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【シンクロのレシピ】第4章 「名前をつけると壊れるもの」

第4章テーマは、感情ラベリング(Affect Labeling)
感情ラベリングは【自分や他者の感情を言葉でラベリング(命名)することで、感情を整理・鎮静化できる心理的プロセス】というものです

しかし、心理学に沿いながらも「冷静に考えるとおかしい行動」になる場合もあります

それでは、第4章 「名前をつけると壊れるもの」をお楽しみ下さい

前回のあらすじ

大学のカフェは、午後の授業終わりで静かだった
窓の外では小雨が降っていて、カップの縁に反射する光が揺れている

私はミルクティーをかき混ぜながら、対面の玲蘭(れいら)が取り出したノートを眺めていた

「ねぇ夢凪(ゆな)、今日から“言語化ワーク”をやるわよ」
「……何それ?」
「自分の感情を言葉にするの。ほら、心理的整理って大事でしょ」
「ふうん。授業の課題?」
「違うわ、恋の混乱を防ぐための自主訓練よ」

“恋の混乱”という単語があまりにも堂々としていて、私は思わず紅茶を吹き出しそうになった
玲蘭は真顔だ

「まず、今日の感情を一言で書くの」
「……今ここで?」
「そう。書いたら交換しましょう。分析するの」

彼女はカフェの紙ナプキンを2枚引き抜いて、ペンを差し出してくる
私は素直に受け取って、少しだけ考えた

(今日の感情……)

机の上の紅茶の湯気がゆらゆら揺れて、玲蘭の髪の間を通って消えていく
その柔らかい横顔を見ていると、言葉なんて要らない気もする

でも彼女が“言葉にしなきゃ気が済まない”タイプなのは、もうよく分かっている

私は静かにペンを動かした

「……書けた?」
「うん」

「せーので出しましょう。せーのっ」

二枚の紙が、同時に裏返される

玲蘭の紙には、少し強い筆圧で“焦り”
私の紙には、柔らかく“安心”

「……」
「……」

一瞬、空気が止まる

そして玲蘭が、眉をひそめた

「どこが似てるのよ!」
「え?」
“焦り”“安心”なんて真逆じゃない!」
「うーん……でも、どっちも“誰かを想ってる時”の感情じゃない?」

そう言うと、玲蘭はなぜか耳まで赤くなった

「ち、違うわよ。私は、その……課題の期限とか
 日常的な焦りを……その……」
「“恋の混乱”を防ぐための訓練、でしょ?」
「そ、それは別の話!」

彼女の声が少し裏返る
周りの席の学生たちが振り返るほどだった
玲蘭は慌ててカップを持ち上げ、紅茶を一気に飲み干した

「……熱っ」
「だ、大丈夫?」
「だいじょ……ぶ。むしろ冷静になった」

嘘だ。完全に動揺している
でもその不器用さが、どうしようもなく愛しかった

私はそっと紙ナプキンを畳んで、自分のポケットにしまった

「なにしてるの、それ」
「お守り」
「……はぁ?」
「玲蘭の“焦り”が、なんか守ってくれそうで」

彼女は一瞬、目を見開いて、次に、頬を赤く染めながら机をトントンと叩いた

「も、もう……そういうの、真顔で言わないでよ」
「本気だけど」
「余計タチが悪いわ!」

彼女は両手で顔を覆い、小さな声でぶつぶつ言いながら身を縮めた

カップの中の紅茶が半分残っていて、その表面に小さな波紋が広がる
玲蘭の指先が机を軽く叩くたび、波紋がゆるやかに揺れていた

私はそれを見つめながら、自分の胸の奥にも似たような波があることに気づいた

玲蘭の“焦り”の中には、ちゃんと“私を大事に思う時間”がある
彼女はそれを恋だとはまだ思っていない
でも私は、それをもう“安心”として受け取っている

どちらかが一歩先を歩いても
どちらかが言葉で形にしても
きっとそのズレが、私たちの呼吸のテンポなのだと思う

玲蘭は最後に、ため息をついて言った

「……もう。あなたって本当に言葉がずるい」
「そうかな」
“安心”なんて、反則よ」

その言葉が、雨音に混じって静かに消えていった

私は、濡れた窓越しの光を見つめながら思った
――名前をつけるたびに、彼女の心は少し壊れて、少し近づいてくる

次の日、玲蘭から「今日も続きやるわよ」とメッセージが届いた
“言語化ワーク”、まだ続くらしい
私は講義のあと、昨日と同じカフェに向かった
外は晴れているのに、玲蘭のテンションはやけに張りつめている

「昨日の“安心”と“焦り”じゃ足りないの。もっと細かく分類するの」
「分類……?」
「たとえば、“焦り(Ⅰ)”は学業由来、“焦り(Ⅱ)”は対人由来……みたいに」
「……もう研究じゃん」
「真面目な実験よ!」

玲蘭はすでにノートを開き、見出しに「恋の感情分析・第2回」と書いていた
そこにはマーカーまで引かれている
私は思わず笑いそうになったけれど、彼女は真剣そのものだった

「夢凪、今日の感情を一言で書いて」
「また?」
「そう。また交換するの」

昨日と同じく紙ナプキンが二枚
私はペンを手に取り、少し考えてから書く

玲蘭は、勢いよくペンを走らせていた
文字が少し乱れている

「じゃあ同時に見せるわよ。せーの!」

私の紙には “穏やか”
玲蘭の紙には “混乱”

彼女は一瞬黙り、そして自分で書いた単語を見つめながら顔を赤くした

「……ま、間違えたの。これ、誤字よ」
「どこが?」
“混乱”じゃなくて、“婚乱”よ」
「それ、余計ややこしい」
「違うの! “婚”は偶然!」

カフェの奥からクスクス笑い声が聞こえて、玲蘭は耳まで真っ赤になった

「……も、もう。ほんとに静かにして」
「ごめん。でも、“婚乱”は天才的かも」
「天才じゃないっ!」

机をトントン叩く指先が、紅茶のスプーンを揺らす
小さな音が二人の沈黙を埋めていく

彼女は深呼吸をして、ペン先で文字をぐりぐり消した

「……もう一回やり直し」
「いいよ、無理に」
「だめ。これは儀式みたいなものなの」

彼女の目は真剣で、まるで“恋の観察者”が“被験者”になりかけているようだった

私は紅茶を飲みながら、その不器用な横顔を見つめた
たぶん、彼女は自分の“焦り”や“混乱”が、私に向かっているものだと気づいていない

だけど、気づかないままの彼女が、私は好きだった

玲蘭がペンを置く

「……書けた」
「今度は?」
「“静電気”」
「……感情にしては新しいね」
「あなたのせいで、触れるたびにビリッとするのよ」
「それは……僕も感じるかも」
「え?」
「なんか、玲蘭の近くって空気が明るい」

玲蘭は言葉を詰まらせ、カップを両手で持ち直す
指先が震えて、ティースプーンがカランと音を立てた

「……もう、分析にならないじゃない」
「じゃあ、今日のワークは成功?」
「失敗よ! 感情が分類不能!」

そう言いながら、彼女はノートを閉じて、頬を膨らませた
その顔があまりにも真剣で、思わず笑ってしまう

玲蘭はふてくされて窓の外を見る
ガラス越しに差し込む陽の光が、彼女の横顔をやわらかく照らした

「……ねぇ夢凪」
「うん?」
「名前をつけた瞬間に、なんか壊れる気がするのよ」
「壊れる?」
「そう。安心も焦りも、文字にしたら薄くなるでしょ
 でも言わなきゃ落ち着かないの」

その言葉は、まるで自分への言い訳みたいだった
私は静かに頷いた

「じゃあ、名前をつけずに覚えておこうか」
「どういう意味?」
「今、こうしてる感じ。言葉にしなくていいと思う」

玲蘭は少し考えて、それから小さく笑った

「……ほんとにずるい」
「どこが?」
「あなた、何も言わないで全部伝えるじゃない」

カップを持ち上げ、紅茶を一口飲む
彼女の頬の赤みは、照れでも、熱でも、恋でもあった

その曖昧さが、たまらなく綺麗だと思った

私は窓の外の光を眺めながら、心の中でひとつだけ名前をつけた

――“好き”

でも口には出さなかった
それを言葉にした瞬間、本当に壊れてしまいそうだったから

次章へ

↓最後に、大学生時代の夢凪のイメージ楽曲をお楽しみ下さい↓


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