しかし同時に、地球文化を人間だけの所有物と考える傲慢さを揺さぶる。チャンは地球文化を理解しない野蛮人ではない。カークと同じ文学を読み、同じ言葉を使いながら、まったく異なる未来を望む人物である。
ゴルコン暗殺の陰謀には、クリンゴン人だけでなく、惑星連邦とロミュラン帝国の高官も参加している。連邦側の中心人物はカートライト提督。地球と宇宙艦隊を守るべき人物が、和平を破壊するため、敵国の将軍と手を結んでいる。一見すれば、矛盾した同盟である。チャンはクリンゴン軍部の代表。カートライトは惑星連邦の強硬派。両者は長年、互いを敵としてきた。しかし冷戦が終われば、双方とも存在意義を失う。
敵がいるから軍事予算が必要となる。敵がいるから強硬派の発言力が高まる。敵がいるから軍部や情報機関は、国家の中心であり続けられる。和平が成立すれば、戦争を専門としてきた者たちは、自分の役割を作り直さなければならない。彼らにとって、平和は理想ではない。失業であり、権力の喪失であり、自分たちの人生を否定する「未知の世界」である。
ここに、本作のもっとも鋭い政治的な皮肉がある。敵対する両陣営の強硬派は、戦争を続けるためなら協力できる。平和を望む自国の指導者を殺し、その罪を相手へなすりつける。彼らが忠誠を誓っているのは国家ではない。戦争が続く構造そのものなのである。
第十二章 シェイクスピアと見えない敵
クライマックスの宇宙戦で、チャンは姿の見えない艦からシェイクスピアを叫ぶ。「戦いの犬どもを解き放て」。『ジュリアス・シーザー』において、シーザー暗殺後に訪れる混乱と内戦を予告する言葉である。チャンにとって、ゴルコン暗殺は戦争の犬を再び解き放つための行為だった。
「もう一度、突破口へ」。『ヘンリー五世』で、王が兵士たちを鼓舞する言葉である。チャンは、平和という新しい時代の流れに抗い、古い戦士たちを最後の戦いへ導こうとしている。彼がシェイクスピアを語ることは、単なる教養の誇示ではない。
古い物語の中に自分を置き、戦争を英雄的な悲劇として演出するためである。チャンは戦争を必要としている。それが帝国を守るためなのか、自分の地位を守るためなのか、本人にも区別できなくなっている。彼にとって戦いは職業ではない。自分が生きていることを実感できる唯一の世界なのである。
チャン将軍は、遮蔽したまま光子魚雷を発射できる特殊なバード・オブ・プレイを使用する。通常の遮蔽装置を持つ宇宙船は、姿を消している間、武器を発射できない。しかしチャンの船は、その常識を破る。エンタープライズとエクセルシオールは、姿の見えない敵から一方的な攻撃を受ける。防御も反撃もできない。
船体は損傷し、艦橋には火花が散る。これは、初代クルー最後の宇宙戦である。しかし勝利をもたらすのは、より強力な火力ではない。ウフーラが、クリンゴン艦の排気に注目する。宇宙船が姿を消していても、エンジンから放出される物質まで完全に隠すことはできない。そこでスポックとマッコイは、ガスを追跡できるよう改造した光子魚雷を作る。
科学士官と医師。論理と生命科学。長年対立してきた二人が協力し、姿の見えない敵を可視化する。発射された魚雷は、排気の痕跡を追ってチャンの艦へ命中する。遮蔽装置が破れ、船体が姿を現す。そこへ、エンタープライズとエクセルシオールの攻撃が集中する。
この戦闘の意味は、単に敵艦を破壊することではない。長く姿を隠していた陰謀を、科学と協力によって明るみに出すことにある。チャンの船は、和平反対派そのものの象徴である。表面上は姿を見せず、互いに敵対する国家の内部へ潜み、見えない場所から攻撃する。その見えない敵を倒すためには、まず存在を認識しなければならない。
偏見も、恐怖も、陰謀も、見えないうちは対処できない。それらを可視化すること。自分の中にも存在すると認めること。それが、新しい世界へ進むための第一歩なのである。
第十三章 キトマー会議を救え
陰謀の最終目標は、キトマーで開かれる和平会議だった。ゴルコンの死後、娘アゼトバーが父の遺志を継ぎ、惑星連邦との交渉を続ける。和平反対派は、彼女と連邦大統領を暗殺し、両国を全面戦争へ突入させようとする。カークたちは、チャンの艦を倒した後、直ちにキトマーへ向かう。
会議場には、連邦、クリンゴン、ロミュランをはじめ、多くの種族の代表が集まっている。未来の平和が決まる場所である。同時に、一発の銃弾で歴史が逆戻りする場所でもある。暗殺者は、人間の姿に変装し、会場上部から連邦大統領を狙う。カークたちは、間一髪で狙撃を阻止する。そして会場の中から、陰謀に加担していたカートライト提督、ロミュラン大使、クリンゴンの高官たちが次々と明らかになる。
平和を破壊しようとした者たちは、一つの国や種族だけに存在したのではない。どの社会にも、変化を恐れる者はいる。どの陣営にも、敵対関係を利用する者がいる。だから和平は、片方だけが努力すれば成立するものではない。双方が自分の内部にいる強硬派と向き合わなければならない。会議場で、アゼトバーはカークに対し、父は彼を信じていたと語る。
カークは、その信頼に完全には応えられなかった。初めはゴルコンの提案を疑い、クリンゴンの滅亡さえ容認しようとした。しかし最後には、その和平を守るために命を懸けた。カークが変わったからこそ、ゴルコンの願いは次の世代へ受け継がれる。
和平とは、互いに好意を持つことではない。過去の罪を忘れることでもない。相手を完全に信用することでもない。自分の憎しみを、未来の政策へ変えないこと。過去に起きた悲劇を、次の悲劇を起こす理由にしないこと。相手も変わり得ると認め、自分も変わることを引き受けること。
カークは、息子デヴィッドの死を忘れていない。その悲しみは消えない。しかし彼は、デヴィッドの死を理由に、さらに多くの息子たちが死ぬ戦争を始めることを拒んだ。それが、彼の最後の成長だったのである。
第十四章 限られた予算と映像の工夫
『未知の世界』は、シリーズ25周年の記念作品であり、オリジナルキャストの完結編でありながら、製作現場には十分な余裕がなかった。映画第5作の興行成績が前作を下回ったこともあり、パラマウントは大規模な予算増加に慎重だった。そこで製作陣は、テレビシリーズ『新スター・トレック』で使われていたセットや衣装、過去の劇場版の美術資産を改装して使用した。
エンタープライズAの船内には、『新スター・トレック』のエンタープライズDや宇宙艦隊施設のセットを組み替えた部分がある。クロノス・ワンの内部にも、連邦艦のセットを照明や壁面装飾によって別の空間へ見せる工夫が施された。流用は、単なる節約ではない。
照明の色。煙。撮影アングル。壁の装飾。コンソールの配置。同じ空間を、異なる文化の宇宙船として見せなければならない。制約の中で、映画全体を広い宇宙社会の物語に見せる職人技が求められた。
視覚効果にはILMが復帰した。映画冒頭、プラクシスが爆発し、平たい環状の衝撃波が宇宙空間へ広がる。後に「プラクシス・エフェクト」と呼ばれるようになった映像である。球状に広がる従来の爆発とは異なり、巨大な円盤状の衝撃波が周囲の宇宙船を襲う。その視覚的な分かりやすさと迫力は、その後のSF映画における宇宙爆発の表現へ大きな影響を与えた。
一方、製作費の制約から、過去作品の模型ショットや爆発素材も活用された。チャンのバード・オブ・プレイが破壊される場面にも、過去の『スター・トレック』映画で撮影された爆発素材が加工して組み込まれている。ただし、第3作のエンタープライズ自爆映像を単純に左右反転したものではない。複数の光学素材や爆発映像を重ね、色調や構図を調整することで、新しい艦の破壊として再構成されている。
限られた予算で、必要な映像効果を最大化する。『カーンの逆襲』でも、メイヤーは同じ課題に直面していた。潤沢な資金ではなく、物語と編集によってスケールを作り出す。その経験が、本作を前作のような特殊効果上の混乱から救ったのである。
第十五章 ロッデンベリーとメイヤーの対立
『スター・トレック』の生みの親であるジーン・ロッデンベリーは、本作の企画と脚本に強い懸念を示した。彼が構想した未来の人類は、人種差別や国家間の偏見を克服しているはずだった。ところが『未知の世界』では、カークをはじめとするエンタープライズの乗組員たちが、クリンゴンに対する侮蔑や恐怖を露わにする。
ロッデンベリーにとって、それは25年間守ってきた未来像を後退させるものに見えた。ニコラス・メイヤーは、理想だけではドラマにならないと考えた。偏見を完全に克服した人物が、何の葛藤もなく和平を受け入れるなら、物語は成立しない。カーク自身に変化が必要だからこそ、和平の価値が生まれる。
二人の立場は、根本的に異なっていた。ロッデンベリーは、未来社会が到達すべき理想を守ろうとした。メイヤーは、その理想へ到達する人間の困難を描こうとした。晩年のロッデンベリーは体調を崩していた。映画の完成が近づいた1991年10月、彼は本作の試写を鑑賞した。その数日後の10月24日、70歳で亡くなった。
「完成版を見て全面的に称賛し、満足して旅立った」という美しい逸話として語られることがある。しかし実際には、ロッデンベリーは最後まで一部の表現や人物描写に批判的だったとされる。彼が映画のすべてを受け入れたと断定することはできない。
それでも、自分が生み出したカーク、スポック、マッコイたちの最後の映画を、生前に見ることができた。公開版の冒頭には、ロッデンベリーへの献辞が掲げられている。『スター・トレック』という作品は、ロッデンベリー一人の手を離れ、多くの作家、監督、俳優、ファンによって発展してきた。
その過程では、世界観をめぐる対立も起きた。理想を守るべきか。人間の弱さを描くべきか。未来の人物に現代の偏見を持たせてよいのか。その対立自体が、『スター・トレック』の持つ生命力を示している。ロッデンベリーの理想があったからこそ、メイヤーの現実主義は批評として力を持った。そしてメイヤーの作品があったからこそ、理想へ向かうことの難しさが、物語として描かれたのである。
第十六章 第二の星を右へ
すべての任務を終えたエンタープライズに、宇宙艦隊から帰還命令が届く。地球へ帰り、退役の準備に入れ。カークたちの時代が、正式に終わろうとしている。艦橋には、長年ともに旅をしてきた仲間たちがいる。
スポック。マッコイ。スコッティ。ウフーラ。チェコフ。そしてカーク。スールーはすでに、自分の船で新しい航海へ進んでいる。エンタープライズに残った者たちも、間もなく別々の人生へ向かう。
スポックは、宇宙艦隊の命令に従うべきだと話す。しかしカークは、最後にもう少しだけ航海を続けようとする。進路を問われ、彼は答える。
「第二の星を右へ。そして朝までまっすぐ」
ジェームズ・M・バリーの『ピーター・パン』から採られた言葉である。永遠に年を取らない少年が暮らすネバーランドへの道。しかし、ここにいるカークたちは年を取った。若い頃のままではない。カークは退役する。スポックも、艦隊の一士官としてではなく、外交と平和の道へ進もうとしている。マッコイたちにも、それぞれの時間が待っている。
だからこそ、『ピーター・パン』の引用には切なさがある。彼らは本当に永遠の若者へ戻るのではない。観客の記憶の中で、もう一度だけ冒険へ向かうのだ。エンタープライズは星々の間を進んでいく。
カークの航海日誌が流れる。この船と歴史は、別の乗組員たちのものになる。彼らがまだ誰も行ったことのない場所へ、果敢に進んでいくことを願う。かつては“where no man has gone before”だった。それが本作では、“where no one has gone before”へ変わる。
人間の男ではなく、誰も行ったことのない場所。『新スター・トレック』の時代に採用された、より普遍的な表現である。カーク自身の最後の航海日誌が、次世代の言葉を受け入れる。ここにも、古い時代から新しい時代への移行が示されている。
映画の物語が終わった後、スクリーンには初代クルーを演じた俳優たちの名前と直筆署名が現れる。
ウィリアム・シャトナー。
レナード・ニモイ。
デフォレスト・ケリー。
ジェームズ・ドゥーアン。
ウォルター・ケーニッグ。
ニシェル・ニコルズ。
ジョージ・タケイ。
七人の署名は、キャラクターと俳優の境界が溶け合った瞬間である。長い航海を終えた乗組員が、宇宙艦隊の航海記録へ自分の名を記して去っていくように見える。彼らは、観客の記憶の宇宙を航海し続ける。初代クルーの時代は終わる。しかし、『スター・トレック』の物語は終わらない。
エピローグ 敵のいない未来へ
『スター・トレックⅥ 未知の世界』は、初代エンタープライズの仲間たちが、最後に宇宙を救う物語である。しかし、彼らが救うのは、一つの惑星でも、一隻の宇宙船でもない。まだ存在していない未来である。連邦とクリンゴンが共存する未来。クリンゴン人が宇宙艦隊士官となる未来。宇宙船に家族や子供たちが暮らし、異なる種族が同じ艦橋で働く未来。
その未来は、本作の登場人物たちにとって「未知の世界」だった。カークは、クリンゴンを憎んでいる。息子を殺された悲しみは、生涯消えない。スポックは、自分の論理と判断力を信じている。しかし、自ら選んだ後継者に裏切られる。エンタープライズの仲間たちも、クリンゴンに対する偏見から完全には自由ではない。
それでも彼らは、未来を選ぶ。憎しみがなくなったからではない。相手を完全に信用できたからでもない。平和が必ず成功すると確信したからでもない。過去と同じことを続けるより、未知の未来へ進む方がよいと決断したのである。平和とは、安全な選択ではない。むしろ、戦争よりも未知に満ちている。敵がいる世界では、自分が何をすべきかは分かりやすい。武器を構え、警戒し、相手の弱点を探せばよい。
敵がいなくなれば、これまで敵として見てきた相手を、一人の人間として見なければならない。相手の言葉を聞き、自分の過ちを認め、共通の未来を作らなければならない。それは、戦うことより難しい。チャン将軍は、その未来を恐れた。カートライト提督も恐れた。ヴァリスは、その恐怖を論理という言葉で正当化した。そして物語の初めのカークもまた、同じ恐怖を抱えていた。
彼らの違いは、恐怖を持っていたかどうかではない。恐怖を理由に未来を破壊したか、それとも恐怖を抱えたまま未来へ進んだかである。カークは、息子の死を忘れない。しかし、息子の死によって新たな戦争を始めることを拒む。スポックは、ヴァリスの裏切りを忘れない。しかし、自分の失敗を理由に他者を信じることをやめない。アゼトバーは、父の暗殺を忘れない。しかし、父を殺された怒りによって和平を捨てない。
それが、本作の希望である。『カーンの逆襲』で、カークは老いと死を学んだ。『ミスター・スポックを探せ!』で、仲間を取り戻すためにすべてを捨てた。『故郷への長い道』で、二頭のクジラを救い、自分たちの故郷へ帰った。『新たなる未知へ』で、神を宇宙の果てではなく、人の心の中に見いだした。そして『未知の世界』で、カークたちは、自分たちがいなくなった後の未来を選ぶ。
初代クルーの最後の使命は、自分たちの時代を守ることではなかった。自分たちの時代を終わらせることだった。敵と戦い続ける英雄として歴史へ残るのではなく、敵との和平を実現し、次の世代が自分たちを必要としない世界を作る。それこそ、彼らが成し遂げた最大の功績である。
最後に、エンタープライズは帰還命令を受ける。だがカークは、すぐには地球へ戻らない。第二の星を右へ。そして朝までまっすぐ。星々の中へ消えていくエンタープライズ。その航海は、永遠には続かない。
やがて彼らは船を降りる。別れの時は来る。しかし、彼らが切り開いた宇宙には、新しいエンタープライズが飛び立つ。新しい艦長。新しい乗組員。新しい物語。七人の俳優たちの署名が、スクリーンへ一つずつ刻まれる。それは別れの挨拶であると同時に、未来への委任状でもある。
この先の航海は、次の者たちに託す。自分たちの失敗も、友情も、希望も、すべてを引き継いでほしい。未知の世界とは、死後の世界ではなかった。自分が去った後にも続いていく世界。敵だった者が友人になるかもしれない世界。次の世代が、自分たちには想像できなかった生き方を選ぶ世界。そして、古い英雄たちがいなくても、物語が続いていく世界である。
カーク、スポック、マッコイたちは、その未知を恐れながらも、最後には受け入れた。だから彼らは、単なる宇宙の英雄ではない。未来を次の世代へ手渡すことのできた、本当の開拓者なのである。
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