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情報の「神聖性」を剥ぎ取る。「団地」化するコミュニティとアンビエントな知性について

TaiTan氏が主催したトークイベント『二十』の振り返りにおける思考が、あまりにも示唆的だったのでメモしておきたい。

彼は、フライヤー1枚で200人を集め、10時間という熱狂的な空間を作り上げながらも、同時に従来の「トークイベント」という形式そのものに強烈な違和感を抱いたという。それは、マイクを持った演者がステージから一方的に「正解」や「オチ」のある話を提供する、あの一種の「男っぽさ」や「教える/教わる」という垂直的な構造への抵抗感だ。

そこで彼が提示した対案としてのメタファーが「団地」である。

団地。外観は無機質でクールで機能的だが、その中には生活の匂いがあり、井戸端会議があり、予期せぬノイズが充満している場所。

彼が目指しているのは、「知性」を「ありがたいコンテンツ」としてショーケースに入れて提供することではない。むしろ、生活の中に「雑音」として紛れ込ませることだという。食事をしていてもいい、寝ていてもいい、あるいは遊具で遊んでいてもいい。その背景で、賢者たちの対話がBGMのように流れている。

これは、情報を真正面から「消費」させるのではなく、「環境(アンビエント)」として浴びさせるアプローチへの転換だ。情報の「価値(あるいは解像度)」を意図的に下げることで、逆に情報の「身体性」を取り戻そうとする試みとも言える。

この視点は、自分の取り組んでいる事業のコミュニティ運営やブランドづくり 、サービス開発においても、非常に重要な問いを投げかけてくる。

私達は往々にして、顧客に対して「完璧な答え」や「洗練されたコンテンツ」を提供しようと力んでしまう。しかし、受け手が求めているのは、かしこまった「学び」や「感動」だけなのだろうか?

2010年代が、明確なアジェンダと熱狂を共有する「ビジネスカンファレンス」や「音楽フェス」の時代だったとすれば、これからの時代に求められるのは、もっと日常の延長線上にある「団地」的な場なのかもしれない。

主役は「コンテンツ」ではなく、そこにいる人々の「状態」そのもの。 自分が提供すべきなのも、熱狂させるための「装置」ではなく、人々がそれぞれのペースで居られるための「環境」や「空気感」の設計なのだと思う。

「ハレ」の日の祭りではなく、「ケ」の日を拡張するような、クールでウォームな場づくり。いかにして自分の事業にこの「隙」や「ノイズ」を許容する設計を取り入れられるか。情報の神聖性を剥ぎ取った先に生まれる、新しい信頼の形を模索していきたい。


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