第1章『始動』ー第5節:安定という賭け ― クロミツ―【ケンタウルスストーリーイベント】
前回のあらすじ
JR春日駅の構内で、私は珍しく立ち止まっていた
走り終えた後の余熱が、まだ脚に残っている
息は整っているのに、体だけが「もう一度」を要求してくる
そんな状態だった
「……走りすぎですね、あなた」
背後から、落ち着いた声がした
振り返ると、和装姿のケンタウルスが立っている
布の擦れる音すら控えめで、存在感だけが静かに重い
「クロミツと申します。今、少し困っていまして」
彼女はそう言うと、駅の外、文化センターの方角を顎で示した
春日市ふれあい文化センター
そこで使われているボイラーに、どうにも不穏な兆候が出ているらしい
異音、圧の揺れ、そして再起動の遅延
どれも「今すぐ止まる」わけではないが、「放っておくと危ない」類の不具合だという
「人手が足りません。手伝って頂けると助かります」
クロミツの視線は、私の脚に向けられていた
試すようで、計測するようでもある
私は一拍置いた
これまでの併走を思い返す
競うために走った
知るために走った
確かに、楽しかった
「……こうゆう事は初めてでお役に立つか分かりませんが」
そう前置きして、私は言った
「私で協力できる事なら手伝います。但し、目的地まで併走してくれませんか?」
クロミツは、わずかに目を細めた
それが肯定なのだと理解するまで、また一拍かかった
そこへ、いつものように突然のタイミングで声が割り込む
「ちょうどいいじゃない」
迷子さんが、駅の柱にもたれていた
まるで最初からそこにいたかのような顔で
「今回のルートは、JR春日駅から文化センターまで
距離はあるけど、勾配は素直
……ただし、最後は少し登るよ」

迷子さんは、淡々と説明を続ける
「ゴールは春日市ふれあい文化センター
クロミツの“仕事場”だね」
クロミツは一度だけ頷いた
「急ぎましょう」
私は前脚に力を込める
走る理由が、また一つ増えた気がした
安定のために、走る
その発想自体が、少しおかしい
けれど――
不思議と、悪くなかった
後編を第1章『始動』のレースBGMと共にお楽しみ下さい
合図は不要だった
クロミツが一歩踏み出した瞬間、私は反射的に追っていた
彼女は無駄な助走を一切挟まず、一定の出力で加速する
脚運びは静かで、しかし狂いがない
まるで計測機器がそのまま走っているようだった
私はそれに並ぶため、最短距離を選ぶ
迷っている暇がないからだ
「揺れが来ます」
クロミツが前を向いたまま言う
直後、路面の微妙な傾きが変わった
私は反射で脚の置き方を調整するが
クロミツは最初からそれを織り込んでいたように、速度を落とさない
――減速しないために、無理をしない
その発想が、妙に腹立たしいほど合理的だった
私は一段ギアを上げる
脚に負荷がかかる。だが、崩れない
これまでの併走で、身体が「限界」を覚えていた
文化センターが見え始めた頃、最後の上りが現れる
クロミツはそこで初めて、わずかに速度を落とした
「ここで無茶をすると、後が残ります」
そう言いながら、彼女はあえて回り道を選んだ
距離は伸びる。時間もかかる
それでも、脚への負担は最小限
私は―真逆を選んだ―
最短の直登
負荷最大
明らかに無茶
クロミツが初めて、こちらを見る
「……賭けですね」
「はい」
それだけ答えて、私は踏み込む
安定のために、あえて不安定を踏む
冷静に考えれば意味不明だが、身体は納得していた
頂上で、二人はほぼ同時に到達した
息は荒い
文化センターの設備室に駆け込むと、クロミツは即座にボイラーに取り付く
耳を当て、圧を測り、迷いなくバルブを調整する
数分後、異音は消えた
「……間に合いました」
彼女は静かに言った
それから、私を見る
「安定を得るには、賭け続けるしかありません
止まった瞬間、劣化は始まりますから」
私はその言葉を、否定しなかった
走ることを選んだ時点で、私はもう賭けている
安定した未来を得るために、今日も無茶をする
文化センターの外に出ると、夕方の風が吹いた
私は脚を伸ばしながら、静かに息を整える
―この選択を、やめる理由は、もう無い―
そう思えたこと自体が、今回の収穫だった
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