学会発表の準備に100時間かけて、なぜお金まで払うのか|臨床理学療法士が感じた"報われない構造"の話
発表が終わった夜、なぜか虚しかった
発表が終わった。
拍手をもらった。
質疑応答も、なんとか乗り越えた。
それなのに、帰りの新幹線の中で、
ふと思った。
「この3ヶ月、なんだったんだろう」と。
休日を削って、夜中に向き合い続けた3ヶ月間
あれは、臨床に出て数年が経った頃のことです。
上司から「今年は学会で発表してみないか」と声をかけられました。
断る理由も特になく、「せっかくだから」という気持ちで引き受けました。
最初は軽い気持ちでした。
でも、いざ始めてみると、思っていた以上に大変でした。
症例をまとめるだけで数週間かかりました。
カルテを読み返し、評価データを整理し、「この患者さんの変化をどう説明するか」を何度も考え直しました。
スライドを作り始めると、「これで伝わるだろうか」「論理の流れがおかしくないか」と、何度も修正を重ねました。
抄録の締め切りに追われ、指導してくれる先輩に何度も見せ、職場のパソコンではなく自分のパソコンで深夜まで作業する日が続きました。
土日も、家族が寝静まった後も、頭の中は発表のことでいっぱいでした。
トータルで何時間使ったか、正確には数えていません。
でも100時間は超えていたと思います。
そして、学会当日。
参加費を支払い、交通費も自腹で、前日入りのための宿泊費も自分で負担しました。
金額にすると、数万円になっていました。
発表は無事に終わりました。
フロアからの質問にも答えられました。
座長の先生に「丁寧な発表でした」と言っていただいて、少し安心しました。
でも、帰りの新幹線の中で、窓の外を見ながら、ふと思ったのです。
「この3ヶ月、業務としてカウントされていないよな」
「参加費も交通費も宿泊費も、全部自分が払ったよな」
「給料は、1円も変わらないよな」
誰かに怒りをぶつけたいわけではありませんでした。
ただ、どこか腑に落ちない感覚が、胸の中に残っていました。
あの感覚に、ずっと名前がつけられないでいました。
あなたも、こう感じたことはありませんか
学会発表を経験した理学療法士なら、こんな気持ちを一度は抱いたことがあるのではないでしょうか。
「発表者がいなければ、学会は成立しないはずなのに」
「患者さんから得た知見を、業界のために共有しているのに」
「なぜ、時間も労力も使った上に、お金まで払うのだろう」
これは単なるコスト感覚の話ではないと思います。
「自分の貢献が、どこにも評価されていない」という感覚。
臨床で患者さんから信頼を積み上げているのに、それが職場の評価にも、給与にも、学会活動にも反映されない。
その違和感が、じわじわと積み重なっていく感じ。
「自己投資だから当然」と言われても、どこかしっくりこない。
その感覚は、おかしくないと思います。
"報われない"のは、あなたのせいじゃない
あの発表の夜に感じた虚しさの正体が、最近少しわかってきた気がします。
学会という仕組みは、もともと大学や研究機関を前提に設計されています。研究者にとって学会発表は「仕事の一部」であり、費用も機関が負担するケースが多い。
でも、臨床理学療法士にとっては「本業に加えた、無償に近いボランティア活動」になりやすい構造があります。
つまり、同じ「学会発表」という行為でも、立場によってまったく意味が違う。
その違いを無視したまま、同じルールが適用されている。
あなたが感じた違和感は、あなた個人の問題ではなく、構造の問題です。
だからといって「学会に行くな」とか「発表するな」と言いたいわけではありません。
でも、「なんとなく言われたから」「断れなかったから」という理由だけで、自分の時間とお金を使い続けるのは、少し立ち止まって考えてもいいのかもしれません。
あなたの臨床の知見には、価値があります。
その価値を、どこに・どのように使うかを、自分で選んでいく。
そういう視点が、これからのキャリアには必要なのではないかと、私は思っています。
あなたが感じた違和感は、本質的な問いだった
帰りの新幹線で感じたあの虚しさは、弱さではありませんでした。
「自分の貢献が、正しく評価されているか」を問う、まっとうな感覚だったのだと、今なら思えます。
その問いを持ち続けることが、あなたのキャリアを、少しずつ自分らしいものに変えていく第一歩になると、私は信じています。
もし「そうそう、これが言いたかった」と感じてくれた方がいたら、スキを押してもらえると励みになります。
いいなと思ったら応援しよう!
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
もしこの記事が少しでもお役に立てたと感じていただけたら、サポートいただけますと次の記事制作の励みになります。
いただいた応援は、新しい学びのために大切に使わせていただきます。