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教育の敗北を作り上げた一当事者として

自分の教員人生を振り返ると、前半は公立小学校で過ごした時間だった。石原都政、道徳の教科化、性教育バッシング――そんな空気の中で、人権や政治について自分が声を上げたり、授業で扱ったりすることは、怖くてできなかった。公立時代、私は政治的な授業は一度もしなかった。


二校目での出来事を今でも覚えている。式典で君が代を歌う際、起立を拒んだ同僚が二人いた。初任校で、そんな行動をすれば管理職に叱責され、徹底的に弾圧されることを身体で学んでいた自分は、彼女たちを見て「すごい」と思った。けれど、トラウマが先に立ち、連帯することはできなかった。そのことを、今でも後悔している。


日曜に地域の人たちを招いて行う道徳地区公開講座も、いつも苦痛だった。「それっぽく見える」「無難に整った」授業をどう見せるかばかりを考えていた。当時は若く、校内で声を持つだけの権力も影響力もなかった。無力感の中で、自分の信条に反することを心を麻痺させながら続けるしかなかった。
けれど、教員人生の後半を過ごした私立小学校は、まったく違う場所だった。子どもの権利条約を重視し、平和教育に力を入れ、何より自治と民主主義を大切にする学校だった。職員室でも教室でも、その姿勢は一貫していた。そこで自分は、公立時代に封印してきた「政治性」を、少しずつ取り戻していったように思う。


日本の低い投票率や、今の社会が直面している民主主義の危機を目の当たりにするたび、自分はどれだけのことをしてきただろうかと考える。これまでの教員人生を突きつけられているような気持ちになる。教育の敗北だ、と多くの人は言う。確かにそうなのかもしれない。


けれど同時に、私はその敗北を作りあげた当事者でもある。だからこそ腹立たしさがある。ただその怒りは、社会や制度に向くだけではなく、自分自身にも向いている。


今は教員ではない。それでも、ジェンダー教育実践家という立場で、教育現場に、子どもたちに、何ができるのかを考え続けている。過去は消せない。けれど、過去に向き合いながら次の一歩を選び続けることはできる。その問いを抱えたまま、まだ歩いている途中なのだと思う。


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