映画「さかなのこ」 あふれる多幸感の正体 -成長しない主人公から読み解く-
さて今回は映画「さかなのこ」でギョざいます!
主演はのんちゃん。
さかなクンの自伝エッセイを映画化した作品です。
…さかなクンがのんちゃん?
これを書いている2026年時点では上映からすでに4年経っています。
それでもYahoo映画で★4以上とかなり高評価の映画です。
興行的なメガヒット作とは言いにくいものの、見た人からの評価は高いです。
名作の部類と言ってよいと思います。
出演者はのんさんはじめ、柳楽優弥さん、磯村勇斗さんなど抜群の演技力を誇る俳優ばかり。
芝居の魅力だけで楽しませる力がある映画だと思います。
とりわけ食事会のシーンでの柳楽さんの芝居は圧巻ですね。
カメラを柳楽さんに固定し、他の登場人物はフレームから見切れさせ、柳楽さんの芝居だけをほぼ正面から撮る。
この撮り方自体、柳楽さんの演技に全幅の信頼を置いていないとできないです。
このシーンでは、柳楽さんのセリフというセリフもなく、芝居だけでヒヨの心情変化を見せてくれます。
なぜかブルっとするシーンです。
今回は、そんな素敵映画「さかなのこ」をさらにいくつかのポイントを掘ることによってもっと楽しもうじゃないか。
そんな内容になります。
さらっと軽快なコメディと思っていたら、意外な深淵を覗き見ることになるかも?
それと、ネタバレはいつものように全開フルスロットルです!
この記事の構成説明
まずは今回の記事の構成説明から。
今回は以下の4点に注目してみたいと思います。
①「男か女かは、どっちでもいい」の意味
②ギョギョおじさんとさかなクン登場の意味
③成長しない、歳をとらないミー坊の正体
④さかなクンの原作と「さかなのこ」
これらを繋ぎ合わせて、全体としてどんな映画だということが言えるのか。
大きく2つの結論が言えそうです。
以上がこの稿の全体構成ということになっております。ギョギョ!
「男か女かはどっちでもいい」 の意味
「男か女かは、どっちでもいい」。
映画のいちばん冒頭に示される字幕です。
このメッセージは一見、女性であるのんちゃんがさかなクンを演じることに対するエクスキューズにも見えます。
ただこれ、それだけではないと思うんですよね。
映画のいちばん冒頭って重要だと思うんです。
その映画全体を縛るような提示がなされることが多いからです。
それにせっかく作った映画をこれからお客様に見て貰おうというときに、いきなり配役の言い訳から始めるかな?という根本的な疑問もあります。
本稿ではこれを配役へのエクスキューズではなく「映画全体を規定する観賞ルールの提示」として改めて捉えてみたいんですよ。
あ、もちろん、それが絶対ということではなく、そう読んだとしたらどんな視界が開けるのか、ということですよ。
たとえば後にミー坊とヒヨとの胸熱な友情が描かれます。
夏帆さん演じるモモコとの不思議な同棲生活も描かれます。
これらのエピソードに対しても「性別を前提に解釈しなくていい」という宣言がこの字幕ではないか、ということです。
さらに踏み込めば、「性別を前提に解釈しない」ということは、ヒヨとミー坊の関係をありふれた性別観に当てはめる必要もないということです。
「男同士の友情」という一般的な見方に限定する必要はないし、極端に言えばトランスジェンダー的な文脈から読むことさえ、作品自体は排除しない。
あくまで極端ですがそういうことです。
なぜって、この映画では人間を性別で判断しない、と最初に宣言しているのですから。
モモコとの同居についても同じことが言えるでしょう。
同棲生活についても普通の男女の意味合いで判断する必要はない。
要するに何をどう捉えるかは観客の一人一人に委ねられていることになりますが、作品としてはそういうレギュレーションで提供しますよ。
そういう宣言だと私は解釈します。
ギョギョおじさんとさかなクン
次に「ギョギョおじさん」と「さかなクン」の存在です。
さかなクンがギョギョおじさんとしてカメオ出演するのは「ファンサかな?」とつい思ってしまいます。
そういうのも少しはあるかなと思うのですが、これも結構意味があるのではないかと思うんですよね。
どういうことかというと、
「これから映画で描こうとする『ミー坊の物語』は、ともすれば『ギョギョおじさんコース』だった可能性が十分にありますよ」
ということにしっかり言及していると思うんです。
これは映画の中で視覚的にもしっかり表現されています。


主人公のミー坊と「ギョギョおじさん」の位置関係を確認してください。
ミー坊がまっすぐ進めばギョギョおじさんのいる橋。
しかしミー坊はそのコースから左に逸れて平行する別の橋を渡るという演出がなされています。
「この映画では主人公のミー坊がギョギョおじさんコースに行かなかった話をしますよ」
という視覚的提示になっていると思います。
ミー坊って、ともすれば地元の「名物おじさん」として終わってた世界線が十分ありえる…というか、本来そういう人だと思うんですよね。
それどころか、変質者として警察の厄介になる世界線すらありえた。
映画では『じゃなかった物語』として「ミー坊」の奇跡的な成功譚が描かれるわけです。
では、それは都合よく脚色された、ありえない作り話なのでしょうか。
いやそうでもない、ということだと思うのですよね。
なぜなら、さかなクンは現に実在し、この映画に出演しているのですから。
ギョギョおじさんという人物が登場していることと、その役にさかなクンを起用することは「さかなのこ」の物語が内包する世界線の振れ幅として、
「ここからここまである話だよ」
という提示として絶妙な機能を果たしているように思われます。
ハコフグの帽子に発現する光の輪
もう一つギョギョおじさんで重要と思われる演出上の仕掛けがあります。
それはハコフグの帽子です。
この帽子は「ギョギョおじさん」から「ミー坊」に引き継がれ、「さかなクン」になるときに被るキーアイテムです。
この帽子がすこし不思議なんですよね。
ミー坊の父親がギョギョおじさんから無理やり剥がそうとすると光輪が現れます。
作り手目線で考えれば、撮影した素材にわざわざエフェクトを入れないとそういう画面にはならないので、「意図して光輪を描いた」のは間違いないです。
光輪は、神や仏に現れるあの光輪を連想させます。
これは「深夜のファミレストーク」でおなじみ、「おまけの夜」さんの「ミー坊=神の子」考察と非常に相性のよい映像証跡かもしれません。
おまけの夜 さかなのこ回
後で触れますが、この稿では、柿沼さんの「神の子説」をそのままは採りません。
ただし光の輪の描写から、ギョギョおじさん、そしてミー坊には何らかの聖性としての描写があることは間違いなさそうです。
背景で動くシビアな現実と、ミー坊の不変性
さて、続いては映画の中身についての話です。
映画の中身については、「ひろゆき」さんの解説を少し引きたいと思います。
「それってあなたの感想ですよね」のあのひろゆきさんです。
彼の解説ポイントをまとめるとこんな感じです。
【この映画は、大人の目線で画面の裏側で起きていることを理解しながら見るとすごく面白い】
これが大主題です。
その具体的な根拠として、いくつか挙げています。
・ミー坊の両親の別居を思わせる描写があるが説明されない。
・モモコは金持ちに囲われて子どもまで産んだが、その後何らかの事情で縁が切れ、住むところがなくなったという描写に見える。これも説明はない。
・ヒヨが彼女にミー坊を紹介する食事シーンでは、ミー坊を馬鹿にする彼女をヒヨが振ったということが大人目線では理解できる。
つまり少し意訳をすると、ミー坊自身は気がついていないだけで、その背景では人間ドラマがちゃんと動いている。
それを「大人の目線」で捉えるとちゃんと分かるようにこの映画はできている。
その変化を追えば、さかなクンファンでなくてもこの映画はちゃんと面白い。
そういうことになると思います。
この指摘はその通りでしょう。
その上で私の方から1点だけ補足しておきます。
逆に言うとそれはつまり、周囲はどんどん変化していくのにミー坊だけは変化しない、という言い方もできると思います。
実際そうなんですよね。
周囲はどんどん大人になって、それぞれ何者かになってゆくのに、ミー坊だけは変わりません。
あえて悪く言えば、成長もしないのです。
ミー坊がのんちゃん演じる「成体」になってからは歳すら取らなくなります。
原作と映画の違い
ここで少し意外な事実を告げることになります。
実はこの映画って、原作と中身が全然違うんです。
たとえば幼馴染の「ヒヨ」は出てくるけれども不良ではないし、テレビマンになったという記述もありません。
総長、モモコは登場しません。
1つ1つ挙げて行けばキリがないけれど、要するに映画「さかなのこ」って、「さかなクンの自伝を映画化した」と謳っているわりには、事実の量が全然少ないんです。
これは一体どういうことなのでしょう。
なぜこんなことをしたのでしょうか。
もう1つ視点を入れてみたいです。
それは、「この物語を語っているのは誰か」ということです。
それはもちろん沖田修一監督や脚本の前田司郎さんということになりますが、彼らはあくまでさかなクンの視点を借りてお話を語っています。
ひろゆき解説で触れられている「作品内で言及されているけど説明されない部分」などを考えてみても、この映画が基本的にはさかなクンの自叙形式をとっていることは明らかです。
じゃあさかなクンは自分の人生をどう自己解釈しているのか?
この映画は「好き」を追求することの尊さを描いた映画、などと言われることもあります。
ですが、さかなクン自身は自分が「好き」を追い続けたことがいい結果につながった、とはおそらく考えていないのではないか。
と思うのです。
それはこの映画の封切り当時のいくつかの本人インタビューを並べてみてもそのように推察できるし、そもそも作品の中でそのような表現はなされていないと私は感じます。
むしろ作中でのミー坊の描かれ方は逆です。
水族館の仕事にしろ寿司屋の仕事にしろ、働く能力が足りないこともあれば働くことに不熱心なこともあって、定職に就けなかったことに関してはそれなりに自己責任があります(好きな言葉ではないですが)。
これは先に引用した「おまけの夜」さんの動画でも「モヤモヤポイント」として言及されているところなので、そう感じたのは少なくとも私だけではありません。
つまり、この話は自分の「好き」を追求する生き方を肯定する話、という風にはそもそも描かれていない。
さかなクン自身もそういう人生観を持っていない。
ということが言えると思います。
幸運と感謝
じゃあ何なんや、とお思いのアナタ。
いよいよここからが核心なのでギョざいます。
この作品の中で徹頭徹尾、繰り返し語られているのは
「運がよかった」
ということだと思うのですね。
カブトガニを飼育してお散歩させていたら産卵したことも、総長やモミーと仲良くなれたことも、ヒヨと友達でいられたことも、彼らが自分を受け入れて応援してくれたことも。
母親が自分の「好き」のためにすべてを捧げてくれたことも、さかなクンになれたことも。
全部ぜんぶ、「運がよかった」。
ギョギョおじさんを最初に提示して「こういう未来もあった」と見せたのはそれが言いたかったからだと思うのです。
ギョギョおじさんにならなかったのも運が良かったからなのです。
こういう人生観は原作「一魚一会」でさかなクン自身が語っているそれともがっちり噛み合います。
彼がその著書の中で述べているのは、
「魚屋さんに通っていたらそこのお兄さんに可愛がってもらった」
「カワハギの剥製を作って友達にあげたら思いの外喜んでもらえた」
「会いたいと思っていたら偶然そのお魚や人間に会うことができた」
というようなことの繰り返しであって、その内容は言い換えれば周囲の人びとやこの世界への感謝状です。
そう、映画「さかなのこ」はさかなクンの人生をそのまま映画化した作品ではないと思うのですよ。
そうではなくて、「さかなクンが自分の人生をどう解釈し、どう理解しているか」を映画化した作品と言えると思うのです。
この辺は先に触れたひろゆき解説ともつながってきます。
つまり、変化しないミー坊の周りでは確実に物事が変化している。
それが作品内で言及されている。
この映画がさかなクンの自己解釈を転化した作品だとするなら、こうした変化にあえて言及している以上、本人にもその認識はある、そのように描かれている、と考えるのが自然ではないでしょうか。
ある程度分かっている上で「好き」を貫いて、時にはチラリと呵責を感じつつ、周りやこの世界には絶えず感謝をし続けている。
そんな意味になると思います。
そしてこれこそがこの作品にあふれる多幸感の正体であろうと思います。
これは推測の域を出ないので詳しくは書きませんが、この辺はのんちゃんの一見コミカルなミー坊の演技の中にも組み込まれていたように個人的には感じています。
軽快さをいささかも崩さずそれをやる彼女はまぎれもない天才俳優です。
タイトル回収 ハコフグの帽子
さて、最後にこの稿で書き漏らしているハコフグの帽子の件について話してこの稿を終えたいと思います。
作品内におけるミー坊とは何者か、ということです。
その答えがわかる映像があります。
このシーンです。

ちょっとわかりにくいかもしれないですが、ミー坊が海に飛び込むシーンです。
このシーンの後、水の中でミー坊がハコフグの姿に変わる演出があります。
お魚好きを貫いたミー坊はとうとうお魚になる。
ハコフグの帽子に象徴される聖性の正体は、彼らが「おさかな」だったからなのでした。
そう、「さかなのこ」です。
ミー坊は神の子ではなくさかなのこだった、というのがオチです。
タイトルが「さかなのこ」なのだから、神の子ではなくさかなのこの方が自然な感じがします。
作品内には何人かのさかなのこが出てきます。
ギョギョおじさん、ミー坊、さかなクン。
そして映画の最後では、モモコの娘、ミツコという新しい「さかなのこ」の誕生を描いて映画は終幕となります。
さかなのこはこの世界に無数にいる。
たくさんいるのだから男も女も関係ないし、年齢も問題ではないです。
さかなのこの生きようは必ずしも順風満帆とは限らない、というのがこの映画が延々と語って来たことではあるわけですが、なぜか不思議と「ミツコの人生にもいいことしかないだろうな」と感じられる終わり方になっています。
その辺がこの映画の持つ魅力の真骨頂だろうと思います。
以上、映画「さかなのこ」について考えてみました。
映画全体がさかなクンが今まで出会って来たお魚と人間たちへの感謝状という、すごくさかなクンらしい映画になっていると思います。
見終えて素敵な気分になれることは間違いないので、ぜひご自身で再視聴するなどしてみて欲しいです!
それではまた。

