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【薔薇と蹄音の凱旋門】第5章 「再び凱旋門賞へ」

第5章テーマは、感情的ピーク同調(Affective Peak Synchrony)
感情的ピーク同調は【人は「強い感情を体験した瞬間」を共有すると、関係が深まるという心理現象】というものです

しかし、心理学に沿いながらも「冷静に考えるとおかしい行動」になる場合もあります

それでは、第5章 「再び凱旋門賞へ」をお楽しみ下さい

前回のあらすじ

ロンシャンの空は、深い群青に沈みかけていた
フロレゾンの馬房には、わずかな灯りと藁の匂いが漂う。あの日失った夢が、今ようやく手の届く場所にある
だが、それを前にして胸の奥は、不安と高鳴りで針のように揺れていた

蹄の音が小さく響く。フロレゾンは首を振り、わずかに鼻を鳴らす
その仕草に「まだいける」とでも告げられたようで、思わず口元が緩んだ

馬を前に笑う余裕など、かつての自分にはなかった。だが今は違う
――この馬と、この人となら

背後に気配を感じて振り向けば、綾乃が立っていた。昼間の華やかな姿ではなく、薄手のコートを羽織っただけの、どこか頼りなげな佇まい。それでも瞳だけは澄んでいて、真っ直ぐにフロレゾンを見つめていた

「颯真」

小さく呼ばれた名が、夜の静けさを震わせる
その声は震えているようで、しかし揺るぎない強さを含んでいた

「あなたと、この子となら――夢を超えられる」

まるで独り言のように放たれた言葉だった。けれど、その瞬間、胸の奥の不安も、焦燥も、すべてが熱へと変わっていくのを感じた

ただ、彼女の横顔を見ているだけなのに、鼓動がフロレゾンの荒い息づかいと重なり合っていく。まるで三つのリズムが一つになり、抗えぬ旋律を奏でているかのようだった

気づけば、手は無意識にフロレゾンのたてがみを掴んでいた
荒々しい毛並みに指を埋めると、その熱が掌から全身へと広がる。隣に立つ

綾乃が同じように馬の首筋へ手を伸ばす。二人の手が、そこでほんの一瞬だけ触れ合った

――息が詰まる
それは偶然のはずなのに、指先から走った熱が心臓を射抜いた

綾乃は何事もなかったかのように目を伏せたが、わずかに耳まで赤く染まっているのが見えた

沈黙の中で、フロレゾンが大きく鼻を鳴らす

「お前が一番落ち着いているな」

そう呟くと、綾乃が微かに笑った。普段は優雅で隙のない彼女が、そのときはまるで子どものように無邪気な笑みを浮かべていた

笑った次の瞬間、彼女は藁の山に腰を下ろした。まるで舞踏会のドレス姿ではなく、ただ夢を追いかけるひとりの女性として

その姿に、なぜだか心臓がまた跳ねる。おかしい、彼女の行動は時に理解を超える。だが、だからこそ抗えない

「……颯真、明日は頼みますね」

視線を向ければ、藁に背を預けて眠たげに瞬く彼女がいた
頼むと言うわりには、すでに半分夢の世界に落ちかけている
おかしな人だ。だが、その言葉のひとつひとつが、不思議と重みを持って胸に刻まれていく

フロレゾンが小さく足踏みする。その音に呼応するように、胸の奥でまたひとつ決意が固まる
彼女の言葉に、自分の鼓動に、この馬の力強さに――すべてを重ねて、ただ前を見据える

この瞬間、もう迷いはなかった

夜は深まっていた。ロンシャンの馬房は静まり返り、遠くの街の灯りだけが淡く瞬いている

藁の香りと、フロレゾンの温かな吐息に包まれながら、綾乃はじっと馬の横に立っていた。眠るどころか、まるでこの瞬間を刻みつけようとするかのように、何度も馬の鬣を撫でている

「……ねえ、颯真」

不意に呼ばれて振り向くと、彼女は真顔でこちらを見ていた

「明日の朝、もし勝てなかったら……一緒にこの馬房を掃除してくださいます?」

唐突な言葉に、思わず息を呑んだ
凱旋門賞の前夜に、なぜ掃除の約束なのか。だが彼女は至って真剣だ

瞳の奥に宿る光は、まるで大舞台の行方よりも、その後の日常を確かめたいと言っているようだった

「……掃除くらいなら、いくらでも」

そう答えると、彼女はようやく微笑んだ。まるで、それが一番の安心材料だとでも言うように

の人は、時に突拍子もないことを口にする。けれど、その不器用な真剣さが胸を締めつけ、同時に少しだけ笑わせる

フロレゾンが大きく嘶いた。まるで二人の会話に割って入るかのように

綾乃はその音に振り向き、そっと馬の額に自分の額を寄せた

「あなたは、きっと明日を越えてくれるわ」

囁く声が震えていた。強さと、かすかな恐れが入り混じった声。その姿を見ているだけで、胸の奥に熱が灯っていく

気づけば、自分もフロレゾンの首筋に手を置いていた。綾乃と並んで、ひとつの温もりを共有するように

指先がかすかに彼女の手に触れる。その瞬間、何も言わなくても伝わるものがあった。互いの鼓動が、馬の力強い息づかいに重なり、三つの音が同調していく

「颯真」

綾乃が小さく名を呼んだ

「……たとえ夢が届かなくても、私にはもう……あなたとフロレゾンがいる。それだけで十分です」

その言葉に、胸の奥で何かが弾けた
夢のために走り続けてきた。失って、取り戻して、また夢に挑む
だが今、気づく。夢を共にできる相手がいることこそが、何よりの奇跡なのだと

夜が白み始めていた
外から差し込む朝の光に、フロレゾンの栗毛が金色に輝く

綾乃はまだ藁の上に座り込んだまま、目を閉じていた。眠っているのか、祈っているのか、その境は分からない。ただ、その横顔には静かな笑みが浮かんでいた

「……行こう、フロレゾン」

小さく呟くと、馬は力強く鼻を鳴らした。まるで答えるように

この瞬間、もう迷いはなかった
勝っても負けても――夢を共にした記憶は、決して消えることはない

そして、凱旋門賞という舞台へ
三つの鼓動がひとつになり、揺るぎない絆として朝の光に溶けていった

以上で、【薔薇と蹄音の凱旋門】の物語はおしまいです
この物語に登場する恋愛心理学の正しい使い方を知りたい方
以下リンクにて確認できます


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