古事記が作成された頃の東アジアの情勢に対し、当時の日本はどうしようと考えていたのでしょう
古事記を学び始め、50年前に日本史の授業で学んできた内容が、随分イメージを変えつつあります。そこで、記紀が発刊された頃の東アジアの状況を把握したいと考え、ChatGPTやGeminiに問を投げてみました。
西暦600年から700年ころの東アジアの状況
中国の変化
中国では隋(581–618年)・唐(618年–)朝が南北朝時代を終結させて中国全土を統一・安定化し、科挙や均田制・租庸調制といった律令的官僚制を整備したようです。この頃、日本は推古天皇の時代です。私達の世代が感じるこの時代は(50年前の日本史)聖徳太子の時代。大阪の四天王寺が建立され、飛鳥寺が建立され、日本の仏教が始まった頃といったイメージです。
このような時代に、中国では科挙といった実力による官僚の登用がスタートし中央官僚層を育成システムができているのです。日本ではいつまでたっても、家柄による登用がそのまま継続されています。
さらに隋の煬帝(Yangdi)は江南・華北を結ぶ大運河を建設し(608年には高句麗征伐用として永済渠を開削)、全国的な物資輸送網を整備して都邑と辺境勢力の結合を図ったようです。唐朝初期には武徳・貞観の治で領土拡大と安定が進み、都の長安は国際的貿易の中継地となっていきました。690年には武則天が中国初の女帝として武周を建てるなど内政の混乱もあったようですが、古代中国の統一王朝としての体裁が維持されたようです。
記紀製作時の天皇である持統天皇は、この武則天女帝を目指していたのかもしれません。
朝鮮半島の状況
三韓(高句麗・百済・新羅)の王権闘争がずっと続いていたようです。北の高句麗は5世紀に最盛期を迎えたものの6世紀以降は粛慎(靺鞨)などの北方勢力や南方の百済・新羅と抗争し、徐々に衰退していきました。百済は中国南朝から文化・仏教を導入し、6世紀には渡来僧を通じて日本にも仏教を伝え、これが日本の仏教伝来と言われています。
一方、新羅は小王国の連合体から徐々に王権強化を進め、6世紀末に唐と同盟し高句麗・百済を相次いで滅ぼしました。このとき、百済からの応援要請を受け、日本は参戦します。これが663年の白村江の戦いです。日本は唐・新羅軍に大敗します。668年に唐・新羅連合軍が高句麗を滅ぼし、新羅は676年に唐軍を追って朝鮮半島を統一しました。これらの統一過程では、中国史書(『旧唐書』など)による冊封体制や留学僧の交流を通じて儒教・仏教の制度を取り込み、王位継承・王族婚姻・郡県制導入などで王権を強化していったのです。なお、辰韓系の伽耶(加耶)は6世紀に新羅に併合されてしまいました。
激変と激動の当時の東アジア。
朝鮮半島への唐の進出。それを抑えた新羅。救いの要請があった百済を救い出せず大敗した日本。既に唐では中央集権国家が成立し、税制も官僚登用もシステムが出来上がった唐。兵力の増強も進められており、とても心配な時代だったことでしょう。
このような東アジアの大きな変化を感じて、当時の日本の天皇、そして政治の幹部の人々は、日本の何を心配し、何を恐れ、何を整備し、何を造りあ上げ、国民を導いていこうと考えていたのでしょうか。
そして、国とは、国家とは、独立した国とは?といろいろな問いについて、必死に考えに考え、議論に議論を重ねていった時代だったのではないでしょうか?
そして、唐から侵略される危機感、新羅が攻めていくる緊張感に包まれた時代、どこから攻められるのか? 日本海のどの拠点が危険なのか?
650年代から700年代の日本は、
そんな時代だったと考えて、時代背景を少し考えながら、記紀を学ぶほうが時代に即していると思うのですが、いかがでしょうか?
このような日本を取り巻く状況を考えながら、もう一度古事記を読んでみたいと思います。
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