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【AIとベーシックインカム】本当に、配られる日は来るのか?

AIの進化が、止まらない。

文章を書く、絵を描く、コードを組む。

少し前まで人間にしかできないと思われていた仕事を、機械が次々と引き受け始めている。

その流れの先で、静かに語られるようになった言葉がある。ベーシックインカム。

国が、働いているかどうかに関わらず、すべての人へ毎月いくらかのお金を配る、という構想だ。

一見すると、未来の安全網に見える。

仕事がAIに奪われても、最低限の暮らしは守られる。

だが、私はこの話を、そう簡単には信じきれずにいる。

■ なぜ「配る」という話が出てくるのか

ベーシックインカムが語られる背景には、はっきりした理屈がある。

AIが富を生むほど、その富は、AIを持つ一部の企業と、その株を持つ人たちのところへ集まりやすくなる。

一方で、労働で稼いできた人の取り分は、相対的に薄くなっていく。働く場所そのものが、少しずつ機械に置き換わっていくからだ。

この流れが続けば、富を持つ側と持たない側の差は、開きやすくなる。

だから、集まりすぎた富をいったん国が吸い上げて、みんなに配り直そう。そういう発想だ。実際、OpenAIのサム・アルトマンのように、AIをつくっている当人の中にすら、いずれ富を分け直す仕組みが要ると公言する者がいる。

理屈としては、よくできている。

■ だが、本当に来るのだろうか

ここからは、私の個人的な見方だ。

私は、ベーシックインカムというものに、正直なところ半信半疑でいる。

長い目で見れば、アメリカあたりでは、形を変えた分配の仕組みが、いつか始まるのかもしれない。だが、日本で同じものが、同じ速さでやってくるとは、私にはどうしても思えない

年金ひとつ取っても、この国の制度の見直しは、いつも後手に回ってきた。財源の話になれば、議論は何年も止まる。

私の目には、配られる日を待っているあいだに、こちらの時間だけが静かに過ぎていく姿しか、浮かんでこない。

そもそも私は、配られるのを待つ、という姿勢そのものを、あまり信用していない。それは、年金を待つのと、同じ構図だからだ。国が、いつか、なんとかしてくれる。

その前提に自分の老後をまるごと預ける危うさを、私はこれまで何度も感じてきた。

待つ側に立ち続けるかぎり、人はいつも、配る側の都合に振り回される。私はそう見ている。

■ 私なら、富が集まる側に足をかける

ここで、発想をひっくり返してみたい。

富がAIと資本のところへ集まっていくのなら、答えは、案外に単純だと私は思う。

集まっていく、その側に、自分も小さく足をかけておく。それだけのことだ。

AIの進化で潤うのが株主だというのなら、その株主に、自分も少しだけなっておけばいい。

新NISAを使って、世界中の企業に薄く広く資本を置く。市場全体へ分散して投資するという行為は、もちろんAIの成長だけを丸ごと取り込めるわけではない。

だが、AIを含めた世界全体の伸びに、ほんの少しずつ、自分も乗っておくことにはなる。

ピケティが膨大なデータから示したのは、長い目で見れば、資本の生む富は労働で得る富よりも速く増えやすい、というマクロな傾向だった。

むろん個人差はある。だが大きな流れとして見れば、労働だけに自分の取り分を賭け続けるほど、年を追って分が悪くなりやすい。配られるのを待つのではなく、配られる元になる富を生む側の、ほんの一片を持っておく。

それが、誰にでも手が届く、地に足のついた備えのひとつだと、私は考えている。

もちろん、全財産を市場へ放り込め、という話ではない。中身の分からないものに飛び込むのは、投資ではなく賭博だ。

だが、月に数千円でいい。富が集まっていく場所に、自分の資本を少しずつ置いておくことなら、今日からでも始められる。

ベーシックインカムが本当に来るのかどうか、私には分からない。

だが、その富の流れの、どちら側に立つのか。配られるのをただ待ち続けるのか、それとも、富を生む側に、ほんの少しでも足を置いておくのか。それは、誰かの決定を待つことではなく、今の自分が選べることだ。

内容と免責について

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