御曹司はただの同期のはずだったのに ①一夜で崩れた距離3⃣
賑やかな声に紛れて、最初はいつも通りだった。
仕事の愚痴や、今日の案件の話。
誰かが笑って、誰かがツッコミを入れる。
私は適当に相槌を打ちながら、少しずつ酒を口に運んだ。
気づけば、一人、また一人と席を立っていく。
「悪い、明日早いから先帰るわ」
「俺も終電あるし」
そんな言葉が重なって、気がつけばテーブルには私と理人、あと一人二人だけになっていた。
そして、その残りのメンバーもやがて席を立つ。
「じゃあお先に」
「二人とも、ほどほどになー」
軽く手を振って見送ると、店のざわめきが少し遠くなった気がした。
(……結局、二人だけじゃない)
グラスを持つ手が、わずかに止まる。
理人は何も言わず、注文票を指先でなぞっていた。
「おかわりは?」
視線も上げずに、淡々とした声。
「ああ、大丈夫」
そう答えたものの、頬が少し熱い。
「無理するなよ」
「してないわよ」
言い返すと、理人はようやく顔を上げた。
その視線が、さっきまでと違う気がして、思わず逸らす。
「酔っても大丈夫だ。安心しろ、俺がいる」
さっきと同じ言葉のはずなのに。
今は、逃げ場がない分だけ、まっすぐ胸に落ちてきた。
「……それはどうも。ご迷惑かけます」
軽く返したつもりなのに、声が少しだけ揺れる。
理人は小さく息を吐いて、グラスに口をつけた。
しばらく、沈黙が落ちる。
なのに、不思議と落ち着く。
「……今回の案件、悪くなかった」
ぽつりと理人が言う。
「負けたけどね」
「僅差だ。次は分からない」
その言い方は相変わらず淡々としているのに、どこかやわらかい。
胸の奥が、少しだけ緩む。
「お前、ちゃんと休めてるのか」
ふいに落ちた言葉に、呼吸が止まった。
「……いいのよ。人間、踏ん張る時があっても」
いつものように返す。
強く、崩れないように。
けれど。
「おまえのそういうところ、すごいと思うよ」
その一言で、何かが少しだけ崩れた気がした。
(……やめてよ)
そんなふうに言われたら、強がっている意味がなくなるじゃない。
店を出た瞬間、夜の空気がひんやりと頬に触れた。
「……さむ」
小さく呟くと、頭の奥がふわりと揺れる。
(……ちょっと飲みすぎたかも)
足元が、少しだけ不安定だ。
まっすぐ歩いているつもりなのに、感覚がずれている。
隣には理人。
さっきまで店の中で向かいに座っていたのに、外に出るとまた距離が近くなる。
無言のまま、二人で歩く夜道。
街灯の光が途切れ途切れに続いていて、その間をすり抜けるたびに、理人の横顔が明るくなったり、影に沈んだりする。
(……なんで、こんなに意識するのよ)
ただの同期。
それだけのはずなのに。
足を一歩踏み出した瞬間、わずかに体が傾いた。
「あ――」
視界がぐらりと揺れる。
その瞬間、腕を掴まれた。
「危ない」
低い声と同時に、しっかりと体を支えられる。
「……っ」
思わず息を呑む。
「あ、ごめん」
慌てて体を起こそうとするけれど、理人の手はまだ離れない。
「いいんだ」
短く返される。
「でも……」
こんなふうに触れられるの、初めてだ。
仕事中に肩が触れることはあっても、こんなふうに“支えられる”距離は――知らない。
「少しは俺を頼れ」
その一言に、動きが止まる。
理人の手が、私の腕を軽く支えたまま、離れない。
視線が、自然と上がる。
真正面から、目が合った。
(……近い)
さっきまで感じていた夜の冷たさが、一瞬で消える。
玲奈は何か言おうとして、言葉を見失う。
視線が泳ぐ。
どこを見ればいいのか分からない。
けれど理人は、まったく動じていなかった。
ただ静かに、まっすぐにこちらを見ている。
逃げ場がない。
心臓が、急に速くなる。
ドクン、ドクンと、はっきりと音が響く。
(……なんで、こんなに)
触れているのは腕だけなのに。
それだけなのに、体の奥まで熱が広がっていく。
理人は、そんな私の様子を少しだけ見てから、ふっと力を抜いた。
「……歩けるか」
「あ、うん……大丈夫」
ようやく声を出す。
けれど、完全に平静は戻らない。
手は離れたのに、まだそこに触れている感覚だけが残っている。
「家まで送るから」
さらりとした言葉。
当然のように言われて、反論が浮かばない。
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