関係性機能美派(暫定)

僕には要らない。でも、それを必要とする人の美は否定しない

僕はたぶん、機能美派だ。
ただし、単純に「役に立つものだけが美しい」と言いたいわけではない。
それだと少し乱暴になる。世界を工具箱に詰め込みすぎる。ネジとレンチだけで人生が回るなら、人間はもう少し安く済んでいる。
僕が考えているのは、もう少し面倒で、もう少し人間臭い。
ものごとには、何かしらの機能がある。
そして、その機能に美を見出すかどうかは、それを使う人との関係で決まる。
だから、仮に名前を付けるなら、
関係性機能美派
暫定である。思想の名前にまで仮設足場を組むな、という話だが、まあ今はこれでいい。

酒に機能美はあるか

たとえば酒。
僕は酒に弱い。
酔うとすぐゲロになる。
なので、僕にとって酒は美しいものではない。
味わうより先に体が拒否する。
酔いの楽しさに辿り着く前に、胃袋が反旗を翻す。
グラスの中に夕焼けを見る人もいるだろうが、僕の視界に浮かぶのはだいたいトイレである。悲しい予告編だ。
だから、僕にとって酒の機能はあまり良くない。
少なくとも、自分の身体との関係では、美として働かない。
でも、それは「酒そのものに価値がない」という意味ではない。
酒好きの人にとって、酒には確かに機能がある。
料理の味を引き立てる。
香りを楽しませる。
一日の終わりに線を引く。
会話の速度をゆるめる。
場の空気をほどく。
季節や土地や作り手の気配を、舌の上に乗せる。
その人にとって酒は、ただの液体ではない。
味覚を開く鍵であり、時間に栞を挟む道具であり、人と人の間に置かれる小さな火鉢みたいなものだ。
なら、そこには美がある。
ただし、僕にはない。
ここを分けて考えたい。

ブランド物にも機能がある

ブランド物のファッションも同じだ。
僕は、自分を飾り立てることにあまり興味がない。
高い服を着て自分を大きく見せたいとも思わない。
ロゴで自分を強化する感覚も薄い。
だから僕にとって、ブランド物はあまり機能しない。
布は布だし、鞄は鞄だし、時計は時間が分かればいい。
そこで終わりやすい。
でも、ブランド物を必要とする人にとっては違う。
それを身につけることで背筋が伸びる人がいる。
自分の好みを外に出せる人がいる。
場に対して「私はこういう者です」と言葉なしで示せる人がいる。
仕事の場で信用の通行証として使う人がいる。
「今日はこの自分で行く」と、服によって自分を起動する人がいる。
服は布だ。
でも布は信号にもなる。
装飾にもなる。
鎧にもなる。
旗にもなる。
僕には要らない。
けれど、それを必要とする人の中では、きちんと働いている。
働いているなら、そこには美がある。

金・名誉・体裁・贅沢・肩書き

犬儒派の話から始まって、僕はふと考えた。
金、名誉、体裁、贅沢、肩書き。
そういうものを僕はあまり欲しがらない。
金は便利だから要る。
でも名誉は別に要らない。
贅沢も要らない。
肩書きや地位も、飾りとしてならあまり欲しくない。
ただ、これも「全部くだらない」と切り捨てるのは違う。
金には機能がある。
食べられる。移動できる。機材を買える。時間を買える。逃げ道にもなる。
金は自由を増やす燃料になる。
名誉にも機能がある。
「あの人なら任せられる」という信用を短く伝える力がある。
初対面で説明しなくても済む場面がある。
誰かの安心材料になることもある。
体裁にも機能がある。
場を壊さない。
相手を不安にさせない。
礼服や挨拶や言葉遣いは、「君を軽く扱っていない」という外装になることがある。
贅沢にも機能がある。
疲れた心を戻す。
生活に祝祭を置く。
「今日は特別だ」と、自分に許可を出す。
無駄に見えるものが、人間を人間に戻すことだってある。
肩書きにも機能がある。
何をしている人なのかを伝える。
責任の所在を示す。
場を作る時の名札になる。
知らない人同士が安心して関われる足場にもなる。
だから、これらは全部、単なる虚飾ではない。
ただし、道具が主人になると話が変わる。
金が燃料ではなく神になる。
名誉が信用ではなく酸素になる。
体裁が配慮ではなく檻になる。
贅沢が回復ではなく見栄の借金になる。
肩書きが説明札ではなく人格の代用品になる。
そこまで行くと、美ではなく重荷だ。
装備のはずが、いつの間にか鎖になっている。
便利なものほど、首輪に化けるのがうまい。やれやれ、道具のくせに世渡りがうまい。

僕には要らない、でも君には必要かもしれない

僕の考え方の大事なところは、ここだと思う。
僕には要らない。
でも、それを必要とする人の美は否定しない。
酒は僕には合わない。
でも酒を愛する人の時間までは否定しない。
ブランド物は僕にはあまり働かない。
でもそれで自信を得る人の背筋までは笑わない。
名誉や肩書きは、僕の欲しいものではない。
でもそれが信用の橋になる場面はある。
贅沢は、僕には過剰に見えることがある。
でも誰かにとっては、明日を生きるための小さな祝祭かもしれない。
自分にとって不要なものを、世界全体の不要物として扱わない。
そこを間違えると、思想はすぐに棍棒になる。
美学の顔をした鈍器ほど、扱いに困るものはない。

美は、ものの中だけにあるんじゃない

美は、対象の中に固定されているものではないと思う。
酒瓶の中に、誰にとっても同じ美が入っているわけではない。
ブランドバッグの中に、誰にとっても同じ価値が詰まっているわけではない。
肩書きや名誉が、誰にとっても同じ力を持つわけではない。
美は、ものと人との間で立ち上がる。
身体に合うか。
目的に合うか。
生活に合うか。
その人が進みたい方向に対して、ちゃんと働くか。
そこで初めて、美になる。
僕にとって美しいものは、たぶん「人を飾るもの」より「人を動かすもの」だ。
PC。
AI。
マイク。
作業机。
クロスカブ。
メモ。
Notion。
声。
文章。
誰かの最初の一歩を軽くする仕組み。
そういうものに、僕は美を見やすい。
派手でなくていい。
高級でなくていい。
他人に見せびらかせなくていい。
ちゃんと働くもの。
動かないものを動かすもの。
詰まっている場所に油を差すもの。
重い一歩を、少しだけ軽くするもの。
そういうものが、僕には美しい。

関係性機能美派(暫定)

だから、今のところ僕の思想をこう呼んでおく。
関係性機能美派。
ものごとには機能がある。
その機能が美として見えるかどうかは、関係で決まる。
僕にとって不要なものでも、誰かにとって必要なら、そこには美がある。
僕にとって美しいものでも、誰かにとって重荷なら、それはその人には美しくない。
価値は一枚岩ではない。
美は押し付けるものではない。
機能は人によって変わる。
そして人は、自分に合った道具で、自分を少しだけ前に進める。
僕はたぶん、飾り棚より工具箱に美を見る。
王冠より、ちゃんと回るネジ。
勲章より、声を拾ってくれるマイク。
高級車より、狭い道を走れるクロスカブ。
拍手喝采より、「それで一歩踏み出せた」という一言。
ただし、王冠で歩き出せる人がいるなら、その王冠もまた美しい。
僕の頭には重い。
その人の頭上では、光る。
それでいい。
美は、ひとつの場所に閉じ込めるには、少しばかり落ち着きがなさすぎる。
まったく、哲学というやつは、工具箱に入れてもすぐ散らかる。
でもまあ、使えるならいい。
使える思想は、美しい。

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