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「親が変われば子どもが変わる」は、どこまで本当か


親の影響力と、親の責任を混同しない

「親が変われば、子どもも変わります」

子育てや不登校の相談で、よく使われる言葉である。

この言葉を聞いて、少し救われる親もいる。

子どもを直接動かすことはできなくても、自分にできることならある。

声のかけ方を変えてみよう。

毎朝の説得をやめてみよう。

子どもの話を、途中で遮らずに聞いてみよう。

夫婦で対応をそろえてみよう。

そう思えることで、途方に暮れていた親が少し落ち着くこともある。

実際、親の関わり方が変わると、家庭の空気は変わる。

言い争いが減る。

子どもが自分のことを話しやすくなる。

家庭が、学校へ行かせるための場所から、安心して休み、次のことを考えられる場所へ戻る。

その意味で、

「親が変われば、子どもを取り巻く環境が変わる」

という部分は、本当だと思う。

ただし、

「親が変われば、子どもも必ず大人の望む方向へ変わる」

となると、話は違ってくる。

親は、子どもの環境の一部ではある。

しかし、子どもを操作する装置ではない。

親が変わると、何が変わるのか

親が変えられるものはいくつかある。

家庭で使われる言葉。

子どもとの距離。

生活上のルール。

学校との連絡方法。

子どもが失敗したときの受け止め方。

今すぐ答えを出そうとするか、少し待つか。

これらが変われば、子どもの反応も変わることがある。

毎朝、

「今日は行くの」

と繰り返し聞かれていた子が、聞かれなくなったことで少し眠れるようになる。

勉強について責められていた子が、

「どこからわからなくなったのか、一緒に見よう」

と言われて、教科書を開く。

休むたびに親が落胆していた家庭で、

「今日は休んだ。では、明日はどうするか」

と考えられるようになる。

これは、親の変化が子どもを支えた例である。

だが、ここで変わったのは、まず環境である。

子どもの心を直接つくり替えたわけではない。

親が変えられるのは、子どもが動きやすくなる条件までだ。

その条件の中で、いつ、どちらへ動くかは、子ども自身の時間に属している。

関連があることと、原因であることは違う

学校へ行けない状態と家庭との関係については、さまざまな研究がある。

保護者の心身の状態、家族の機能、親の一部の関わり方と、子どもの登校困難との関連を示す研究もある。

ただし、保護者要因について調べた系統的レビューで採用基準を満たした研究は八件にとどまり、いくつかの要因については結果が弱い、または一貫していなかった。研究者も、理解を確かなものにするためには、さらに研究が必要だとしている。

ここで大切なのは、「関連」という言葉である。

親が不安定だから、子どもが学校へ行けなくなったのか。

子どもが学校へ行けなくなったため、親が不安定になったのか。

その両方が影響し合っているのか。

家庭外の問題が、親子双方を苦しめているのか。

数字だけでは、順番まで簡単にはわからない。

不登校になった子どもの保護者が不安になるのは、ある意味では当然である。

眠れなくなる。

仕事中も子どものことを考える。

夫婦で意見がぶつかる。

学校への不信が強くなる。

こうした状態を見て、

「親が不安だから、子どもも不安になった」

と説明するのは簡単である。

しかし、親の不安は原因ではなく、子どもの状態を心配し続けた結果かもしれない。

家庭に問題が見えることと、家庭から問題が始まったことは同じではない。

「親が変われば」は、反証できない言葉になりやすい

この言葉には、少し厄介なところがある。

親が教えられたとおりに対応し、子どもが学校へ行くようになった。

すると、

「親が変わったから、子どもも変わった」

と説明できる。

では、親が努力しても子どもが変わらなかったらどうなるか。

「まだ本当には変われていない」

「覚悟が足りない」

「夫婦の方針がそろっていない」

「子どもへの未練や不安が伝わっている」

と説明することができてしまう。

子どもが変わっても、変わらなくても、方法は正しいことになる。

うまくいけば、支援の成果。

うまくいかなければ、親の実行不足。

これでは、方法のほうが検証されない。

私は、教育でこの形ができたときには、かなり注意したほうがよいと思っている。

本当に目の前の子どもを見ているのなら、

「この方法は合わなかったかもしれない」

「最初の見立てが違っていたかもしれない」

「学校側の環境をもっと確認する必要がある」

と言えるはずである。

専門性とは、正しい方法を一つ知っていることではない。

方法が合わないときに、方法のほうを変えられることだと思う。

親への支援には、確かな意味がある

ここまで読むと、親への働きかけには意味がないと感じるかもしれない。

そうではない。

不登校支援では、親が重要な役割を持つ。

子どもが支援者に会えないときでも、親とは話せることがある。

親が学校へ必要な配慮を伝えられる。

生活環境を整えられる。

医療や相談機関につなげられる。

子どもが動けない間、学びとのつながりを残すこともできる。

心理的な支援の研究でも、子ども本人への働きかけだけでなく、親への助言、行動への対応、学校との協力などを組み合わせた方法が用いられてきた。一定の改善が報告される一方、すべての子どもに同じような効果が出るわけではなく、個々の状態や登校できない理由に応じて支援を組み立てる必要があるとされている。

親を支援するのは、親を矯正するためではない。

親が一人で責任を背負わず、子どもの状態を落ち着いて見られるようにするためである。

親が変わるというより、親も支えられる。

こちらの表現のほうが、実際の支援に近い場合も多いのではないか。

親が落ち着けば、子どもも落ち着くのか

家庭の緊張が下がれば、子どもが落ち着くことはある。

親の感情は、家庭の雰囲気に影響する。

だからといって、親は子どもの前でいつも冷静でなければならない、という話ではない。

子どもが何週間も、何か月も学校へ行けない。

進路が見えない。

昼夜が逆転する。

話しかけても返事がない。

親が不安にならないほうが不自然である。

「親の不安が子どもに伝わります」

とだけ言われると、親は不安を見せたことまで責めるようになる。

泣いてはいけない。

怒ってはいけない。

迷ってはいけない。

いつも正しく、穏やかに対応しなければならない。

そのような親であり続けることはできない。

必要なのは、不安を消すことではない。

不安を親一人で抱え込まないことである。

相談できる人をつくる。

学校との連絡役を決める。

夫婦だけで解決しようとしない。

必要なら、心理、医療、福祉、学習の専門家につなぐ。

親が子どもの前で完璧になるのではなく、家庭全体が孤立しないようにする。

そのほうが現実的である。

子どもが変わらないのは、抵抗しているからなのか

親が対応を変えても、子どもがすぐには動かないことがある。

声をかける回数を減らした。

スマホのルールも見直した。

学校との話し合いもした。

それでも、子どもは部屋から出てこない。

このとき、

「子どもが親の本気を試している」

「ここで親が折れたら負ける」

と説明されることがある。

確かに、子どもが新しい対応を警戒し、しばらく様子を見ることはあるだろう。

だが、動かない理由をすべて「親への抵抗」にすると、子どもの困り事が見えなくなる。

身体が動かないほど不安なのかもしれない。

授業の遅れが大きくなり、今さら戻れないと思っているのかもしれない。

学校で会いたくない相手がいるのかもしれない。

教室の音、人の多さ、におい、発表などに強い負担があるのかもしれない。

本人にも理由を説明できないことがある。

親の対応だけを見ていると、学校で何が起きているのか、本人の心身がどうなっているのかが後回しになる。

親が変わったのに子どもが動かないときは、親にさらに強い変化を求めるのではなく、見立てそのものを見直す必要がある。

子どもは、親の作品ではない

「親が変われば子どもが変わる」という言葉には、親が子どもの成長をつくるという前提が隠れていることがある。

良い親が、良い子をつくる。

正しい関わりが、正しい行動を生む。

けれども、子どもは親の作品ではない。

親から影響を受けながらも、学校、友人、教師、社会、本人の気質や経験など、多くのものの中で育つ。

親と違う考えを持つ。

親の予想とは違う道を選ぶ。

親が変わっても、親の望む方向には動かないことがある。

それは、子育ての失敗とは限らない。

子どもが、自分の人生を生き始めているということでもある。

子どもには、自分に関係する事柄について意見を表し、その意見を年齢や成熟度に応じて考慮される権利がある。子どもの意思をすべてそのまま通すという意味ではないが、最初から大人の結論へ動かす対象として扱ってはならない。

親が変わることで、子どもが親に従うようになった。

それだけを「子どもが変わった」と呼んでよいのかは、考えたほうがよい。

自分の気持ちを言えるようになったのか。

困ったときに助けを求められるようになったのか。

自分に合う学び方を考えられるようになったのか。

見るべき変化は、服従だけではない。

親が先に答えを決めない

不登校の子どもに対して、親は何とか道を示したくなる。

今の学校へ戻す。

別室登校を始める。

転校する。

通信制を選ぶ。

病院へ連れていく。

勉強を再開する。

どれも、必要な選択肢である。

ただ、親が先に答えを決め、その答えに子どもを動かそうとすると、親の変化は新しい管理方法になってしまうことがある。

以前は強く叱っていた。

今度は、心理学的に正しそうな言葉で誘導する。

表面の言葉は優しくなっても、結論は最初から決まっている。

子どもは、その違いを案外よく感じ取る。

大人が最終的に判断しなければならないことはある。

安全や健康に関わることを、子どもだけに任せることはできない。

しかし、

「あなたはどうしたい」

と聞いたあとで、大人の望む答えが出るまで聞き続けるのは、対話ではない。

親が変わるというのなら、自分の答えを押しつける方法だけではなく、子どもから予想外の答えが返ってくる余地も残したい。

学校の側が変わる必要もある

子どもが学校へ行けないと、家庭への助言が増える。

朝の起こし方。

生活リズム。

スマホの管理。

親の声のかけ方。

夫婦の対応。

もちろん、大切なものもある。

だが、家庭だけが変わり、学校は以前と同じでよいのだろうか。

教室に安心して過ごせる場所があるか。

授業についていけているか。

宿題の量は合っているか。

教師との関係に問題はないか。

いじめや孤立を見落としていないか。

別室や短時間登校などの選択肢があるか。

学校のルールや一斉指導が、その子に強い負担を与えていないか。

文部科学省は、不登校支援を学校復帰だけで評価せず、本人が進路を主体的に捉え、社会的に自立することを目標としている。また、一人ひとりのきっかけや継続理由を把握し、本人や保護者と話し合いながら、学校、心理、福祉、医療などが連携して支援を組み立て、状況に応じて見直すことを求めている。

親が変わることだけを求める支援は、学校や支援者が変わらなくて済む支援にもなり得る。

家庭に柔軟さを求めるのなら、学校や支援する側にも同じだけの柔軟さが必要である。

親を追い詰める支援は、子どもも追い詰める

「お母さんが変わらないと、この子は変わりません」

そう言われれば、親は必死になる。

自分の感情を抑える。

教えられた言葉を使う。

子どもの反応を細かく観察する。

間違えないように行動する。

それでも変化がなければ、自分を責める。

文部科学省の検討資料でも、保護者への働きかけが保護者を追い詰め、かえって状況を深刻化させる可能性が指摘されている。必要なのは、保護者を一方的に指導することではなく、対話を重ね、支援の方向性を共有して一緒に取り組む関係をつくることだとされている。

追い詰められた親は、余裕を失う。

余裕を失えば、子どもの小さな変化を待てなくなる。

いつまでに変わるのか。

なぜ言われたとおりにしないのか。

支援に払ったお金や時間を、無駄にしたくない。

その焦りが、再び子どもへ向かう。

親を責める支援は、巡り巡って子どもも責める。

だから親には、責任より先に支えが必要である。

親が変えるべきなのは、子どもではない

では、親は何を変えればよいのだろう。

子どもを思いどおりに変えるための技術ではない。

家庭の中で、子どもの困り事を話せる余地を増やす。

学校へ行くかどうかだけで、一日の価値を決めない。

できない理由を、怠けや甘えだけで説明しない。

学習の遅れを恐れるだけでなく、どこで止まっているかを確かめる。

親だけで抱えず、学校や専門機関へ具体的に助けを求める。

一つの方法が合わなければ、別の方法を探す。

子どもの今の状態から、将来の限界を決めない。

親が変えられるのは、こうした部分だと思う。

子どもを変えるのではない。

子どもが自分の力を使える環境へ、少しずつ変えていく。

その結果、子どもが動くことはある。

だが、いつ、どのように動くかまでは支配しない。

学校へ行けない日にも、育っているものがある

不登校になると、変化は登校日数で測られやすい。

学校へ行った。

行かなかった。

朝起きた。

起きなかった。

教室へ入った。

入れなかった。

しかし、子どもの変化はそれだけではない。

昨日までは何を聞いても黙っていた子が、

「教室の音が苦しい」

と言えた。

学校の話を避けていた子が、

「勉強は少しやりたい」

と言った。

親に反発するだけだった子が、自分から進路について調べ始めた。

一問だけでも、また考えてみようとした。

こうした変化も、大切である。

学校へ行けない日があっても、学びまで止める必要はない。

遅れた勉強は、一つずつ埋められる。

今の学年から始めなくてもよい。

理解できるところまで戻ればよい。

短い時間でも、考える経験を残す。

その子の中にある力を、外から新しく植えつけるのではなく、もう一度使えるようにつないでいく。

私は、そこを大切にしたい。

「親が変われば」のあとに、主語を戻す

親が変われば、家庭の空気が変わる。

親が変われば、子どもの選択肢が増える。

親が変われば、学校との関係が変わる。

親が変われば、子どもを急かさずに見られるようになる。

ここまではある。

しかし、子どもの人生の主語まで、親にしてはいけない。

親が変わったから、子どもは学校へ戻らなければならない。

親が努力したから、子どもは期待に応えなければならない。

そんな交換条件にしてはいけない。

親が変わることの目的は、子どもを大人の望む形に変えることではない。

子どもが、自分で考え、助けを求め、失敗しても選び直せる余地をつくることである。

「親が変われば子どもが変わる」は、半分は本当だと思う。

親が変われば、子どもを取り巻く世界の一部は変わる。

だが、その先にどんな変化が生まれるかは、親だけでは決められない。

だから私は、この言葉を使うなら、少し言い換えたい。

親が変われば、子どもが変わらなければならない環境から、子どもが自分で変わっていける環境に近づくことがある。

親にできるのは、そこまでである。

そして、そこまでできれば、十分に大きな仕事だと思う。


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