筋を通すとは、結局「まごころの公」の話だと思う

最近、つくづく思います。 「まごころ」という言葉ほど、誤解されているものはない、と。

優しくすることでも、いい人ぶることでも、決してない。 そんな上っ面の社交辞令ではなく。 まごころというのは、「筋を通す」ことなのではないでしょうか。



■ 筋を通す=「まごころの公」を守り抜くこと


私どもの「快然 Kaizen WellDarts」では、「まごころの公(おおやけ)」という考え方を大切にしています。 それは、自分の個人的な感情や、その場の雰囲気を優先するのではなく、“場の誠実さ”、もっと言えば**“関係性の真ん中”**を守る力のことです。

たとえば。 ダーツでミスをした時、ちゃんと一度だけ**「ごめん」**と誠意を込めて謝る。 しかし、それ以上の理不尽や、いつまでも続く陰湿な空気は、きっぱりと受け入れない

この、優しすぎず、強がりすぎもしない、最高のバランスを取るのが「まごころの公」です。 その真ん中を、まっすぐ貫くのが「筋」なのです。



■ 不器用な人ほど、実は一番まごころ深い


あの人たちを見れば、よく分かります。 長瀬智也さんも、ケンドーコバヤシさんも、くっきー!さんも。

みなさん、テレビでは「悪役」や「アウトロー」に見えるかもしれません。 しかし、彼らはみな**“不器用な誠実さ”**を、骨の髄まで持っています。

  • 長瀬智也さんが、何百万もするヴィンテージバイクやギターに没頭するのは、流行に媚びず、「自分の決めた世界」のルールと哲学を徹底的に守り抜くからです。

  • ケンコバさんが、どんなに破天荒な下ネタを言っても、どこか品があるのは、彼の言葉の奥に**「仲間や場へのリスペクト」**という誠意が透けて見えるからです。

媚びない。飾らない。 しかし、仲間や、自分の決めたルールは絶対に裏切らない

それは彼らが、理屈ではなく、体で「まごころの公」を知っているからです。 「理屈より空気」「正義より誠意」。 こうした、日本人が古来持つ感性の、最も純度の高い延長線上に、「快然」の哲学は存在しています。



■ 「笑い」はまごころの公の試金石


ダーツの現場でも、笑いの現場でも、結局は同じです。 人を笑わせることはできても、 人を**“笑いもの”**にしてはいけない。

そこに、「まごころの公」が問われます。 くっきー!さんのあの笑い。常識を超越したカオスです。 なのに、なぜか誰も傷つかない、愛のある笑いになる。 それは、彼の破天荒な表現の内側に「まごころの公」がしっかりと通っているからです。



■ まごころの公とは、「お天道様が見ている」という感覚


誰も見ていない場所でも、ちゃんと自分に恥じない投げ方をする。 ダーツが当たらなくても、ボードに向かって正対する姿勢を崩さない。

それが、「快然 Kaizen WellDarts」の言う「まごころの公」であり、日本人が昔から大切にしてきた**“お天道様(おてんとうさま)感覚”**なのです。

  • 長瀬さんが何時間もかけて、ピカピカにバイクを磨き上げるように。

  • ケンコバさんが下ネタを単なるゲスさではなく、一つの哲学に昇華させるように。

  • くっきー!さんがカオスな表現の奥に、人間への深い愛を隠すように。

みなさん、それぞれの形で、「誰が見ていなくても、俺の美学は曲げない」*というまごころの公を生きているのです。



■ 「誠実な悪役」の生き方


だから、私はこう思うのです。 **「いい人」でいる必要は、まったくありません。 けれど、「誠実な悪役」**でありたい。

それが、“まごころの公”を守る生き方です。 誰かの機嫌や、その場の空気に引っ張られず、 自分の中のまごころを軸にして、 ときに空気を整え直す

それこそが、「快然 Kaizen WellDarts」で私が大切にしている「遊びの修行」なのです。



■ 結び:笑いながら、筋を通して生きる


人間、過ちを犯します。怒ります。落ち込むことだってあります。 でも、そんな時でも、笑って筋を通して、もう一度まごころを込める

それができた時、 ダーツの一投も、人生の一歩も、 すべて**快然(かいぜん)**となるのです。


「筋を通すとは、結局『まごころの公』の話だと思う。」

その言葉を、今日も心のど真ん中に置いて、私はこのバレルを投げます。

(片山達/快然 Kaizen WellDarts)


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