13|富山市民プラザビルのヒミツ・続編(2/5)
前回よりお届けしている「富山市民プラザビルのヒミツ・続編」。
今回はインタビューの続きをお届けいたします。
※「富山市民プラザビルのヒミツ・続編」は後に3回続きます。
槇文彦氏と富山をつなぐ縁とは?(後編)
上西氏
ちょうど森村先生の話が出てきましたが、先日京田さんと話をしていると、森村先生の作った都市計画マスタープランは、富山市のバイブルになったと。
京田氏
私が森村先生を初めて知ったのは、平成4年に都市計画法が改正になって、市町村が都市計画マスタープランを作ることができるようになったタイミングです。その直後に、森村先生が富山市役所の廊下をふらっと歩いておられて、「私は森村と言いますが、富山市も都市計画マスタープラン作るんでしょ。私を委員に加えてください」っておっしゃられたんですよ。
高谷氏
そうだったんですね。
京田氏
当時の私は全く面識がなくて、誰が来たんだろう?と思っていました。でも、よくよく聞いてみたら、凄い人がいきなりやって来たということに気づきました。
当時の富山市は、富山駅周辺の再開発でお世話になっていた蓑原敬(みのはら けい)さんに、何かあるごとに委員長をお願いしていました。そこに、森村先生も入りたいとおっしゃられて、森村先生を断るなんてことはあり得ないので、「ぜひ」ということで、委員会に入ってもらったんです。蓑原委員長と森村先生が学識経験者で、その2人が中心で都市計画マスタープランを作ろうと始めました。
ですが、その2人の先生が強くおっしゃるんです。
京田さん。富山市はまだこんなにまちを拡大する計画を作ろうとしてるの?もうそんな時代じゃないよ。これからは、コンパクトなまちを考えていかなきゃいけないんだよ。
ただ、当時の市長に限らず、市の上層部は、どんどんまちを拡大して、農地を潰して、高速道路をばんばん走らせて、まちを広げていけ!と考えていた時代なので、蓑原委員長や森村先生がおっしゃるような、都市計画マスタープランなんて書けなかったんです。
それで、2人の先生にはこう返しました。
申し訳ないです。先生方のおっしゃることは大変よく分かったんですが、そのようなことは書けないので、こっそりやりましょう。
そして、都市計画マスタープランではなくて、「都心マスタープラン」をこっそり作りました。この存在は、市役所の上層部は誰も知りませんでした。都市計画マスタープランの進捗を聞かれたら、「いや、まだできません。」って言い続けて、ずるずる引っ張ってました。
こっそりと「都心マスタープラン」はできたのですが、市の上層部が認めていない計画なので、表に出すことはありませんでした。「都心マスタープラン」は、ずっとお蔵入りしていましたが、平成11(1999)年に、当時の小渕総理が富山に来られて、「国はこれから歩いて暮らせるまちづくりというものをやってくんだ」ということを富山で発表されたことで状況は変わりました。
「モデルとなる都市を募集するって言ってるから、何かしら応募しなきゃいけない」と、市役所内はざわざわしてました。当時は、歩いて暮らせるまちづくりが何かもよく分かっていなかったんですが、「とにかくなんか応募しよう」ってことになって、「京田、担当だからなんか書いて応募しろ」と言われました。
そこで、その時に使ったのが、こっそり蓑原委員長と森村先生と一緒に作っていた「都心マスタープラン」なんです。そしたら、素晴らしい先生達が書かれた内容ですから、当時の建設省からは、「こういうことだよ、富山市は分かっているじゃないか」と言っていただけました。
そして、富山市は晴れてモデル都市に選ばれたわけです。この辺りから、富山市でもコンパクトシティみたいなことを、少しずつ意識するようになりました。
~記事執筆中の記者の呟き~
こっそりと作っていたものが、このような形で花開くんですね...!
京田氏
それから、森村先生とは、何度かお会いすることがあり、実は、亡くなられる1週間ぐらい前にも森村先生と電話で話をしていて、「都市計画学会の学会誌で富山特集を組もうとしているので、森村先生からもお話を聞かせてほしい」とお願いし、会う約束をしていました。
残念ながら、会う約束をしていた日のほんの数日前に亡くなられてしまって。森村先生が考えておられたことを、もう1回聞こうと思っていたところでした。
それで、先日に上西先生から、「実は森村先生が槇先生に紹介したんだよ」っていう話をお聞きしてからは、「繋がった」と感じ、背筋がゾクッとしました。
~記事執筆中の記者の呟き~
富山市を取り巻く人の縁が、色々なところで繋がっていたわけですね。驚きです!
京田氏
先ほど話題に上がった、森村先生が昭和41(1966)年に作られた「富山市都市開発基本計画」は、まさしくバイブルでした。聞いた話では、東京大学都市工学科の学生は「富山市都市開発基本計画」を教材として使いながら勉強され、その後は建設省の職員として働くこともあるわけです。
そうすると、例えば、富山市が建設省に行って「ここに道路をつけたいんです」と言うと、その人達は富山のことを凄く良く知っているので、「富山市さん、これはこうじゃないよ。こうだよ。」って、「富山市都市開発基本計画」に書かれた絵を、そのまま使って指導していただいたこともあったみたいです。
なので、今の富山市の都市計画は、特に都市施設においては、森村先生が書いた「富山市都市開発基本計画」の絵とそっくりになっています。ただ、1つだけ違うのは、線引きです。森村先生が考えた4000ヘクタールよりも、かなり大きい6000ヘクタールぐらいの市街化区域になっています。
「富山市都市開発基本計画」のおかげで、建設省からは「富山市は都市計画の優等生」って言っていただけたんですよ。ちゃんと建設省に相談して、指導してもらいながら都市計画を進めてきたところの発端は、まさに、森村先生です。
上西氏
ちなみに、市庁舎と槇さんの関りは全くないわけではなく、コンペの審査委員長をされていました。
京田氏
そうでしたか!
高谷氏
当時のことを思い出すと、槇さんは、中層・低層型で、市民が入りやすい建物にしたいということは話されていましたね。槇さんと模型を作って富山市役所に持って行った記憶があります。槇さんご自身で現場で模型を組み立てられて、私は横で見ていました。
中には高層型が良いのではないかと意見される方もいましたが...その後は、見るからにご立腹で、珍しく富山空港で「ビール飲みましょう」とおっしゃったことがありましたね。私は緊張してしまいました...。

出典:「(仮称)富山市民プラザ基本計画」

出典:「(仮称)富山市民プラザ基本計画」
京田氏
先ほどの話で、槇先生は市庁舎の建て替えの話を受けないとおっしゃったとのことだったんですが、富山市民プラザや富山国際会議場以外で富山市との関わりはなかったんでしょうか。
高谷氏
槇さんは、富山市民プラザを含め、自分が今頼まれている総曲輪の全体を見ていくという立場は明確に守られていました。そのあたりがやっぱり違うなと感じますね。自分達は町をどうするかという課題に取り組んでいて、その解決案として、富山市民プラザという複合文化施設を作ろう、市庁舎は別で考えた方がいいというお考えだったと思います。
当時は、敷地も色々と見に行きました。よく覚えているのが、市庁舎の敷地(候補)を市の職員の方と一緒に歩いていたんですが、槇さんの歩くスピードがあまりにも速いんで、富山市の職員の方から私に「ちょっと早すぎてついていけないから、ゆっくり歩くように言ってくれないか」と頼まれまして。
槇さんはどんどん見て、御意見をおっしゃるんで、皆聞きたいんですが、聞こうに聞けないんですね。ただ、市庁舎の敷地候補など多くの場所をみるなかで、富山市民プラザはここがいいんじゃないかということになったと思います。
京田氏
当時を思い返すと、富山国際会議場ができて、その後しばらくして、平成14(2002)年に森雅志市長が誕生します。市長になってすぐに「大手モールは、せっかく槇先生のデザインで、あんなに綺麗になっているのに、人が歩いてないよな、なんとかしよう」と森市長から言われました。
それで、大手モールでマーケットをやろうという話になり、現在も「越中大手市場」という名前で、完全に民間で、月に1回マーケットを開催しています。
それはとても賑わっている一方で、セントラムっていう路面電車を、平成21(2009)年に通しているので、その時に、道路をほとんど再整備しています。いくつかのモニュメントはなくなり、随分と変わってしまいましたが、そのあたりの印象はどうでしょうか。残してほしかったとか...。
高谷氏
セントラムを通すタイミングでは、私は槇総合計画事務所を辞めてだいぶ時間が経っていたんですが、「道路を再整備してもよいか、槇さんはどのように判断されますかね」とお問い合わせがありました。ただ、槇さんがどのように思われるかは、私も分かりません。なので、「御本人に聞いてください」と答えました。おそらく、槙さんに直接聞かれたのではないかと思うんですけどね。どのように回答されたのでしょうか。
京田氏
建物が完成した時は、本当に斬新に感じた一方で、槇先生の設計の意図は知らなかったので、なんか分かりにくい建物やな~とも感じました。階段の数がとても多いじゃないすか。
高谷氏
そうですね。
京田氏
まだ登ったことのない階段があるんじゃないかというくらいです。あらゆるところに、階段が複雑にあって、でも、意図的に街をそのまま持ってきたようなイメージもありました。
高谷氏
そういうこともあると思いますね。基本は、槇さんのスケッチなんです。槇さんは、人が歩くスペースを十字形にスケッチされて、内部にアトリウムを置きましょう、ということでアイデアが始まっています。当時は数人のスタッフで3案を作って、槇さんに見てもらいましたね。私は十字形を担当して、佐藤さんとも話ながら作業しましたね。
槇さんは、パブリックスペースをどう確保するか、というところを、凄くお考えになって作るわけですね。富山市民プラザの場合は、大手モールから広場があって、広場からそのまま真っすぐ登っていった先にアトリウムがあって、さらにアトリウムが展開するっていうコンセプトだったんだろうと思うんです。

出典:「(仮称)富山市民プラザ基本計画」
京田氏
だとすると、あの外階段は結構重要な意味がありますね。
高谷氏
そうですね。
今回の記事はここまで。
インタビューの続きは、「13|富山市民プラザビルのヒミツ・続編(3/5)」でお届けします。
