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1年で4回恋をした男 #note文芸部大賞2025

迷言です
この作品は、#note文芸部大賞2025 参加作品です

詳細は下記リンクをご確認下さい

それでは、参加作品『1年で4回恋をした男』をお楽しみください

序章:春、教育係の彼女に出会う

四月の朝は、思っていたより静かだった
株式会社アークレイ・ソリューションズのエントランスを抜けたとき、胸の奥にあったはずの緊張は、少し形を失っていた

配属初日
配属も決まったばかりで、何ができるかは分からない
ただ、遅れないように、間違えないように、それだけを考えていた

席に案内されてからしばらくして、教育係として紹介された
四季宮 紗季(しきみや さき)先輩
彼女は声は穏やかで、説明は丁寧だった
こちらが言葉に詰まる前に、次に必要なことを差し出してくるような話し方をしていた

書類の置き方や社内システムの操作を一つずつ教えながら、彼女は何度もこちらの様子を確かめていた気がする。急かすことも、評価することもない
ただ、進みやすい速度に合わせてくれているようだった

「分からないことは、春のうちに全部聞いてね
 朝霧 恒一(あさぎり こういち)君」

そう言われたとき
理由ははっきりしなかったが、この人についていけば大丈夫かもしれない
と思った。少なくとも、不安を口に出さなくても許される空気があった

私はその時点では、彼女を恋愛の対象として考えてはいなかった
ただの先輩で、ただの教育係だと認識していたと思う
それでも、一日の終わりに席を立つとき、同じ背中をもう一度探している自分に気づいた

なぜそうしたのかは、この時の自分はまだ分かっていなかった

第1章:安心をくれる人に恋をした

配属されてから、仕事は少しずつ増えていった。私の机には、覚えるべき手順と、慣れない名前のフォルダが積み上がっていく
分からないことは春のうちに聞いていい、と四季宮先輩は言っていた

だから、聞いた。聞いたつもりだった。聞き方が足りなかったのかもしれない、とも思った

ミスは、画面の奥で静かに起きた。送るはずのない資料を、送った
送った瞬間は、何も変わらないように見えた
送信完了の表示だけが出て、時間はそのまま進んだ

数分後、会議室のドアが開く音がして、誰かの声の温度が下がったのが分かった

席に戻った先輩の表情は穏やかだった。穏やかすぎて、逆に何かが起きたのだと感じた。画面を見せると、彼女は一度だけ目を細めた。怒っているようには見えなかった。ただ、判断が早かった

「大丈夫。私が先に話すね」

その言い方が、いつも通りだったのが不思議だった
私は「すみません」と言う前に、声が出なくなった

自分が何を壊したのか、まだ正確には分かっていないのに、空気だけは悪くなっていくのが分かった

先輩はチームの中心に行って、淡々と状況を説明した
私の名前は出さなかった気がする。出したとしても、責める形にはしなかった

誰かが「確認はどうなってた」と言って、別の誰かが黙って、そこに沈黙が生まれた。沈黙が重いほど、自分の席が遠くなる気がした

夕方になっても、空気は戻らなかった
パソコンのファンの音だけが目立つ
帰る人が増えて、椅子が引かれる音が少なくなっていく。私は席を立てなかった。立つと、床に自分のミスが落ちる気がした
拾う方法が分からないまま、落ちているものを踏みたくなかった

先輩は「今日は残ろう」と言った
断り方が分からなかった。というより、断る理由を探す余裕がなかった
彼女は自分の端末と、自分の画面を行き来して、必要なメールを作り直し
関係者に連絡を入れ、手順を組み替えていった

声は小さく、言葉は短かった

「ここ、私がやる」
「次、これ」
「深呼吸して」

そのどれもが命令には聞こえなかった

夜になって、窓の外が黒くなったころ、ようやく空気が少し軽くなった
軽くなった理由は、完全に解決したからではないと思う
先輩がまだ隣にいるから、そう感じただけかもしれない

帰り道、ビルの入口で風が冷たかった
先輩は歩幅を合わせてくれた。新人が遅れると迷う、とでも判断したのだろうか?
分からないが、彼女はいつもそうだった

「最初は誰でも失敗するよ。私もそうだった」

慰めの言葉としては、よくあるのかもしれない
けれど私には、その「私も」の部分が妙に残った

彼女の失敗が想像できなかった。想像できないのに、言い切る声には迷いがなかった。見下ろすでもなく、同じ高さで言ってくる感じがした

私はその瞬間、自分の中で変なことを決めた
今の感情に名前をつけるより先に、行動を決めた

明日から、先輩の言葉を一言も漏らさないようにしよう、と思った
忘れないように、帰ったら全部メモに起こそうとも思った
仕事のためだ、と言い訳できる形にしておけば、やりすぎではない気がした

それでも、理由は一つしかないように感じた

この人のそばにいたい
そう思う強さが、自分の呼吸の速度を少しだけ変えた

春の夜は、まだ冷たかった。けれど足元だけは、さっきより確かだった

第2章:距離が近すぎる先輩に、また恋をした

夏に入ってから、オフィスの空気は重くなった
繁忙期という言葉は聞いていたが、時間の感覚が削れていく感じまでは想像していなかった

昼と夜の境目が曖昧になり、私は画面の前に座っている時間の長さを、正確に把握できなくなっていた

四季宮先輩は忙しかった
けれど、春の頃とは動き方が違っていたと思う
電話を切ると、こちらを見て手招きをする。理由は言わない

近づくと、画面を覗き込む距離が近い。近すぎる気もしたが、指摘するほどの確信はなかった

ある日、私は席を立つタイミングを逃した。立ち上がる理由を考えているうちに、作業が増えていった。キーボードを打つ指が遅くなっていることに気づいたとき、先輩が私の腕を掴んだ

「休憩」

それだけ言って、引き返す間を与えなかった
エレベーターに乗せられ、コンビニまで連れて行かれた

私は状況を理解する前に、冷たい飲み物を手渡されていた。先輩は自分の分も買って、並んで立った。距離が近い。少し前にはなかった近さだった

そのとき、私は少し驚いたと思う
先輩は、こんなふうに強引だっただろうか?と考えた

オフィスに戻ってからも、先輩は離れなかった
私の席の隣に椅子を持ってきて座る。画面を一緒に見る
質問をする前に答えが返ってくる。予定表に、私の作業が先輩の手で書き足されているのを見た気がした

「今日は私が面倒見るから」

言い切りだった。確認はなかった
私は頷いた。断る理由を探すより、作業を続ける方が簡単だった
先輩が決めた順番に従うと、仕事は進んだ

夜が深くなり、フロアに人が減っていく。コピー機の音だけが響く時間帯になった。先輩は私の進捗を見て、後回しにする項目を指で示した
指が近い。触れてはいないが、意識しないのは難しかった

「それは今じゃない」

少し前の先輩は、こんな言い方をしなかった気がする
優しく待つ人だったはずだと思った
けれど目の前の先輩は、迷わず判断して、私を引っ張っていく
その違いに、私は戸惑った。戸惑いながら、拒む気持ちは浮かばなかった

深夜、立ち上がった瞬間に足が止まった
理由は分からない
先輩は何も言わず、私の肩に手を置いた。力は入っていなかった

「一人で抱えないで。私がいるでしょ」

その言葉を聞いたとき、私はまた驚いた。春の時の先輩と、同じ声だった
けれど距離の取り方も、関わり方も、まるで違っていた
それでも、同じ人だと分かっている自分がいた

私はその場で、少し変な判断をした
これからは、自分の残業時間と体調を、先輩に先に伝えようと思った
管理してもらった方が効率がいい、と考えれば自然な気がした

コピーが終わり、席に戻る背中を追いながら、私は理解した

また、恋をしたのかもしれない
ー距離が近すぎるその人にー

第3章:冷たい指摘に、それでも惹かれた

夏が終わってから、仕事の進みが鈍くなった
量はこなしているはずなのに、結果が並ばない
自分でも、同じところで引っかかっている気がしていた
評価面談が近づいていると聞いたとき、胸の奥で小さく音がした

四季宮先輩は、以前より席を離して座っていた。声をかける前に、こちらを見ることも少なくなった。忙しいのだと思った
仕事優先なのだとも思った
理由を並べることはできたが、距離ができた事実は変わらなかった

「最近、止まってる」

資料を見せたとき、先輩はそう言った

言い切りだった
言葉は短く、表情も変わらない
修正点が列挙され
改善策が示された感想はなく、褒める気配もなかった

私は頷いた
否定も反論もしなかった
言われたことは正しいと思った

正しいと思ったから、メモを取った
帰ってからも同じ資料を開き、先輩の言葉をそのまま写した
写しながら、字を揃えた。揃えると、考えが整理される気がした

それから、先輩に質問をしなくなった
しなくなったというより、できなくなった
距離がある。距離があるなら、自分で埋めるしかないと思った
そう思うのは自然だと思った

業務後、残ることが増えた
残る理由を作るのが面倒で、最初から残った
先輩がいる時間帯を避けるように、少し遅らせた

冷静に考えると効率はよくないが、集中できる気がした
机の上を必要以上に整え、資料の順番を何度も入れ替えた
順番が決まると、気持ちが落ち着いた

評価面談の前日、私は一つの案件を任された
小さなものだったが、判断が必要だった
迷った。先輩に聞けば早いと思った。けれど、聞かなかった
聞かない方がいいと感じた。理由は言葉にできなかった

結果は、想定より良かった。修正は入ったが、方向は合っていた
先輩に報告すると、画面を一度だけ見て、小さく頷いた

「……ちゃんと、成長してる」

それだけだった。声は低く、温度も変わらない。けれど、その一言で、胸の奥の音が止まった気がした
褒められたとは思わなかった。ただ、見られていたのだと感じた

私はその場で、少し変な行動を取った
次の課題を、先輩に言われる前に三つ書き出した
期限と手順も付けた。提出した。評価のためだと説明すれば筋は通ると思った。先輩は何も言わず、受け取った

距離はそのままだった。近づいた感じもしなかった
けれど、冷たさの中に一定の向きがあることは分かった
押し返されているのではない。前に出されているのだと理解した

帰り道、風が冷たかった。私は歩幅を少し速めた
追いつく相手はいなかったが、進む方向ははっきりしていた

厳しさも、先輩なりの優しさなのかもしれない
そう思ったとき、私はまた惹かれていた

第4章:静かな人になった彼女を、好きになった

冬に入ってから、四季宮先輩は静かだった
話さなくなった、というより、必要なことしか言わなくなった
連絡は要点だけで、余白がない。雑談はなく、確認は短い
仕事と、それ以外がはっきり分かれていた

人事異動の噂を聞いたのは、コピー機の前だった
教育係が外れるかもしれない、という言い方だった

誰が言い出したのかは分からない
けれど、その日から、先輩の距離は一定に保たれたままだった
近づくことも、遠ざかることもない
一定のまま、時間だけが進んでいく

私は、先輩に質問をしなくなった
聞かなくても分かることを、わざわざ聞くのは違うと思った
代わりに、報告を丁寧にするようにした

時間
結果
次の手
項目を揃え、順番を崩さない

冷静に考えると、そこまで整える必要はない
けれど、整っていると、先輩の表情が変わらないことが確認できた

残業に誘われることもない
帰り道が重なることもない
昼食は別
偶然同じ時間になっても、用件が終わると解散だった

別れを前提にしているような態度だと感じたが
確かめる言葉は出てこなかった

私は、少しおかしな行動を取るようになった
先輩が席を立つ時間を記録した。目的は業務の調整だ、と自分に説明した

先輩がいない時間帯に、確認が要らない作業を進める
先輩が戻る前に、報告書を仕上げる。合理的だと思った
結果、先輩と顔を合わせる時間は短くなった
短くなったが、同じフロアにいるという事実だけは、守られた

異動の話は、具体性を帯びてきた
先輩は何も言わない。私は聞かない。確認しないことが、最も静かな対応だと思った
年末が近づき、窓の外が早く暗くなる。フロアの照明が白く感じられた

ある日、先輩から「少し話せる?」と言われた
会議室は使わず、席の横だった。立ったまま、距離を保ったまま

「今後の体制が変わるかもしれません」

それだけだった
予定でも、決定でもない。説明もなかった

言葉が途切れた
先輩は、続けなかった。しかし、私はそのままにできなかった
理由は考えなかった。考える前に、声が出た

「先輩がどんな人でも、俺は好きです」

言ってから、少し静かになった
先輩は言葉に詰まった
詰まるところを、初めて見たが表情は変わらない
けれど、返答が来なかった。それだけで、十分だった

私は、その場を離れなかった
詰まった時間が戻るのを待った。理由はない
ただ、側にいるという選択をした

冷静に考えると、仕事中に言うことではない
けれど、今を逃すと、次はない気がした

先輩は、何も言わなかった
それでも、距離は変わず、一定のままだった
変わらないことが、否定ではないと感じた

冬は、音が少ない
その静けさの中で、私はまた、先輩を好きになっていた

最終章:一年で四回、同じ人を好きになった

年度末は、思っていたよりも静かだった
フロアの配置が変わる準備が進み、箱が増え、席の名札が外されていく
教育係としての関係が終わる日だと、書類上ではそうなっていた
先輩はいつも通りで、必要な引き継ぎだけを淡々と済ませていた

帰り際、私は先輩に声をかけた
場所はいつもの通路で、人の流れが切れるのを待った
理由は考えなかった。考えると、先に進まない気がした

「言いたいことがあります」

先輩は立ち止まり、こちらを見た。表情は変わらない
私は順番を決めていた。間違えないように

「優しい春の先輩も」
「強引な夏の先輩も」
「厳しい秋の先輩も」
「静かな冬の先輩も」

言い切ってから、少し間を置いた。呼吸を整える必要があった

「全部、好きです」

先輩は少し笑った。ほんの少しだった
次に、少し照れたようにも見えた
どちらも、教育係としての顔ではなかったと思う

「じゃあ、……恋人として付き合ってみる?」

言葉は軽く、声は静かだった
ただ、続いている事実が、すでにあった

そしてこれからは、季節が変わっても、隣にいるつもりだ

1年で4回恋をした男ー完ー

※この小説はnote文芸部様の企画に参加させて頂きました
#note文芸部大賞2025



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