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03.反表象主義宣言…ホムンクルスを退治せよ――なぜ人間は「脳の中の小人」に支配されるのか

1.反表象主義宣言

私はここに、はっきりと「反表象主義」を宣言したいと思う。先に言っておく。表象――いわゆる脳内表象など、ない。これが反表象主義の出発点である。

ここでいう表象とは何か。それは、頭の中に小さなスクリーンがあり、そこに世界の像が映り、その映像をこちら側の誰かが見ている――そういう状況のことだ。だが、そんな話はもう終わりにしなければならない。

表象とは、ふつう、人が頭の中に思い浮かべる映像、記憶の像、想像のイメージ、内的な言葉、脳内で再生される世界のコピーのことを指している。近代以降の人間は、まずそれがあり、それを通して世界を知っているのだと、ほとんど無意識のうちに思い込んできた。

だが私は、ここに根本的な誤りがあると考える。人間は、脳内の映像を見て生きているのではない。まず前に現実があり、出来事があり、接触があり、そこに巻き込まれながら生きているのである。

だからこそ私は、あえて乱暴に言う。表象などない――と。この一言から、すべてを始めたい。


脳内スクリーンと、それを見ている小人――ホムンクルス的知覚の原型。

2.表象とホムンクルスは必ずセットである

なぜ私はここまで強く表象を退けようとするのか。それは、表象を立てた瞬間、必ずホムンクルスが必要になるからである。

頭の中に世界の像がある、と言った瞬間、その像を見ている者が現れる。脳内に映像が映っている、と言った瞬間、その映像を読んでいる者が出現する。内部にモデルがある、と言った瞬間、そのモデルを理解し、操作し、判断している者が必要になる。

つまり表象とは、それ単独では成立しない概念なのだ。表象を言い出した瞬間、そこには必ず「見ている私」「考えている私」「操作している私」が忍び込む。これがホムンクルス――脳内に住まう小人――である。

だから問題は、表象だけではない。表象主義の本当の罪は、脳内表象を立てることによって、脳の中に小さな主体まで密輸入してしまうところにある。表象とホムンクルスは、別々の問題ではない。最初から同じ一つの病なのである。

3.なぜホムンクルスを退治しなければならないのか

ホムンクルスが危険なのは、こいつが単に気に食わないからではない。はっきり言えば、論理として破綻しているからである。

頭の中に像があり、それを見ている者がいる、と言う。だが、その「見ている者」を見ている、あるいは認識しているものは誰なのか――という話になる。すると今度は、その内側にもう一人、見ている者が必要になる。

さらにその者を見ている者が必要になる。こうして話は、どこまでも後ろへ退いていく。いわゆる無限後退だ。

つまりホムンクルスとは、最初から無限後退を呼び込む禁じ手なのである。こんなものを認めた瞬間、知覚論も意識論も、自我論も、千日手に陥るしかない。

しかもこの病理は、単なる思いつきの珍説などではない。近代哲学そのものの深部に埋め込まれている。その原型を与えたのが、デカルトである。いうまでもなく、「我思う、ゆえに我あり」という、あのコギトだ。

だがこの定式は、一見すると自己の確実性を打ち立てているように見えて、じつは奇妙な分裂を含んでいる。

思うことが起きている、そのことだけならまだよい。だがそこにただちに「思っている我」を立てた瞬間、話はおかしくなる。

……と思う我あり、……と思う我あり、……と思う我あり……と、どこまでも再帰し、どこまでも後ろへ退いていくからである。

コギトは近代的自己の出生届であると同時に、近代的ホムンクルスの出生届でもあった。

後の哲学者たちは、この構図の異様さを見抜いていた。

デネットはこれを「カルテシアン劇場」と呼び、脳のどこかに特権的な舞台があり、そこへ知覚内容が集められ、最後にそれを“誰か”が見ているという図式を批判した。

ベルクソンもまた、知覚を脳内上映会のように捉える発想を退け、脳は表象を映し出す劇場ではなく、行動のための選別と切断の器官だと見ていた。

要するに、ホムンクルス問題とは、私が一人で騒いでいる奇矯な論点ではない。まともに考えれば、誰が見てもおかしいのである。だからこそ、これは退治されなければならない。

4.ホムンクルスは文明の病巣である

このホムンクルスは、単なる哲学上の作り話ではない。こいつは、人間文明の病巣そのものだ。なぜなら、ホムンクルスを立てた瞬間、人間は「前の現実」に立てなくなるからである。

自分の前にある世界に、身体ごと参加し、触れ、響きを受け、そこから毎瞬、生命としての像が立ち上がる――本来の生とは、そういうものだ。

ところがホムンクルスを立てた瞬間、人間はその現場から退いてしまう。そして、その退いた後方に、脳内の司令室を作る。そこで世界を眺め、処理し、管理し、再構成しようとする。

こうして人間は、現実を生きる存在ではなく、現実をいったん内部モデルへ変換してからでないと生きられない存在へと変質する。私は、これこそが現代人の根本病理だと思っている。

ホムンクルスは、自己認識を歪めるだけではない。知覚を歪め、他者理解を歪め、文明そのものを歪める。世界は触れるものではなく管理するものとなり、他者は出会うものではなく解析する対象となり、身体は生の現場ではなく情報入力装置となる。

すると、あらゆる質感は、いつの間にか量へと変わっていく。手触りは数値に変わる。気配はデータに変わる。意味はアルゴリズムに変わる。近代文明は、この変換によって巨大な成功をおさめた。だが同時に、人間が生きるべき「前の現実」を、少しずつ失っていったのである。

私は文明の成果を単純に否定したいのではない。だが、その成果を支えてきた知覚構造の歪みは、いまや看過できないところまで来てしまった。その極点が、AIの台頭である。

本格的なAI時代の到来により、社会のあらゆる領域がデータ化され、人間自身が自分の作ったモデル世界へと次第に従属し始めている。

これもすべては、ホムンクルスが原因なのだ。もともとがでっち上げであったホムンクルスであるがゆえに、AIによって回収されようとしているのである。

AIが生命を回収することなど絶対にできない。しかし、ホムンクルスであるならば、容易に、しかもきわめて相性よく回収できる。

つまりホムンクルス問題は、もはや個人の頭の中だけの問題ではない。文明そのものの存亡を賭ける事態にまで、その深刻さは拡大してしまったのである。


ホムンクルスで真の自己を失った人類は、やがて自ら作ったAIに回収されていく。

5.田方批判――オペレーター型ホムンクルスの密輸入

ここで論点を明確にするため、ロボマインド田方氏の発想を取り上げたい。

※念のため断っておくが、私は田方氏に対して何ら負の感情を抱いていない。むしろ強いリスペクトと好感を持っている。同じ関西人であり、誕生日も近く、同年齢、同じ血液型でもあるため、個人的にも特別な親近感を覚えている。そのことは最初に明記しておきたい。にもかかわらず、私はここで、あえて田方氏を批判的に論じなければならない。なぜなら、氏の論説は、奇抜さ、明快さ、鮮やかさによって聴衆を強く魅了し、それでいて私とは正反対の方向へ導いていく力を持っているからである。ゆえに、以下では論述の便宜上、「田方」と敬称を外して記すことを、あらかじめご了承いただきたい。

※参考動画…ロボマインド田方「47.解決!意識のハードプロブレム⑤ ホムンクルスの無限後退(デカルト劇場)と意識の仮想世界仮説」

田方は、ホムンクルス問題が厄介なことを、もちろん分かっている。脳の中に小さな観察者がいて、そこに映る映像を見ている――そんな古典的なデカルト劇場では済まないことを、彼は十分に承知している。実際、上記の参考動画でも、もし脳内の映像を見ている小人がいるなら、その小人の頭の中にもまた小人が必要になり、話は無限後退に陥る、ときちんと確認している。ここまでは、まったく正しい。

だが問題は、その先である。田方は、この難問を正面から突破するのではなく、工学主義の側へと論点そのものを移してしまう。

哲学者たちは無限後退のような問題を見つけると、そこで思考停止してしまう、これからは意識モデルを実際に設計すべき段階だ――おおむねそのような調子で、「哲学的問い」そのものを棄却し、論点を「設計思想」の側へ移し替えてしまうのである。ここに私は、きわめて強い違和感を覚える。

なぜならこれは、ホムンクルス問題を解いたのではなく、工学的な有用性を口実に「問い」を打ち切っているだけだからである。

田方がここで持ち出す最大の切り札が、お掃除ロボット「ルンバ」である。

彼は、モデル内部に部屋の地図を持つルンバを例に挙げ、その地図をルンバは「見ている」のではなく、「理解している」のだ、と言う。自分がどこにいて、壁まで何センチあるかをデータとして処理しているのであって、そこに視覚的観察者としての小人はいらない、というわけだ。

なるほど、これは一見うまい。古典的な「鑑賞型ホムンクルス」は、たしかに消えたように見える。

だが、それで問題が解決したわけではない。田方の議論の核心は、鑑賞型ホムンクルスを退けたあとも、脳内表象主義そのものはそのまま温存されている、という点にある。

そこにはなお、脳内に表象された世界モデルがあり、それを理解し、統合し、選択し、次の行動へつなげる中心が必要になる。事実、田方はこれを「意識の仮想世界仮説」と呼んでいる。

つまり、脳内に表象される仮想世界という枠組み自体は、そのまま残っているのである。田方流ルンバ論法によって「見る小人」は消えたように見えても、「操作する小人」はなお残っている。私はこれを、「オペレーター型ホムンクルス」と呼びたい。

つまり田方は、ホムンクルスを本当に消したのではない。鑑賞型ホムンクルスだけを退け、その代わりに、脳内表象を中枢で処理する主体(オペレーター)を温存したまま、意識モデルは完成したと見なしているのである。

ここに田方理論の本質的な限界がある。しかも彼の議論は、この構えをさらに工学主義によって補強する。

人間の意識を理解するとは、それを機能の束として整理し、外から見て同じふるまいが再現できればそれで十分だ――とするのが工学主義である。ここでは中身は問われない。現象的意識(クオリア、こころ)は棚上げされる。むしろ、ホムンクルス問題やクオリア問題は擬似問題として処理される。これはまさに、クオリアを否定するデネット派の論法そのものである。

私は、このすり替えをはっきり告発したい。田方的思考とは、ホムンクルス批判を掲げながら、じつは工学主義の印籠によってホムンクルス問題を打ち切っているにすぎない。しかもその結果として、ホムンクルスは消えるどころか、さらに巧妙なかたちで温存されてしまう。世界を生きるのではなく、世界をモデル化し、処理し、制御する。その発想の深部には、いまだに「後ろから操作する私」が居座っているのである。


「見る小人」は消えても、「操作する小人」は残っている。

6.苫米地・茂木批判――デリバティブを本体に昇格させる者たち

だが、ホムンクルス病に陥っているのは田方だけではない。むしろ問題は、もっと洗練されたかたちで、現代の高級知性の中に広く浸透していることにある。その典型として、ここでは苫米地英人と茂木健一郎を挙げておきたい。両者は方向性も語り口もかなり異なる。だが、私にはこの二人が、同じ病の別様の発現に見える。

※先の田方氏と同様に、私は苫米地英人氏・茂木健一郎氏を深くリスペクトしている。だが、同様の理由から、今回はあえて批判の俎上に上げさせていただく。以下、敬称略をご容赦願いたい。

ここで、私が言う「デリバティブ」とは何かを先に明確にしておきたい。

デリバティブとは、本来は派生物、二次的産物にすぎないものが、いつのまにか本体の顔をし始めることである。金融工学において派生商品(デリバティブ)が暴走し、ついにはリーマンショックのような破局を招いたことは、多くの人が知っているはずだ。

このように、知の領域では、いやむしろ知の領域の宿命として、還元や置換の名のもとに、派生物が本体に成り代わることがよくある。この誘惑は、知性が高度になればなるほど強くなる。一次の現場から生まれた説明、構図、モデル、メタ認識、情報処理の図式が、逆に一次の現場そのものに成り代わってしまう。私は、このすり替えを問題にしている。

苫米地の議論には、たしかに知的高揚をともなった強い説得力がある。

情報空間、抽象度階層、包摂半順序――そうした語りは、視点を高く引き上げ、下位の現実をより高次の構造の中に包み込んでいく。そこには知的興奮もある。

しかも私自身、彼のコーチング理論には大きな恩義を感じている。だがそれでも、私は言わなければならない。そこで行われていることは、結局のところ、デリバティブの増殖ではないのか、と。

それはこういうことだ。苫米地もまた、当然、ホムンクルスが問題であることは見抜いている。そしてその解決論として、彼は超情報場という階層構造を提案するのである。

情報場を、さらにメタな位置から観察する超情報場を設定する。この階層を導入すれば、ホムンクルスは解消できる――おそらくそういう見立てなのだろう。さらにここでは、記号接地問題をはじめ、意識のハードプロブレムとされる各種難問が、次々と解消されるかのように説明される。この説明の構造は、先ほどの田方と本質的には同じものだ。

本来、「情報が現実に接地するとはどういうことか」という記号接地問題が問われていたはずなのに、いつの間にか論点は、高次の情報空間の階層性の問題へと移っていく。この論法こそ、複雑な金融工学を駆使して、末端の負債や不良債権を、いつの間にか真っ当な金融商品へと変身させてしまうデリバティブの設計思想と、ほとんど同型に見えるのである。

茂木もまた、これと似た構えを持っている。彼は若き頃に「クオリア問題」の重大性に目覚め、その切実さを内外で訴え続けてきた脳科学者である。私も彼の書籍を数冊読み込み、大変敬愛している。

既存の科学的枠組みからはこぼれ落ちてしまうクオリアや現象的意識の問題、しかもそれをホムンクルスの導入によって処理してはならないことを、彼もまた深く自覚している。にもかかわらず、最終的に彼が寄せていくのは、脳内の関係構造や「認識におけるマッハの原理」である。すなわち、意識は関係性の布置の中で説明できるだろうという方向である。

だが、これこそがまさにデリバティブである。脳内表象と現実がどう結びつくのか、脳内で意識はどう立ち上がるのかという難問を、より高次の相対原理へと包み上げて処理しようとする。その構えは、末端の金融問題をさらに高次の派生商品の関係性でくるみ込み、そこで解決したことにしようとする態度と本質的に変わらない。

要するに、苫米地と茂木がやっていることは、ホムンクルス問題を相対原理へと持ち込むことなのである。

田方が工学主義によって「問いを打ち切る」のに対し、苫米地・茂木は、より高次の関係性、階層性、相対構造の中へ問題を包み込み、そこで解消しようとする。

私はこの構えを、デリバティブと呼ぶのだ。なぜならそこでは、一次の現場に根ざした生の問題が、現場を離れた高次の派生構造(二次・三次……)へと置き換えられ、その関係性の中で処理されたことにされるからである。

たしかに理論上は、それでホムンクルスは消えるのかもしれない。それは仏教が相対原理によって無我を説き、一切空として自我を解体するのと似ている。ホムンクルスが自我の異名である以上、その意味では筋が通っているとも言える。

だが、そのとき同時に失われるものがある。生ける大地との接続である。前の現実に触れ、そこに立ち、巻き込まれながら生きるという、あの一次の現場が失われるのだ。

だから私が、両者にリーマンショックを引き起こした「デリバティブ」のメタファーをあてがうのは、このためである。ホムンクルスは解決できるかもしれない。だがその先に待っているのは、解放ではない。ニーチェ的な、圧倒的な虚無なのである。


現場から生まれた問いが、高次の構造へ吸い上げられ、そこで“解決したこと”にされていく。

7.現代知の病理として総括する

ここまで見てきたように、田方、苫米地、茂木は、それぞれまったく違うことを語っているようでいて、じつは同じ病を共有している。

田方は工学主義によって問いを打ち切る。苫米地と茂木は相対原理によって問いを包み込む。処理の仕方は違う。だが、いずれも最終的には、一次の現場で生じている問題を、一次の現場そのものから引き離し、別の回路で処理可能なものへ変換してしまうのである。

私は、これを現代知の病理だと考える。なぜならそこでは、現実に触れながら生きることよりも、現実を説明可能な図式へ変えることのほうが優位に置かれているからだ。

世界を生きるのではなく、世界を処理する。前に立つのではなく、後ろへ退いて管理する。接触するのではなく、把握する。そうやって知は洗練され、高度化し、巨大な成果を挙げてきた。だがその代償として、人間はますます「前の現実」から遠ざかっていった。

そして厄介なのは、この病理が、低次の誤解としてではなく、高度な知性のかたちをとって現れることだ。むしろ知性が高くなればなるほど、この病は見えにくくなる。

工学、脳科学、情報理論、認知科学、分析哲学、自己啓発、仏教的相対主義――それぞれの衣装は違っていても、そこで起きていることは似ている。すなわち、現場から生まれた問いを、現場を離れた構造へと吸い上げ、その中で“解決したことにする”ということである。

だから私は、ここであらためて言いたい。ホムンクルス問題とは、哲学者の遊戯でもなければ、学説上の枝葉でもない。人間がどこに立って世界を生きるのか、その位置そのものを問う問題である――と。

そしてその問いを取り逃がしたとき、人間は必ず、内部モデル、相対構造、デリバティブの帝国へと引きずられていく。これが、私の言う現代知の病理なのである。

8.反ホムンクルスの先駆者たち

もちろん、こうした流れに抗った者たちもいた。私はその系譜を、きわめて重要なものとして見ている。大森荘蔵ベルクソン、そしてメルロ=ポンティ――このあたりの名前は、まさに反ホムンクルスの先駆者として挙げられるべきだろう。

メルロ=ポンティは『眼と精神』の冒頭で、こう書いている。
「科学は物を巧みに操作するが、物に住み着くことは断念している」と。

これは見事な一句である。なぜなら、ここには近代知の本質的な偏りが、そのまま言い当てられているからだ。操作はできる。管理もできる。だが、その物の中に住み着き、そこに身を置き、そこから世界を生きることが失われている。これはそのまま、私がここまで批判してきたホムンクルス的知そのものでもある。

彼らに共通しているのは、世界をいったん脳内へコピーし、それを内側の誰かが見ている、という近代的な知覚図式に対する根本的な違和感である。知覚は脳内上映会ではない。現実は、内界スクリーンに映る二次的な像ではない。人間はまず前に現実があり、そこに触れ、そこに巻き込まれ、そこから生き始めている。この感覚を、彼らはそれぞれの言葉で守ろうとした。

大森荘蔵は、「実物」とその「コピー」という発想そのものを嫌った。脳の中に世界の写しができていて、それを見ているのだ、という図式を徹底して疑った。

ベルクソンもまた、脳を表象の劇場としてではなく、行動のための選別と切断の器官として捉えた――
「脳は行動の道具であって、表象の道具ではない」(『物質と記憶』)

脳が世界を作るのではない。先にイマージュの総体としての世界があり、脳はその中で行動に必要なものを切り取っているにすぎない……というのがベルクソンの基本的な見方である。

ポンティも同様に、知覚を上空から眺めるのではなく、身体ごと世界のうちに住み込んでいることとして捉えた。彼にとって、人間とは世界を前にして立つ主体である以前に、すでに世界の中へ投げ込まれ、絡み取られている身体だった。

私は、彼らの仕事に深く共感している。なぜなら、彼らが守ろうとしていたのは、まさに「前の現実」だからだ。

後ろから眺めるのではなく、前に立つこと。管理するのではなく、触れること。再現するのではなく、参与すること。

彼らの仕事は、近代知が見失っていった生の現場を守ろうとする、反ホムンクルスの抵抗線だったのである。


後ろから世界を処理するのではなく、前に立ち、触れ、参与する。

9.反表象主義陣営はまだ弱い

だが、ここで身内びいきはしない。私は彼らに深く共感している。だが同時に、彼らの弱さもまた、はっきり見ておきたい。むしろそこを見誤ると、反ホムンクルスの系譜そのものが、現実の難問に耐えられない、きれいごとの思想になってしまうからである。

大森にせよベルクソンにせよ、彼らの強さは、外面の知覚を守るところにある。生ける現実への方向性を強く堅持するところにある。

脳内上映会を否定し、実物とコピーという発想を退け、前の現実に立ち返ろうとする。その仕事は実に重要だ。だがその代償として、実際に人間の中で起きている内的表象活動の現実性を、どうしても十分に引き受けきれていないように私には見える。

とりわけ大森は、その傾向が強い。脳内表象を立てると、たちまちホムンクルスが呼び込まれる。だからこそ彼は、内界の像そのものを、できるだけ認めない方向へ進む。

ベルクソンもまた、脳を表象装置ではなく、行動のための器官として捉えることで、ホムンクルスを避けようとする。もちろん、その方向は正しい。だが問題は、その正しさだけでは、どうしても受け止めきれない領域が残るということだ。

なぜなら、人間の内部には、たしかに空想があるからだ。イメージ活動があるからだ。記憶の再生があるからだ。思い出し、予期し、夢想し、脳内で像を回し、反復し、ときにそれに導かれて現実の行動まで変わる――そうした経験の厚みは、誰にも否定できない。ここを前にすると、「脳内表象などない」と言い切るだけでは、どうしても弱いのである。

しかもこの点は、今日では、もはや単なる内省の問題にとどまらない。現代の脳科学、認知科学、fMRIをはじめとする計測手法の発達によって、近年ますます、脳内活動のさまざまな様相が可視化されつつあるからだ。

知覚、想像、記憶、内部生成された内容に対応する脳活動パターンが、かなりの精度で捉えられるようになってきた以上、人間が脳内に表象らしき活動を形成していることは、もはや軽く退けられない。

大森にせよベルクソンにせよ、その核心的洞察はいまなお重要である。だが、百年前の知見のままで、内的表象活動の現実性に十分応答できると考えるなら、その理論的脆弱性は免れない。

つまり彼らの限界は、反ホムンクルスの戦線を守るために、脳内表象の現実性そのものまで痩せさせてしまうところにある。

だが、私はそこを引きたくない。「表象を先手」にすることは断固として拒否する。だが同時に、空想やイメージ活動の実在性もまた、こちらは引かずに認めたい。むしろ積極的に、内的表象活動を認めたいのである。

反表象主義が本当に強い思想になるためには、この両立に耐えなければならない。

10.脳内表象活動は実在する!

ここで私は、あえて主張を翻し、大きく踏み込まなければならない。
脳内表象活動は、実在する――と。私はいま、むしろそう言いたい。

ここまで私は、反表象主義を掲げ、ホムンクルスを批判し、脳内上映会という近代的な知覚図式を退けてきた。

だが、それでもなお、いやそれだからこそ、ここで引いてはならない一つの現実がある。

人間の内部には、たしかに空想がある。イメージ活動がある。とくに幼少期、人は頻繁に空想の中で遊ぶ。誰しも思い当たるはずだ。

頭の中で場面を作り、人物を動かし、出来事を反復し、まだ起きていない未来を予行し、過去を何度も再生する。宇宙人や怪物、未知の世界の動物や乗り物など――縦横無尽に、好きなだけ空想世界を楽しむことができる。

私自身、まさにそういう空想少年だった。空想が友達であり、空想を楽しみ、空想を育て、空想の中で生きてきた。

そして思春期になれば、そこに性的空想が加わる。これもまた、人間のきわめて生々しい現実である。多くの人が体験する、否定しがたい現実だ。

像は立ち上がる。反復される。味わわれる。強められる。ときに現実の行動や感情にまで作用する。これほどの強度を前にして、なお「脳内表象などない」とだけ言い張るなら、それは理論のために現実を切り捨てることでしかない。

私は、そこへは行きたくない。むしろ逆だ。ここでこそ私は、脳内表象活動の現実性を、真正面から認めたいのである。

問題は、それを認めたとき、反表象主義は崩れるのか? ということだ。私は、崩れないと確信している。いや、ここを突破してこそ、本当の反表象主義が始まるのだ。


脳内表象はある。だが、世界の重心はそこにはない。

11.解決の道はある――次回予告にかえて

では、どうするのか。脳内表象活動の現実性を認めながら、なお反表象主義を貫くことなど、本当にできるのか。

できる。私はそう考えている。いや、できなければならない。そのためには、人間の知覚と意識の構造そのものを、これまでとはまったく別の仕方で捉え直さなければならない。

鍵になるのは、内面回路と外面回路の区別である。

人間はたしかに、脳内で像を回し、空想し、想起し、予期し、反復する。だが、決定的なのは、そのこと自体ではない。重心がどこに置かれているか、である。

世界の成立を「脳内表象」の側(内面)に置くのか、それとも「前の現実」への接触と参与の側(外面)に置くのか。この一点において、内面回路と外面回路は決定的に分かれる。

私が言いたいのは、脳内表象があるかないかではない。脳内表象が世界の重心なのではない、ということだ。

このとき、私たちが見落としてはならないのは、「見る」ということそのものの再定義である。

近代知は、知覚をつねに視覚優位で考え、脳内のスクリーンに映る像を見ることとして理解してきた。だが、もし知覚の根が、そうした視覚的観照ではなく、前から返ってくるものを受け取り、そこに直接参与する働きにあるのだとしたらどうか。

私はそこに、聴覚を優位とする知覚――聴観、あるいは「エコーロケーション視覚」とも呼ぶべき、新しい知覚理解の入口があると見ている。これが、外面回路の知覚様式である。

エコーロケーション――すなわち、クジラやコウモリが音波の反射を受け取り、世界を直接把握している、あの認知様式だ。私は、人間もまた、この方向へ移動しなければならないと考えている。

これは大胆な仮説である。だが同時に、現代の行き詰まりを打ち破るための、決定的な突破口でもある――と確信している。

さらにこの問題は、単なる認知理論の組み替えにとどまらない。そこには、なぜ人間が内面回路へと転倒したのか、なぜ表象主義がこれほど強固に成立したのか、その深い理由も潜んでいる。

そこまで見えてくると、これまで敵として見えていた内面回路の表象主義もまた、単なる誤りとしてではなく、ある必然をもった転倒構造として、捉え直せるようになるだろう。

そしてそのとき、それはもはや、ただ否定されるべきものではなく、反転され、組み替えられ、新たな役割を担うものとして見えてくるはずである。

私は次回、この問題を、内面回路と外面回路、そしてヌーソロジーでいう11〜12段階の転倒構造へと接続しながら、正面から論じたい。

脳内表象活動は、たしかにある。だが、それは先手ではない。ここに、本当の反表象主義の突破口がある。ここから先は、もはや単なる批判ではない。新しい知覚の誕生である。次回はいよいよ、その核心へ踏み込む。


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