あなたの宝物を、私まで宝物と呼ぶ義務はない
僕にとっての宝物が、誰かにとってはゴミである。
そんなことは、珍しくもない。
反対に、あなたが胸の奥にしまっている宝物が、僕の目には何の価値もないものとして映ることもある。
少し寂しい話に聞こえるかもしれない。けれど、これは人の心が冷たいからではない。
価値は、物の表面に値札のように貼り付いているものではないからだ。
猫は、家族にも捕食者にもなる
僕は猫が好きだ。
猫を飼っていたこともある。
柔らかい毛も、気まぐれな足音も、いつの間にか隣で丸くなっている姿も知っている。僕にとって猫は、生活の中にいた大切な存在だった。
けれどネットを見れば、別の景色がある。
飼っていた鳥を猫に殺された。
大切に育てていたネズミを襲われた。
庭に来る小動物を何匹も殺された。
その人にとって猫は、かわいらしい家族ではない。自分の家族を奪った捕食者だ。
僕の中で猫がどれほど大切でも、その思い出を相手の胸にそのまま移植することはできない。
僕が猫を宝物だと思うことと、相手が猫を憎むことは、同時に成立する。
猫そのものが変わったわけではない。
立っている場所が違えば、見える姿が違うだけだ。
「私には大切」が、他人への命令になるとき
問題になるのは、自分の大切なものを大切にすることではない。
「私にとって宝物なのだから、あなたも宝物として扱いなさい」と言い始めたときだ。
自分の子どもが周囲に迷惑をかけても、
「子どもは国の宝でしょう」
と語る人がいる。
けれど、「社会が子どもを保護すること」と、「目の前にいる特定の子どもを、誰もが特別な宝物として扱うこと」は同じではない。
子どもには守られるべき権利がある。
安全に育つための支援も必要だ。
だからといって、他人に迷惑をかけた事実が消えるわけではない。親が責任を負わなくてよくなるわけでもない。
親にとって、その子は世界に一つだけの宝物だろう。
しかし、通りすがりの人にとっては、世の中に大勢いる子どもの一人でしかない。
愛する義務もない。
かわいいと思う義務もない。
迷惑を笑って受け入れる義務もない。
「宝物」という言葉を掲げたところで、他人の感情まで徴収することはできない。
宝物には、持ち主がいる
古い写真。
ぬいぐるみ。
子どもが描いた絵。
長年乗っている車。
誰かにもらった指輪。
家族。
恋人。
ペット。
思想。
作品。
本人の中では、どれも光っているのだと思う。
けれど、その光は照明ではなく、持ち主の目の中にある。
本人には金色に見えていても、他人の目にはくすんだ石にしか見えないことがある。場合によっては、道を塞ぐ邪魔な荷物に見えることさえある。
それでも構わない。
自分にとって大切なら、自分が大切にすればいい。
他人が同じ価値を感じないからといって、自分の思い出まで壊れるわけではない。
宝物とは、世界中から宝物認定されたものではない。
誰か一人が、それを手放したくないと思っているものだ。
壊さないことと、宝物扱いすることは違う
他人の大切なものを、わざわざ壊す必要はない。
侮辱する必要もない。
本人が大切にしていると知っているなら、可能な範囲で配慮してもいい。
ただし、それは「自分も同じ価値を感じなければならない」という意味ではない。
他人のぬいぐるみを捨てないことと、そのぬいぐるみを愛することは違う。
他人の子どもの安全を守ることと、その子を無条件にかわいがることは違う。
他人のペットを傷つけないことと、その動物を好きになることは違う。
尊重と賛美は別物だ。
権利を守ることと、価値観を共有することも別物。
この二つを混ぜると、「大切に思わないお前は冷たい」という話になってしまう。
違う。
大切に思えないものは、大切に思えない。
感情は公共料金ではない。請求書を送られても、支払う義務はない。
あなたの宝物は、あなたが守ればいい
僕の宝物が、あなたにとってゴミであることはあり得る。
あなたの宝物が、僕にとってゴミであることもあり得る。
だから僕は、自分の宝物をあなたに押しつけない。
あなたにも、僕の宝物を愛せとは言わない。
ただ、壊さないでほしいとは思う。
同じように、僕もあなたの宝物を愛する義務はないが、理由もなく壊そうとは思わない。
そのくらいの距離でいい。
互いの宝物を同じ棚に並べ、同じ札を付ける必要はない。
それぞれが、自分の棚を持てばいい。
あなたの宝物は、あなたが守る。
僕の宝物は、僕が守る。
そして、自分の宝物が他人の場所を荒らしたなら、「宝物だから許して」と言うのではなく、持ち主として責任を負う。
宝物であることは、免罪符ではない。
誰かにとって大切であることは、全員にとって価値があるという証明にもならない。
それでも、自分が大切に思うなら大切にすればいい。
他人の認定がなくても、宝物は宝物なのだから。
