【色彩に揺れる恋の軌跡】第5章 「届きすぎた言葉」
第5章テーマは、シグナル増幅バイアス(Signal Amplification Bias)
シグナル増幅バイアスは【自分の好意や意図が、相手に「十分伝わっている」と過信してしまう認知バイアス。実際には相手は気づいていないのに、「きっと伝わっているだろう」と思い込みやすい現象】というものです
しかし、心理学に沿いながらも「冷静に考えるとおかしい行動」になる場合もあります
それでは、第5章 「届きすぎた言葉」をお楽しみ下さい
前回のあらすじ
社会に出たばかりの頃の私は、毎日、紙コップのコーヒーを片手に「生きる」練習をしていた
昼はコンビニで働き、夜はアトリエで絵を描く。小さな生活の中に、まだ見ぬ「大人の正解」を探していた
パパは、その頃すでに大学で心理学を教えていた
“人の心の動きを数値化することが夢だった”なんて言うけれど、生活のリズムまでは数値化してくれない
メールの返信は一日遅れ、電話はたいてい出ない。それでも、時々ふと届く一文が、何よりも心に残る
その夜も、そうだった
私はアトリエで、筆を持ったまま固まっていた
キャンバスの上には、描きかけの花瓶
乾きかけの絵の具が、夜風の中でわずかに光っていた
パパは研究室から帰る途中、少し疲れた声で言った
「今日も、きれいだね」
それだけ
まるで、空の色でも観察するような口調
でも、私には――違って聞こえた
まるで、恋人に言うような優しさで
……いや、待って。これは報告? それとも、感想?
あの人の言葉は、どこまでがデータで、どこからが感情なの?
そんなことを考えながら、私は湯気の消えたカップを見つめていた
翌朝、私はその一言をスケッチブックに書き写した
「今日も、きれいだね」
その文字の下に、金色の絵の具を垂らした
まるで、言葉が光っているみたいに
勤務先のコンビニでは、レジの「ピッ」という音が一日中鳴り続けていた
けれど私の頭の中では、ずっとパパの声がリピートしていた
レシートを渡すたびに、「今日も、きれいだね」
おでんの蓋を開けるたびに、「今日も、きれいだね」
――もはや呪文。もしくは錯覚
家に帰ると、私は白い紙を並べて“再現実験”を始めた
彼の声の高さを思い出し、発音を真似して、響きを分析してみる
でも、何度繰り返しても、胸の奥がざわついた
そのざわめきこそ、もう答えだった
人は、聞きたい言葉を拡大して受け取る
ただの「観察」でも、心が勝手に「告白」に変換してしまう
私はそれを“誤解”だとわかっていた
でも――その誤解が、心を温めるのなら、少しくらい勘違いしてもいい気がした
夜、コンビニ帰りの道
街灯が金色に滲んで見えた
遠くの信号機が青に変わるのを待ちながら、私はスマホのメッセージ欄を開いた
未送信の文章がいくつも並んでいる
「ありがとう」
「おやすみ」
「きれいって言ったの、どういう意味?」
どれも、送れなかった
送ってしまえば、観察が終わってしまう気がして
その代わり、私はこっそりメモ帳にこう書いた
――“もしこの言葉が錯覚でも、私はその錯覚の中で生きたい”
風が頬を撫でた
それはまるで、あの人の声の余韻みたいに優しかった
冷静に考えれば、誰かの一言にここまで揺れるなんて、滑稽だ
けれど、滑稽の中にしか“真実”はない
そんな気がして、私はまた筆を握った
金色の線が、夜のキャンバスに伸びていく
あの人の言葉を、光の粒に変えながら――
それは、まだ「答え」に届かない恋の、最初で最後の“誤解”だった
最も核心に近い感情は――

その夜、私は決意した
いつまでも心の中でリピートしているだけでは、前に進めない
「今日も、きれいだね」――その一言を、ちゃんと確かめたかった
翌朝、鏡の前で何度も練習した
「えっと、その言葉、どういう意味……?」
「ねえ、きれいって、風景のこと?」
「……それとも、私?」
言葉にするたび、恥ずかしさで顔が熱くなった。まるで中学生の恋の復習
コンビニの休憩室でも、同僚に不思議そうな顔をされながら、私は口の形を練習していた
夜、パパの研究室へ向かう道は、金色の街灯が並んでいた
まるで答えへ続く実験ラインみたいに
ドアをノックすると、机の上には相変わらずのメモ用紙と観察ノートが積まれている
その上に、カップ麺の空容器。……生活感の欠片もない
「遅くまで、研究?」
私が尋ねると、パパはいつもの調子で答えた
「人の“誤解”を研究してる。興味深い現象だよ」
――はい、出ました。いつもの理屈スイッチ
私は深呼吸をして、真正面に立った
「……ねえ、こないだの“きれい”って、どういう意味?」
パパは少し考え込むように視線を宙に泳がせ、そして淡々と答えた
「観察対象が光に反射して、きれいだったから」
“観察対象”――私のことを言っているのに、なぜそんな冷静な単語で包むの
思わず私は笑ってしまった
呆れて、情けなくて、でも少し嬉しくて
パパは私の笑いを見て、首を傾げる
「なにが可笑しい?」
「だって、あなたってほんとに、ロマンチックの定義を間違えてる」
「ロマンチック? それはデータに含まれない要素だよ」
そう言って真顔でメモを取る彼に、私は思わず吹き出した
笑いながら、私は机の端に腰かけて言った
「ねえ、私、あなたと結婚したい」
室内の空気が、止まった
時計の針の音だけが、規則正しく響いていた
パパは眼鏡の位置を少し直し、ゆっくりと息を吐いた
「誤解、悪くないね」
その言葉に、胸の奥が熱くなった
意味がわかるようで、まったくわからない
でも、わからないままでいいと思った
パパはペンを置いて、いつもの無表情で続けた
「信号ってね、強く受け取るほど、心が動くんだ。たぶん、そうやって“愛”になるんだよ」
冷静に聞けば、相変わらず意味不明だ
でもその不器用な言葉が、私の世界の中心にすとんと落ちた
まるで、金色のインクが心に染み込むみたいに
そのあと、彼は照れ隠しのようにファイルを整え、私は泣きながら笑った
泣いてるのに、笑えてくるなんて、ほんとにおかしい
――恋って、そういうものなんだと思う
パパはずっと変だった
色で感情を測ったり、呼吸を合わせたり、ノートで気持ちを記録したり
普通の恋じゃない
でも、“普通じゃない”から、愛しくなったのだと思う
外に出ると、夜風が少しだけあたたかかった
街灯の光が金色に滲んで、まるで世界ごと微笑んでいるようだった
私は空を見上げて、そっと呟いた
「きれいだね」
――その言葉が、今度は私から届いた
光の粒が、白く溶けていく
あの日の黄色も、青も、紅も、すべてが混ざって、金色に変わる
それは、理屈では説明できない愛の“終着点”
そして、私たちの“研究”は、やっと完結した
以上で、【色彩に揺れる恋の軌跡】の物語はおしまいです
この物語に登場する恋愛心理学の正しい使い方を知りたい方
以下リンクにて確認できます
↓最後に、第5章のイメージ楽曲をお楽しみ下さい↓
