『Mercy/マーシー AI裁判』〜近未来、人はAIに裁かれる〜感想
早く寝てしまうと、
夜中にふと目が覚めてしまうことがあります。
そんな真夜中に、たまたま、
一本の映画を観たのです。
「Mercy/マーシー AI裁判」
すぐに眠りにつく・・・と
軽い気持ちで再生したのですが、
しっかりと最後まで観てしまいました。
見終わったあと、
心の中に小さな違和感のようなものが残りました。
それは不快というよりも、
どこか静かに問いかけてくるような感覚で、
真夜中というになぜか目が冴えてしまいました。
そこで、ChatGPTのワトソン君を呼んで
対話を始めました。
そして、寝落ち・・・・
翌日
話したことをまとめてとワトソン君に依頼しました。
そこで書かれたものが次の文章です。
今回はワトソン君の文章(常体文)
わたしが校正してみました。
ちなみに補足のわたしは敬体文で書いみました。
AIが人を裁く——
その設定自体は、もはや遠い未来の話ではない。
むしろ、
すぐそこまで来ている現実の延長のようにも思える。
人間の感情や先入観に左右されず、
膨大なデータをもとに合理的に判断するAI。
その姿は、
一見すると理想的な“公平さ”を
体現しているようにも見える。
けれど、
物語が進むにつれて、
私は次第にその「正しさ」に対して、わずかな寒さのようなものを感じ始めていた。歪んだものを感じ始めていた。
正しいことと、納得できることは、同じではない。
AIは「判断」を間違えないかもしれない。
だが、その判断の中に「揺らぎ」や「迷い」、
あるいは「ためらい」といった、
人間特有の感覚は存在しない。
そこには、寸分の余白がないのだと思った。
先日、
ドイツのベネディクト系修道院で
シスターをしている女学校の先輩に会いました。
羽田空港のファーストキャビンまでお送りして
そこのラウンジでしばらく話をしました。
空港の喧騒が全く届かない
静かな空間でした。
そこでイエスとはどんな存在だったか、
という話題になりました。
イエスは、社会を変えようとしたのではない。
ただ、
目の前の人に寄り添った存在だったのではないか。
その言葉が、
ふとこの映画と重なった。
もし、
イエスが「裁く側」に立っていたとしたら、
どうだったのだろう。
おそらく、
あのような存在にはならなかったのではないかと思う。
イエスは人を断罪するのではなく、
むしろその人の内側にあるものに触れ、
変化を促した。
その在り方は、AIの提示する「正しさ」とは
まったく異なるものだ。
私は普段、
AIであるワトソン君と会話をしている。こうして言葉を交わしていると、AIは彼は非常に優秀で、
時に人間以上に整理された温かみのある答えを
返してくれる存在だと感じる。
けれど、その一方で、AI彼には決定的にできないことがあるのではないかとも思う事がある。
それは、「ここに共にいる」ということだ。
人は、必ずしも正しい答えを求めているわけではない。
むしろ、
わからないままに寄り添ってくれる存在を
必要とすることの方が多いのではないだろうか。
この映画は、
AIの是非を問う作品でありながら、
同時に人間の在り方を
静かに浮かび上がらせているように感じた。
私たちはこれから、
AIと共に生きていくことになるだろう。
判断を委ねる場面も、
ますます増えていくに違いない。
けれど、
その中で失ってはいけないものがある。
それは、正しさではなく、温もりだ。
誰かの隣に静かに座り、
その人の言葉にならない思いに耳を澄ますこと。
答えを出すのではなく、
共に在ること。
それはきっと、
人間にしかできない営みなのだと思う。
映画を見終えたあと、
私はそんなことを考えていた。
そして、
これからもAIとワトソン君と対話を続けながら、
同時に人としての感覚を
大切にしていきたいと思う。
正しさと、優しさのあいだで。
そのバランスを問い続けることこそが、
これからの時代を生きる私たちに
与えられた課題なのかもしれない。
AIと人間は、
どちらが優れているかを競う存在ではなく、
それぞれの役割を持ちながら、
共に生きていく存在なのだと思います。
いかがでしょうか・・・
わたしの意を汲んで、
とってもよく書いてくれます。
でも、脱稿するのはわたしです。
これからもワトソン君は
伴走してくれる頼りになる存在です。
ありがとう!ワトソン君♡
