短編小説|鏡像
土曜日の夜。自室の鏡を覗くと、僕は黒猫だった。
驚いて、顔を触ってみるが、人の肌のつるりとした感触があるばかり。どうやら、鏡に映る姿だけが、現実とかけ離れてしまっているようだった。まあ、鏡というものは異界への窓なので、そういうこともあるのだろう。僕は納得をして、ひとつ頷いた。鏡の中の黒猫も、ひとつ頷いてくる。こちらを見つめている、ぎらりとした金色の瞳。猫は好きだけれど、何故かあまり、可愛らしいとは思えなかった。自分自身だから、なのかもしれなかった。現実の姿は人間のままなので、幸いにもこのままコンビニアルバイトの深夜シフトには出勤できそうである。猫になってしまったのでお休みを頂きたいです、などとふざけたメッセージを店長に送信する羽目にならなくて、本当に良かった。僕は、鏡に映った黒猫から目を離して、鍵と財布とスマートフォンだけを服のポケットへと放り込んでから、玄関に向かい、扉を開ける。ワンルームの自室に、夜風がリアリティにあふれるつめたさで吹き渡っていった。ああ、夢じゃないんだ、と思った。部屋の外は、夜の癖に街灯りで、いやに眩しかった。
日曜日の朝、自室の鏡を覗くと、僕は美少女だった。
ふうん、と眺め回してみるが、残念ながら金髪だった。一瞬で興味が失せてしまう。僕は桃色か空色の髪色をした女の子が好きだった。そういえば、春の新入生歓迎会の時、所属しているオカルト研究サークルの四年生の先輩に、どんな女の子がタイプなのかを訊ねられたっけ。ありのままを答えたら、尖った性癖をしているね、と神妙に頷かれたものだ。僕も、真顔で頷き返した。会話はそこで途絶えてしまった。以降、その先輩とは、一度も会話をしていない。あれは何が正解だったのだろう。正直である事と誠実であることは、似ているようでまったく違うことなのかもしれない、と、はじめて考えさせられた瞬間だったように思う。今日は、アルバイトも無いまっさらな休日で、何の予定も無いので、僕は再びベッドへと横になり、目を閉じる。あの時、先輩が着ていた小花柄のロングスカートの美しいデザインばかりが、ひらひらと瞼の裏の暗闇を過ぎった。その裾を目で追いかけているうちに、僕はすっかりと二度寝してしまったようだった。
月曜日の昼、自室の鏡を覗くと、僕は死、そのものだった。
まっくろな渦をぐるぐると巻いたような、その姿はどこまでも虚ろだった。ああ、死だなあ、と眺めていると、俺が恐ろしくはないのか、と声がしてきた。僕自身の声だ。鏡像が話しかけてくるパターンは初めてだったため、少し動揺する。けれど、恐ろしくは無かったので、はいまったく、と答えた。何故、と問い直される。どこであっても常に隣り合わせのありふれた存在だからです、と答え直した。僕の声で、僕がしないような笑い声が返ってきた。重ねて、では、今から俺がお前を襲ったとしても構わないな、と言ってくる。今すぐは困ります、今夜のアルバイトのシフトを代わってくれる人を探さないといけないので、できれば少し待ってください、と僕は頼んだ。お前にとって、死ぬ今際に気にする事はそれだけなのか、と訊ねられる。はい、と返答した。心底からつまらなさそうな、ふうん、という声。脅かす甲斐の無い、つまらない奴だな。そう聞こえたっきり、声は途絶え、死は遠ざかって行った。死って、こんな問答で免れられたりもするのだなあ、と、僕は思った。自分がつまらない人間であることに感謝しながら、僕は四限の法倫理学の講義の為に、家を出た。空は曇っていて、死ぬには最適な陰鬱さだった。
火曜日の夕方。自室の鏡を覗くと、僕は僕だった。
あまりにも奇妙な現象が続くようなら、ホームセンターへ行って、もっと次元共鳴性能の低そうな鏡を見繕って買い直そうかと思っていた矢先の事だったので、拍子抜けする。身支度を整えながら、鏡を覗くと自分自身のありのままの姿が映る、という、至極当たり前の事が、こんなにもありがたい事だったのだなと、強く実感した。ここ数日間に出てきたあれら鏡像達は、一体何だったんだろうか。もしかすると、僕自らの獣性だとか、色欲だとか、希死念慮などが姿形を得たものだったのかもしれない。けれど、日常の些細な出来事にいちいち暗喩や意義を探し出していては、いずれ気が狂ってしまうことだろう。僕は、自分の正気を守る為にも、あまり考えないようにすることに決めた。今日は、所属しているオカルト研究サークルのイベントが開催される日だ。サークルの皆で、心霊スポットとされている廃トンネルの散策をする為に、僕は家を出た。真っ赤な夕日が、僕を照らし出しながら、世界の正常性を保証してくれている。きっと、心霊スポットでは何も起こらないんだろうな、と、奇妙な確信を覚えながら、十分後の電車に乗る為に、最寄りの駅へと早足で急いだ。
この作品は、花澤薫様の文学賞「第二回すべて失われる者たち文芸賞」応募作品です。
