常識はいつ偏見になるのか
食べ物を粗末にしてはいけない。これは当たり前のことである。
そこには、生産し、運び、売り、調理する人々の労力があり、素材となった動植物の命への尊厳があり、さらに廃棄が地球環境に与える負荷という現実もある。食を無駄にしないという倫理は、個人の好みや立場を超えて、私たちが共有すべき最低限の前提だろう。
ただ、その「当たり前」が、いつのまにか考えることを止めるための合言葉になってしまうことがある。
たとえば、「世界には食べたくても食べられない人がいるのだから」という言葉である。もちろん、飢餓に苦しむ人々がいる世界で、食べ物を軽々しく捨てる行為が倫理的に誤っていることは疑いない。だが、先進国で暮らす私たちが目の前の食事を完食したからといって、その分がそのまま遠い国へ届き、誰かの空腹を直接満たすわけではない。問題は、そこまで単純ではないのだ。
本当に問うべきなのは、私たちの消費行動がどのような需要を生み、どのような市場構造を支えているのか、ということである。
大量に買い、大量に捨てる社会では、「どうせ余る」ことを前提にした供給と消費が常態化する。その過剰な需要は国際市場の価格形成を左右し、結果として、経済力の弱い国や地域が食料を「買い負ける」事態を招く。目の前の一皿を残さないことは、飢餓を直接救う魔法ではない。しかし、自分の消費がグローバルな供給網の構造に接続されていると自覚する、その思考の入口にはなりうる。
食を大切にしようとする素朴な気持ちが意味を失う、という話ではない。その素朴さを、構造を見通すまなざしと結びつけたとき、それは初めて現実を動かす倫理になりうる、ということだ。そしておそらく、ここで問われているのは食べ方だけではない。私たちが何を「常識」と呼び、どこからそれを疑わなくなるのか、そのことでもある。
だからこそ、「食べ物を残す」という行為も、すべてを同じ重さで論じるべきではない。
体調や食欲の見積もり違いによって、一食を食べきれずに残してしまうことはある。そこには生理的な限界や予測の誤差がある。望ましくはなくとも、それは人間の生活に避けがたく含まれる種類のロスであり、すぐに社会全体の構造問題と同列には置けない。
しかし、近年YouTubeやSNSで見かける、最初から破棄を織り込んだような大量消費は、明らかに別の問題である。食べ物が「食べるためのもの」ではなく、視聴数や話題性を稼ぐための小道具へと変わるとき、そこでは食の倫理以前に、食そのものの意味がずれてしまう。
かつては、食べ物を雑に扱う演出が、ある種の「豊かさの象徴」やテレビ的な笑いとして許容されていた時代もあった。だが、今それを見ると、強い違和感や不快感を覚える。
それは、単にこちらが神経質になったという話ではないのだと思う。むしろ、気候変動やサプライチェーンの脆弱性を経て、「資源は有限である」という認識が社会の側に浸透してきた結果だろう。価値観の更新が進んだからこそ、かつての「笑い」はそのままでは通用しなくなったのである。
もっとも、この境界線を曖昧にする存在もある。たとえば、常人には完食が困難なほどの激辛料理や、大食いチャレンジを前提としたメニューである。
私は激辛料理そのものを否定したいわけではない。辛さを味覚の一部として追求する文化もあれば、それを楽しむ人もいる。好奇心で挑むチャレンジャーもいるだろう。だが、提供する側も食べる側も「大半は途中でギブアップする」ことを半ば前提にしながら、その過剰な刺激や無謀さ自体を娯楽として消費している場面を見ると、そこには小さくない違和感が残る。
それは本当に食の追求なのか。それとも、食べ物を使った「アトラクション」なのか。その境界に、私はどうしても割り切れないものを感じる。
ここまで述べてきたのは、食べ物の扱いという、いわば「外側」の問題である。だが、食べ物の扱いをめぐる議論が過熱するとき、本当に問われているのは、必ずしも食べ物そのものではない。
どこまでを許し、どこからを許さないかという判断には、その人の価値観だけでなく、その人が属している共同体の「常識」が深く入り込んでいる。そして今、その常識はSNSという場で、以前とは比べものにならない速度で可視化され、増幅され、拡散されていく。ここから先で考えたいのは、その反応のかたちのほうである。食を粗末に扱うことへの違和感と、それを糾弾する身ぶりへの違和感は、似ているようでまったく別のレイヤーの問題だからだ。
SNS上では、この種の話題に対する反応がしばしば極端に二極化する。過剰に糾弾する側と、純粋なエンターテインメントとして面白がる側である。
だが、実際のところ、人の反応はそこまで単純ではないはずだ。過激な動画を見た瞬間に「思わず笑ってしまう」という直感と、それを「不謹慎だ」と戒める理性は、同じ人間の中に同時に存在しうる。問題は、その揺れそのものよりも、自分の中の矛盾を認めず、直感的な面白さを「怒り」で上書きして、ただちに自分を「正しい側」に配置しようとする態度にあるのだと思う。
食品ロスを絶対悪として糾弾する人々のすべてが偽善的だと言いたいのではない。そうではない。
ただ、SNSではしばしば、自分の倫理観を表明することが、結果として「自分は道徳的に正しい側に属している」という証明のように機能してしまう。そこでは問題解決そのものより、怒っている姿を他者に示すことのほうが前景化する。倫理がいつのまにか自己演出の道具へと結びつき、美徳がシグナルとして流通していく。
しかも、その空気は増幅しやすい。怒りを表明することには、ある種の快さがともなう。自分が「正しい側」にいるという安心感と、そこから他者を裁くことの解放感である。SNSでは、それが「いいね」というかたちで即座に可視化される。「いいね」の数が、いつのまにか正しさの証明のように見えてしまうのだ。
そして、この同調の連鎖の起点には、しばしば著名人やインフルエンサーがいる。
過去に「正しい」と評価された履歴を持つ人物ほど、その発言は批判より先に信頼を集める。人は自分でじっくり考える前に、その語りの中へと吸い込まれていく。
自分の意見を組み立てる代わりに、誰かの整った意見を借りてしまう理由は、おそらく二つある。一つは、複雑な問題を一から考える労力を避けたいということ。もう一つは、目立つ異論を述べて自分が標的になることへの恐れである。整った意見への同調は、信念の表明というより、安全な場所に身を置くための確認作業に近い。そして自分の足場が安全だとわかった瞬間、人は他者を裁くことに加速していく。
けれども、その構図が永遠に続くわけでもない。
絶大な影響力を持つ人物が、あるとき、ふとその傲慢さや現実との矛盾を露呈し、急速に支持を失うことがある。その光景を見るたびに、私は少しだけ安堵する。世の中の熱狂はたしかに危うい。しかし、社会全体が完全に誰かの言葉に支配されきっているわけでもない。社会の自浄作用、あるいは「免疫」のようなものが、まだ機能しているのだと思いたい。
面倒くさい時代になった、と感じることはある。
しかしその面倒くささは、社会が以前よりも多様な人や価値観を視野に入れ、それらを尊ぶ方向へと進み始めたことの裏返しでもある。誰かの「普通」が別の誰かを傷つけうること、ある共同体の「常識」が別の場所では通用しないことを、私たちは以前よりずっと敏感に知るようになった。
だからこそ、「一般的」「常識的」「一般常識」といった言葉の輪郭は不安定になっている。単なる多数派である「一般」と、ローカルなルールである「常識」。それを世界の標準だと錯覚した「一般常識」が、いつ枠外のものを切り捨てる「偏見」に変わるのか。私たちはその境界線の上で、考え続けざるを得なくなっている。
以前、私はアインシュタインの有名な言葉を引用したことがある。
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションである」
当時の私は、この言葉をかなりそのまま受け取っていた。
人は育った家庭や学校、時代背景の中で「当たり前」を身につけ、それを疑わないまま生きてしまう。だからこそ、自分の常識を絶対視せず、既存の概念を疑い、自分の頭で考え続けることが大事なのだ、と。
それは今でも間違っていないと思う。だが、47歳になった今、私はこの言葉を少し違う角度から考えるようになった。
18歳で価値観が完成するのだとしたら、それはあまりにも悲しい。
むしろ人は、18歳以降にこそ多くの矛盾を見て、多くの失敗をし、異なる背景を持つ他者と出会い、自分の「当たり前」を壊していくのではないか。少なくとも私自身について言えば、40代になってからのほうが、若いころよりも異なる意見を急いで切り捨てず、いったんフラットに受け止めてから考えられるようになった実感がある。若い世代の言葉に触れて、教えられることも驚くほど多くなった。
現代の18歳前後の人たちは、自分の違和感や意見を、私が若かったころよりずっと的確に言語化しているように見える。もちろん世代全体を美化するつもりはないが、それでも私は、彼らから学ぶことのほうが多い。振り返れば、若いころの私はもっと浅はかで、世界をずっと雑に見ていた。
つまり、「偏見のコレクション」は18歳で完成するのではない。
それは情報環境の中で、生涯を通じて増え、壊れ、組み替えられていく現在進行形のものだ。問題は、偏見という主観的な枠組みを持つことそれ自体ではない。問題は、自分の偏見を「普遍的な常識」と呼んだ瞬間に、それを更新する意志を失ってしまうことだろう。
食品ロスをめぐる議論も、激辛料理への違和感も、SNS上の正義やインフルエンサーへの同調も、結局はそこにつながっている。私たちは何かを批判するとき、何かを擁護するとき、あるいは「普通はこうだ」と口にするとき、ほんとうに自分の頭で考えているのか。それとも、自分の属する小さな共同体の空気を、世界の標準だと錯覚しているだけなのか。
だから私は、今の自分が感じている違和感や、その違和感に至る思考の過程を、できるだけ言葉にして残しておきたいと思う。
正解のない、変わり続ける社会の中で、自分の価値観をしなやかに更新し続けるために。そしていつか、未来の自分が、いまの自分の「常識」をもう一度疑えるようにするために。
常識は、人と人とが社会を共有するための土台でもある。けれど、それを疑うことをやめた瞬間、常識は容易に偏見へと変わる。
だから「偏見のコレクション」は、18歳で終わらない。終わらせてはいけないのだと思う。
