第2章『食路』第3節:焼き上がるまでの距離ー アビスノア ー【ケンタウルスストーリーイベント】
前回のあらすじ
ISORA CAFEでネクシアードと別れたあと……
私は少し離れた場所に目を留めた
フードを深く被り、背筋は伸びている
周囲を警戒する様子も、所在なさもない。ただ、そこに“いる”
「すみません」
声をかけても、反応はない
私は立ったまま、待つ
二拍、三拍。時間だけが進む
やがて、彼女は今気づいたかのように顔を上げた
「……あ、こんにちは」
声は低く、柔らかい
視線は私を捉えているが、焦点は少し内側に寄っている
相手を見るというより、流れてきた時間をそのまま受け取っている目だった
そして……迷子さんが、いつもの距離感で現れる
「今回のゴールは、住宅街の奥にあるパン屋さんだよ」
小さなパンの家 bloom
「小さなパンの家」という名の通り、春日市塚原台の住宅街に佇む小規模ベーカリー店よ
店主のこだわりで、国産小麦や低温長時間発酵を用いた手作りパンが並んでいるわ
明太フランスや生ドーナツ、惣菜パンなど種類豊富で、軽い食感のパンが好評よ
こぢんまりした店内とアットホームな接客も人気の理由
営業時間は売り切れ次第終了のため、早めの来訪がオススメよ
アビスノアは店の名前を聞き、ほんの少しだけ口元を緩めた
「出来上がるまで、何もできない場所ですね」
残念そうでも、楽しみでもない
事実の確認だった
「走っても、意味は変わりませんね」
私はその言い方に、少しだけ引っかかる
走る意味がない、と言われたわけではない
ただ、結果に直結しない、というだけだ

コースは長い
最初こそ高低差なく走りやすいが、目的地に近づくにつれ登りがきつくなる
「……どうします?」
私が聞くと、アビスノアはすぐには答えない
「走るなら、走ります」
数拍置いて、そう言った
私は脚を揃え、立ち位置を整える
いつもの癖で、呼吸を確認する
アビスノアは立ち上がらない
まだ、座ったままだ
「先に行きますよ?」
私が言うと、彼女は首を横に振る
「一緒に、始めた方が……待てるので」
意味は、やっぱり分からない
けれど、その言葉に、嘘はなかった
私はその場で、走り出さないことを選ぶ
焼き上がるまでの距離は、まだ、始まっていない
後編を第2章『食路』のレースBGMと共にお楽しみ下さい
走り出してから、会話はほとんどなかった
蹄の音だけが、一定の間隔で地面に落ちていく
呼吸は揃っているのに、言葉だけが生まれない
私は何度か口を開きかけ、そのたびに閉じた
沈黙が長くなると、なぜかこちらの方が落ち着かなくなる
「……何か、話した方がいいですか?」
思い切ってそう言うと、アビスノアはすぐには答えない
少し考えてから、彼女は言った
「話したいなら……どうぞ」
どちらでもいい、という言い方だった
選択肢だけを置いて、決定は委ねてくる
私はその沈黙が、責められていないことに戸惑う
速さも、反応も、確認も、ここでは求められていない
コースは緩やかな起伏が続く
上りで呼吸が深くなり、下りで脚が勝手に前へ出る
私は無意識に、アビスノアの歩幅に合わせていた
―合わせている、というより―
待っている、に近い
走っているのに、急いでいない
この感覚が、少しおかしい
それでも脚は止まらない
止まらないまま、時間だけが流れていく
やがて住宅街の奥、目的の店が見えた
到着したとき、焼き上がり前だった
列は短いが、誰も急いでいない
アビスノアは当然のように最後尾に立つ
「すぐじゃなくて、いいですよね」
私が言うと、彼女は頷いた
「はい。待てる前提で来てますから」
それは宣言でも、慰めでもなかった
ただの前提条件の確認だった
時間が流れる
何も起きない
私はこの“何も起きない”状態に、最初だけ不安を覚える
話さなくていいのか?
待っているだけでいいのか?
けれど、誰にも急かされない
評価も、指示も、発生しない
そのうち、不安は……形を失った
焼き上がりを知らせる音がして、列が少し動く
パンを受け取り、店の外で袋を覗き込む
温かさが、手のひらに残る
焼けた匂いが、時間そのものとして立ち上る
「待った分、ちゃんと辿り着いた感じがしますね」
私がそう言うと、アビスノアは少しだけ首を傾けた
「辿り着いた、というより……時間が追いついた、かも」
その言葉が、静かに胸に残る
走っても
話さなくても
急がなくても
ゴールは、必ずしも急ぐものではなかった
私はパンを抱え直し、もう一度だけ、来た道を振り返る
そこには何もない
それでいい、と初めて思えた
次節へ
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