教科書に載ってない「カールの戴冠」の背景
800年12月25日、フランク王国のカール1世(カール大帝)は、ローマ教皇レオ3世から「ローマ皇帝」の冠を授かりました。世界史の教科書でも大きく扱われている「カールの戴冠」です。
高校の世界史教科書では、このできごとの背景が次のように説明されています。
教科書的な説明
4世紀後半、ローマ皇帝テオドシウスはキリスト教を国教と定め、死に際して帝国を東西に分割しました。
西ローマ帝国は短期間で滅びますが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はその後1000年に渡って命脈を保ちます。また、西のローマ教会が庇護者を失ったのに対し、東のコンスタンティノープル教会はビザンツ帝国の庇護を受けていました。
726年、ビザンツ皇帝レオン3世が聖像禁止令を出すと、東西の教会の対立が深まりました。有力な庇護者を求めたローマ教会は、フランク王国に接近します。これにより、ローマ教皇はフランク王カール大帝に「ローマ皇帝」の冠を授け、ローマ帝国の後継者の地位を認めたのです。
受験情報サイトなどを検索しても、おおむねこのように説明されています。
戴冠の背景にいた「女帝」
受験レベルではこの理解でいいのですが、もう少し深いところをつついてみたいと思います。「カールの戴冠」には、ビザンツ帝国の政情変化も関わっているからです。
797年、ビザンツ皇帝コンスタンティノス6世がクーデターで廃位され、摂政であった母のエイレーネーが即位しました。彼女は、ビザンツ史上(ローマ帝国史上でも)初の女帝です。

極めて異例の事態であり、ローマ教会は彼女の即位を正統と認めませんでした。すると、ローマ教皇から見ると「ビザンツ皇帝(ローマ皇帝)は空位」ということになります。
空位となったローマ皇帝の座を埋めるよう教皇から要請されたのがカール大帝だった、ということになります。
皇帝の権威が揺らぐことになったビザンツ帝国ですが、エイレーネーとカール大帝の結婚という興味深い計画もありました(ともに配偶者を亡くしていた)。
しかし、エイレーネーが802年にクーデターで帝位を追われたため、実現することはありませんでした。
教科書外のエピソードではありますが、歴史上のできごとの「理由」は一つに決められるものではなく、多面的な説明が可能なのです。
