性加害を庇うことは、男が漢になるための賭けである
性加害の加害者を庇い、加害を矮小化する人たちは、義理人情がベースの美談が好きな割合が多いのではないだろうか。
不遇の時代を経て成功した人間が「あの人だけが苦しいときに寄り添ってくれた。そのおかげで今の自分がいる」と回顧するような話は、大衆の大好物だ。たしかにそういう美談は、あってもいいと思う。けれども性加害をめぐる顛末に、その美談は通用しない。
加害者を庇う人たちが本当に守りたいのは、実のところ加害者ではない。加害者を支えた「あのころの自分」を、恩人として、後世に語られ続けられることなのではないか。そのグロテスクな欲望が、被害者の苦しみへの想像力を曇らせているのではないか。
後世語られるであろう「あの人だけが苦しいときに寄り添ってくれた。そのおかげで今の自分がいる」という美談における『あの人』枠に自分をエントリーさせること。
それは有望株を早くに見出した投資家の心理に似ている。株価が底値、もしくは下落しているときに買い、市場の風向きが変わり、上昇するのを待つ。風化を、待つ。
少なくとも男社会の中では、性加害は風化する。だから、性加害者をかばうことは短期的に見れば世間からの非難を浴びることになれど、いつしか「苦境にいた人を見捨てなかった」と都合よく記憶され直し、「義理堅い人情に篤い漢」として評価されることになる。
しかし、その評価は被害者の尊厳を踏み台にしたものだ。かばう行為は、友情でも義理だけでもない。そんな投機的な一面もあるのではないか。
男社会で男が漢になるためには、ハイリスクで、きわめてハイリターンな賭けをしなければならないのかもしれない。
あ〜グロい。
