【SS】よく似た女
第一章 始まり
個室の中、深呼吸をする。
練習を重ねてきたはずなのに、どうしても緊張が抜けない。
鏡に映る自分を見つめ、台本を手に取り、セリフを読み上げて言った。
「こういうところ、よく来るのですか。バーに来たのは、初めてなもので」
感情を乗せ、尚且つ滑舌やイントネーションなどを気にしながら、セリフを読み上げる。
役者として、今までに培った技術など本番ではなすすべがない。
緊張と失敗が入り混じる過去。
思い出したくない記憶。
それでも、女優『時花夕瞳子』の子どもとして女優を続けるには、数々の失敗を乗り越えていくしかない。
机の上に置いた鏡を見ながら、セリフを読み上げつつ、動作を取り入れる。
ここでは、こう。このときには、こう。
仕草を見ながら、頭の中にイメージを描きつつ、自然な演技を心がけた。
失敗はできない。
完璧な演技でもって、お客様の前に行かないと。
入念にセリフと演技を確認する。
これで十分だという自信はない。
けれども、人に𠮟責されることは慣れているし、完璧を目指すためには何を言われても耐えなくてはいけないとわかっていた。
理不尽だろうがなんだろうが、母からはそう叩き込まれている。
「お茶、買ってきました。そろそろ休憩されたら、どうですか」
マネージャーの二見川が部屋に入る。
ありがとう、と言って席についた。
お茶をもらって、一息つく。
時計を見れば、リハーサルまでは、まだ少し時間があった。
「今回のドラマ、結構評判が良くて、売れ行き次第ではシリーズ化の話も出ているそうです」
二見川が気を遣いながらも、ドラマの話を口にする。
今回のドラマはストーリーも凝っていて、いつものドラマとはまったく違う。
だから、こちらも演技に熱が入っていたのだが、二見川からそう言われては心中、嬉しくないこともない。
昨夜もSNSをこっそり眺めて、ファンのコメントを読んでいたのだ。
SNSにはアンチもいるものの、ドラマ制作発表からのコメントはおおむね好評で、個人的にもようやく胸を撫で下ろしたという感想が近い。
インターネット上に書かれていることは嘘もある。
真実は逆に少ないのかもしれない。
けれども、贔屓にしてくれるファンには、いつも頭が下がる思いだった。
「シリーズ化なんて、嬉しいですね。
できたら、の話ですけど」
少しだけ、うっとりした気持ちで言う。
「夢葉さんならできますよ!
出る作品が、ことごとく当たるんですから」
二見川に励まされ、ちょっと止めて、と言いつつも、わたしは嬉しい気持ちを押し隠せないでいた。
時花夢葉。
それが、わたしの芸名であり、誇りでもあった。
子役を続け、女優の子としてはあまり芽が出ない中、必死にここまで努力を続けてきた。
他の優れた役者には及ぶべくもない、まだまだひよっ子の類である。
ただし、これまで続けてきたことは無駄ではなかった。
決して、無駄ではなかったのだ。
そのことを報告できる母は、既にこの世にいないけれど、天国からわたしを見守って応援してくれているだろう。
母がいなければ、こうして仕事もできなかった。
感謝の思いが尽きることはない。
わたしは二見川に向けて柔らかく微笑むと、時計を確認しながら、リハーサルへ向かう準備を行った。
第二章 出会い
リハーサルに向かい、現場の方々に挨拶をする。
ハキハキした、十二分に快活な印象を与えることができるような、挨拶でなければ。
女優として、こういうところにも気を遣う。
母の口癖だった。
思えば、母は随分、自分自身に対して厳しい人だった。
挨拶を終えて、リハーサルの現場へと向かう。
まだ舞台はできておらず、俳優が立つ場所に簡素なマークが示されている。
台本を取り出しながら、マークと役者を照らし合わせる。
その確認を行っているときだった。
「あの、時花夢葉さんですか」
見慣れない女性が、突然に声をかけてくる。
咄嗟に、わたしはふり向いた。
外見を見て、一瞬、背筋が凍るかと思った。
セミロングの黒髪。
整った顔立ち。
ほっそりとした体形。
内側から輝くようなきめ細かな肌と良く手入れされたネイルの指先。
細い足に洗練されたデザインのパンプス。
引き込まれるような、薔薇を主としたフローラル系の強い香水の香り。
母――時花夕瞳子が、そのまま現れたような寸分たがわぬ出で立ち。
ただし、背丈だけは母とは違い、わたしは安堵のため息をついた。
目の前の彼女より、母は背が高かった。
「はい。
そうですけど」
わたしは彼女の姿を見た後に、ゆっくりと微笑んだ。
その後に、そっとつけ加える。
ファンであれば、こういう心配りが嬉しいものだ。
「驚きましたよ。
まるで、母が突然、現れたみたいで」
わたしの言葉に、彼女は薄っすらと頬を染めた。
外見を真似し、気づいてもらえたことに相当嬉しかった様子だ。
勿論、母のコーディネートを真似てくれる女性がまだいることに、わたしも嬉しくなってしまった。
母の目指してきたこと、女優として活躍してきたことは、いつまでも色褪せないままでいる。
「嬉しいです。
あたしも、いつか時花さんみたいな女性になれたらって思っていたものですから」
目を潤ませて言う彼女に、わたしは微笑みを絶やすことはなかった。
今回の現場で、彼女のように母を追いかけてくれた人と会うなど、夢にもおもわなかった。
「あの、あたし――」
「夢葉さん、そろそろ、あちらの方へ」
マネージャーの二見川が声をかけてくる。
おそらく新人である女性の方へ、少しうざったいような視線を向けた。
わたしは二見川に向けて軽くうなずくと、指示された場所へと歩みを進める。
緊張の面持ちで、わたしはリハーサルに臨んだ。
内心では自身の芝居がうまく行くように暗示をかけつつ、読み込んだ台本を手にスポットライトの下に立った。
第三章 カフェ
リハーサルが終わり、わたしはマネージャーとともに、あるカフェへ来ていた。
帽子を被り、サングラスをつけているため、相当に怪しい外見をしていると自分でも思う。
だが、マネージャーの二見川が横にいれば、それほど気にはならないだろう。
彼の体つきはがっしりしているし、傍目に見れば、彼の方が芸能人かジムのインストラクターのようにも見える。
いずれにせよ、目くらましとしては適任だった。
わたしはお気に入りのメニューとコーヒーを頼み、カウンターの端で待った。
二見川も何かしら頼んだらしい。
周囲に目配せするような視線を投げかけているが、少し神経質すぎないかと思う。
仕事熱心なタイプなのだろうと、内心、苦笑してしまった。
注文したものを受取り、二人で席についた。
帽子をソファの上に置き、コーヒーを飲む。
淹れたての香りが鼻をくすぐる。
仕事終わりとは言え、このカフェで飲むコーヒーはいつも格別だった。
選んでいるコーヒー豆といい、淹れ方といい、普通のコーヒーとは比べ物にならない。
少しだけ談笑しながら、ハムサンドに手を伸ばす。
野菜も分量が多いし、セサミ入りのブレッドが健康志向には嬉しい。
一口かじって、二見川の方を向いた。
二見川の後方に、スタジオで見た女性がトレーを片手に立っている。
わたしは、驚きで目を見開いた。
「あの、先ほどは失礼しました」
少し顔を赤くしながらも言う女性に、危うくハムサンドを取り落としそうになってしまった。
「ここ、いいですか」
先ほどの女性、母の往年の恰好を真似した女性が隣の席を指し示す。
呆然としつつも、二見川も同じ思いのようだった。
声を荒げることもできず、かと言って声をかけることもできず、じっと女性の方を二人で見て固まったまま。
女性は隣の席に座り、長い黒髪を指で耳にかけた。
その仕草でさえ、母を真似ているのだと、一瞬後になって気がついた。
「あの、どうされましたか?
別に邪魔する気はないので、そんなにじろじろ見られると恥ずかしいのですが」
女性の言葉に、ようやくのことで、先ほどから彼女をずっと眺めていたことに気がついた。
しかも、口をぽかんと開けながら、だ。
こういう経験はあまりない。
いや、初めてなくらいだ。
そもそも、彼女はスタジオにいたくらいなのだから、スタッフではなく新人なのだろう。
それにしても、与えてくる印象は強烈だ。
「ええと、お名前を聞いていなかったと思うのですが」
今更ではあるが、まず彼女の名前を知っておかなければならない。
マネージャーの二見川はとがめるような視線を送ってきたが、仕方ないだろう。
「あっ、あたし、夕森恋夢と言います。
今回、モブとして出演させていただく新人です」
にこっと笑いながら彼女は言った。
「この格好は勿論、時花さんを真似させてもらったものです。
あたし、ずっと前から時花さんが大好きなもので」
以前から、熱心なファンが母の真似をしているのは、よく目にしている。
ただ、彼女のように一部の隙もなく母そっくりな人を見たのは初めてだ。
唯一違っているのは、背丈くらいか。
「ここに来たのも偶然で。
本当に、ご縁ってあるものですね」
うっとりしながら言う彼女に、わたしは心底冷えるものを感じた。
手元に目を向け、急いで食事を終えてしまおうとする。
ハムサンドを食べ、嚥下をくり返す。
気づけば、夕森恋夢のトレーにも、まったく同じメニューの商品が置いてあった。
コーヒーにハムサンド。
いつの間に、同じメニューを頼んでおいたのだろう。
これはまったくの偶然か。
それとも、意図的なものなのか。
二見川に目配せし、わたしと彼は、いつもよりもごく早いペース配分で食事を行った。
食事を終えると、夕森への挨拶もそこそこに、カフェをあとにして自宅へと急いだ。
第四章 似ている姿
後日、スタジオに再び集まり、本番の収録を行った。
緊張はしたが、持てる全力を発揮できたはずだ、とは思う。
目深に無地のバケットハットをかぶり、鞄にしまったアクセサリーを耳と首元につける。
外に出るために、エレベーター前に立った。
横にはマネージャーの二見川が立っている。
このまま、こうした日常がしばらくは続くのだとは思う。
重いストレスと隣り合わせの日々。
それでも。
ぎゅっと片手を拳としてにぎりしめる。
わたしには、これしかない。
あきらめて、逃げ去ったり、立ち去ったりすることはできないのだ。
一瞬も。
エレベーターの階数表示が切り替わっていく。
同じ階でストップし、ドアが開く。
だが、乗り込もうとした瞬間、後ろから声をかけられた。
「あ、夕森さん!
ちょっと待ってください」
ふと、背後から声をかけられた。
ふり返ってみると、スタッフの人だった。
顔はまだよく覚えていないが、誰かのアシスタントの人として紹介されたのではなかったか。
「あ、ええと……その」
突然に困った表情をして、相手は恥ずかしそうに頭をかいた。
とてつもなく気まずそうにも見えた。
こうした状況には慣れている。
わたしは助け舟を出した。
「時花夢葉ですが――夕森さんと似ていましたか?」
「いや、それは……」
なおも気まずそうにしているスタッフに、言った言葉がまずかったと、こちらも恐縮の色を隠せない。
皮肉の意味で言ったつもりではなかった。
「ああ、多分、帽子のせいですね。
同じような帽子を夕森さんもかぶっていたのでは」
わたしが言うと、相手はますます気まずい表情を深くしていった。
「いえ、それが……」
だが、ようやく決心したように口を開く。
「実はですね、帽子だけではないです。
よく見たら、アウターのコートとジーンズ、スニーカーも……今日の夢葉さんのコーディネートと非常に似たものを夕森さんも着ていまして」
突然、背筋がひやっと凍るような思いがした。
偶然?
それにしては、嫌な感じがある。
「すみません、こんなことを言ってしまって。
気を悪くされないでください。
本当に、すみませんでした」
深く礼をした後、彼はその場を立ち去ってしまった。
わたしは当惑を隠せず、少しの間、立ち尽くしてしまった。
「夢葉さん、行きましょう」
二見川が、横から声をかけてきた。
いつの間にか、再度、エレベーターを呼んでくれた様子だった。
うなずいてエレベーター内に乗り込む。
冷や汗をかきながら、マネージャーとエレベーター内にいるのも気まずいものだった。
「さっきのこと――気にしないでくださいね」
二見川が静寂を破る様に、ぼそっと言った。
顔を上げて彼を見る。
「さっきのことって――夕森さんの話?」
二見川が無言のまま、うなずく。
「最近、密かに噂になっているんですよ。
夢葉さんと夕森さん、かなり似ていないかって」
「似ている?」
わけがわからず聞き返してしまった。
二見川が何のことを言っているのか、わからなかった。
「演技にしろ、服装のコーディネートにしろ、どうも似ているみたいで。
夢葉さんの変装の仕方もなぜか知っている様子でね。
相手も、その同じバケットハットを持っているようなんですよ」
二見川の言葉に動揺を隠すことができなかった。
変装の一種として、目深にバケットハットをかぶるのは、以前からしてきたことだった。
髪型も隠れるし、地味なファッションとして一般人の中にもまぎれやすい。
あまりにお手軽な変装方法だった。
だから、指摘されるまで、入手されにくい帽子で服装を真似されることに中々思い至らなかった。
「偶然ということは?」
「ないですね。
メーカーすら一緒らしいですよ」
再び気まずい沈黙が流れた。
二見川が腕を組み、神妙そうな顔で言った。
「聞いたところでは、ディレクターも彼女の後ろ姿を見て、一瞬、夢葉さんかと思ったそうなんですよ。
人のファッションを真似るにしても、何か怖いものを感じますね」
わたしは衝撃で頭の中が真っ白になったまま、彼の言葉を聞いていた。
エレベーターが小さい音を立てて、ボタンを押していた階へとたどり着く。
素早くドアが左右に開いた。
地下のひやりとした空気が、なぜか今は重苦しく感じられる。
わたしは、二見川と二人でエレベーター内から外へと出た。
こんな思いをするのは初めてだと思う。
地下に停めていた車に乗り込み、わたしは無言のままでいた。
スタジオ外でファンに追いかけられるのは慣れている。
けれども、まさかスタジオ内で意味のわからない追いかけ方をされるとは。
気づけば、わたしは車窓に写る外の風景に視線を向けていた。
ぼうっとした思いで、爪を噛む。
風景と二重写しのように、自分の姿が重なり、わたしはただひたすら、虚空を見つめる自分の姿を眺めていた。
第五章 ドッペルゲンガー
ソファから立ち上がり、キッチンへ行く。
ティーポットにお湯を注ぎ、温かいしょうが紅茶を淹れた。
はちみつを入れてもいいが、最近はミルクを少し入れるのがお気に入りだ。
トレイにマグをのせ、リビングルームへと進んだ。
部屋からは、先ほどスイッチを入れたままのタブレット画面から、声をひそめるような調子で心霊現象だの超常現象だのが語られている。
数ヶ月前から、お気に入りに登録していた番組だった。
ホラー風味であるが、軽くコミカルな場面もあり、楽しみながら番組を視聴できるので最近よく見ている。
しかも、今回の放送は『ドッペルゲンガー』に焦点を当てているらしい。
鬱屈した日常の中で、ほどよい非日常を体験したい。
そんな気持ちもあったのかもしれなかった。
わたしはマグを片手に番組を視聴する。
番組の画面が暗転したまま、『ドッペルゲンガー』というテロップが入る。
わたしは、期待に胸をふくらませながら画面を見つめていた。
「その日、私は夜の遅い時間に電車を降り、自宅へと向かっていました――」
男性のナレーションが聞こえ、投稿者の話を語るシーンへと番組は移っていった。
暗闇の中を歩く男性の後姿が写る。
「それは、残業が続き、肉体的にも精神的にも疲れていたときでした。
いつものように駅から自宅まで歩いて帰っていました。
そのときです、急に後ろから、足音が聞こえたのです。
おかしい、そう思って後ろをふり向きました。
けれども、誰もいません。
また歩き始めると、後ろから足音が聞こえる。
おかしい、おかしい。
そう思って後ろをふり向きますが、誰もいません。
私はなんだか急に怖くなってきて、足早に家へと向かいました。
ところが。
後ろから聞こえる足音も、急にペースを合わせてくるのです。
私は一目散に家までの残り距離を駆け出しました。
変だ。
おかしい。
何度も、そう思いました。
けれども、今度はふり返る勇気はありません。
なぜなら、相手も距離を空けず、後ろを走って来る様子でしたから。
私は、アパート2階にある自室へと階段を駆け上がり、手早く鍵を使ってドアロックを解錠すると、後ろ手にドアを閉めました。
部屋の中に駆け込み、ようやく膝の上に手をついて深呼吸をしました。
はぁっはぁっはぁっ…………。
息を整え、手の甲で汗をぬぐいました。
そのときです、ちらっと部屋の片隅に立てかけてある姿見を見たのは。
そこには私だけが写っている、はず、でした――。
よく見れば、息の上がった私の左肩の上に、細長い紐のようなものが置いてあります。
何本も、何本も――。
目を凝らしてみたところ、それらは人の指のようでした。
長く白い、骨ばった指のようなもの。
私は姿見を見ながら、左肩に手を這わせ、軽く揺すりました。
ただし、そこには何の感触もありません。
ほっと安心して、私が手を降ろそうとしたとき、急に手が、ぐいっと強く引っ張られました。
視界が揺れ、私の意識は霞がかったように、ぼうっとしました。
光の三原色のような赤青緑が、視界の端にちらっと砂嵐のように流れ、一気にすべてがゆっくりと感じられました。
ふわっとした浮遊感のあるまま、私は手を何者かにつかまれ、左後ろをふり返りました。
相手の正体を確かめるためです。
視線をそわそわと、自らの手から相手の首元へと移します。
誰かが――そこにいる。
はっきりと。
顔は見えない。
けれども、どこかで見たことのある既視感。
私は恐る恐る視線を相手の顔へと上げ――凍りつきました。
驚くべきことに――そこには、『私』が立っていたのです。
姿見に映したような、自分自身そっくりの『私』が――。
彼はニヤッと笑い、口を開けました。
サメのように刺々しい歯が奥までびっしりと並び、私は、くらっと立ち眩みのようなものを覚えました。
どさっと大きな音が、どこか遠くに聞こえました。
私は眩暈めまいのように意識を失い、左肩をつかんだまま、朝まで床に倒れこんでいたのでした――」
番組の風景が変わり、チャンネル主の男性が画面に映る。
「いかがでしたか?
世界には、自分とよく似た人物が存在していると言われます。
まるで生き写しのようによく似ていて、けれども、実際に会うと死んでしまうとも言われます。
ドッペルゲンガーは世界でも広く認知され、日本では分身や影法師とも呼ばれていました。
つまりは、自分とそっくりの分身であり、自己像幻視とも言われます。
人間は意識障害などにおちいるとき、様々な幻視があらわれやすいとされます。
人や動物、事物、風景など。
ましてや、それらが突然、目の前や自分の背後に現れたら。
――人生、後悔したくないですね。
もしも、幻視ではない人物が現実に現れたら。
誰かに『あなたと似た人を見かけたよ』と言われたら。
まずは相手と会う前に、逃げてみませんか。
それでは、またの放送でお会いしましょう」
放送が終了し、わたしはタブレットのスイッチをオフにした。
黒い液晶画面に自分の顔が映る。
なんだか、最近の自分自身に起きたことを取り上げられたようで気分が落ち着かない。
マグに手を伸ばし、既に冷え切ったお茶を飲む。
夕森さん、か――。
わたしは彼女のことについて思いをめぐらす。
今回のイベントに関係した仕事が転がり込んでくるまで、わたしは小さな仕事しかしたことがなかった。
憧れの俳優の背中を追いかけることはあっても、誰かから追われる立場になったことはなかった。
そのことが、夕森さんの悪意なき『ドッペルゲンガー』へとつながり、仕事になる度、心がざわついた思いがしていた。
真似られる。
そのことは別に、あまり嫌ではない。
ただし、仕事を万が一、彼女に奪われるようなことがあれば――それが一番、怖いのだ。
我知らず、マグをテーブルに置き、手をにぎりしめる。
負けたくはない。
どうしても今の立場を譲ることはできない。
ここまで、わたしがたどり着くことができたのは、母やマネージャーの二見川、事務所やファンに友達、俳優養成所の先生、そして仲間たち、いろんな人達の力によるものだ。
絶対に、負けていられない。
どうしても。
これは、母との――と思いかけて、ぐっと片手で左胸を押える。
誰にも、言ってはいけないと約束したはずだ。
誰にも、言ってはいけない秘密。
わたしのドッペルゲンガー。
母との、交わした約束。
誰の干渉も必要とはしない。
だから――現実は、このまま続かなくてはならない。
ずっと、ずっと、これから先いつまでも……。
顔を上げて、リビングルームの窓を見ると、振り込んだ雨がベランダのガラス窓を濡らしていた。
気づかなかった。
いつの間にか、外ではバケツをひっくり返したような激しい雨が降っていた。
第六章 微笑みがすべて
「夢葉さん、こちらへ」
二見川に言われて、わたしは顔を上げる。
どうやら、台本を見たまま少し時間がたったようだ。
寝ぼけてでもいたのか、直前までの意識が薄っすらとなかった。
ごまかすように、わたしは言った。
「ああ、わかった」
台本を大きなバッグにしまい、襟元や服のあちこちを手で直す。
窓へと視線を向けると、大降りの雨だけは今日も同じだった。
変わらずに、強い雨が降っている――。
「夢葉さん?」
二見川の声に、わたしははっとふり向く。
彼も別に急かしている風でもない。だが、どことなく心配しているような様子が見て取れた。
「ああ、大丈夫」
わたしは彼と目を合わせないようにして、視線を下げた。
仕事でもないのに、近しい人間に演技をするのは嫌いだ。昔から。
「……昨日のニュースのことなら、一旦、気にしない方が良いですよ」
彼の言葉に、わたしは
「本当に大丈夫だから」
と言って軽く微笑んだ。
嘘だ。
本当は、ものすごく気にしている。
それでも、わたしは、この日常を失うわけにはいかない。どうしても。
雨の音がやけに大きく聞こえた。
不安や悲しみを押し隠して、奪い去ってしまうかのように、雨はその勢いを止めることはない。
強く、激しく。
雨は窓ガラスを濡らし、高層階から見える景色を灰色一辺倒の煙めいた風景へと変えていた。
わたしはバッグを肩にかけ、引いていた椅子を元通りに直した。
――あたし、夕森と言います。
――ここに来たのも偶然で。
本当に、ご縁ってあるものですね。
あのときの彼女の言葉を思い出す。
だが、彼女は――彼女は……。
「夢葉さん?」
二見川の声が背後から聞こえた。
わたしはどうもぼんやりしたまま、目の前のテーブルを見ていたようだ。
「夢葉さん、元気出してください」
肩に手を置かれ、わたしは所在気なく視線をテーブルの上にただよわせたまま、彼の言葉にうなずいた。
「わかっている。
気持ちを切り替えなきゃね。
それでも……」
わたしは椅子の背もたれを、ぎゅっと手でにぎった。
「一人の人間の夢が断ち切られたことが、悔しくて」
それは、昨日の夜のことだった。
夕森恋夢さんの訃報。
突然にして、夕森さんは持病をこじらせて帰らぬ人となった。
事務所も持病のことまでは知らなかったらしく、本人は第二の時花夕瞳子ときはなゆめことなるため、日夜無理をしてまで演技を続けていたらしい。
代用がきくような役であったため、今回のような、ラジオドラマの仕事にさほど影響は出ない。
それでも、彼女とは一緒に仕事を続けたかった。
母を真似されても、それは嫌ではなかった。
わたしの私服を真似されたときは――さすがに、それは嫌だった。
苦痛だった。
それでも、わたしは彼女のことを心のどこかで気にかけていた――。
「今日はどこかで美味しいものでも食べましょうか。
勿論、俺のおごりです」
二見川が少し乾いた笑いとともに、励ましの言葉を言う。
彼の言葉はいつも素朴で飾り気がない。
だから、何を考えているかがすぐわかる。
『母』と同じ、純朴さがある。
いつまでも、彼の中には。
「いや、いいよ。
それは、別のときに取っておこうかな」
まいったな、という風に彼が頬をかいた。
そう、その表情。
もう、今のわたしができないその表情は、『母』のことを思い出させる。
くすっと、わたしは二見川に向けて微笑んだ。
かつての、時花夕瞳子という女優がしたような微笑みを。
彼に向けて。
あのとき――わたしの母は病床に横たわり、わたしが実の子ではないことを世間に絶対公表しないように約束させた。
当時の約束は、今までに誰にも話したことはない。
これから先も話すことはないだろう。
母が昔、大病をわずらって臓器移植を検討していたこと。
その際に、二見川の母親が時花夕瞳子のマネージャーであり、必死に手術先を探してくれ、母はようやく生き延びることができたこと。
だが、しばらく経って、二見川の母親はある男性俳優と恋をし、わたしが生まれることになってしまった。
マネージャーを辞める決心をした『母』だったが、それをわたしの母が引き留めた。
かくして、わたしは時花夕瞳子の実子として生きることになった。
『時花夢葉』という、生まれながらの役者として、この先ずっと生きることを運命づけられたまま――。
二見川が少し気恥ずかしそうな視線を向ける。
わたしはいたずらっ子になったような気持ちを覚えた。
こういう気持ちだけは、彼と出会ったときから変わらない。
女優の子として世間に公に認知される前に、わたしは自らの特徴的な声を様々な方法を活用して『矯正』した。
今では、どれが本当の声かすら、わからないくらいに。
その上、今回の仕事のように、女性キャラクターの声優を担当することもできた。
ここまで来るのに、どれだけ努力したかわからない。
どれだけ、泣いたかわからない。
辛すぎて、眠れなかった夜は何度もあった。
現在では『両声類』と呼ばれるような、そんな声。
昔は「女の子の声みたい」
と言われ、無口でいることが多かった。
役者としてのキャリアも揺らいでいた。
そんなときに、わたしは二見川と出会った。
声を変え、顔を変えた後に、唯一の弟である二見川と。
わたしの、唯一のドッペルゲンガー。
実の兄弟である彼と――。
どこにもない。
わたしだけが知っている。
わたしだけの密やかな『都市伝説』。
二見川に続いて、わたしは歩いて行く。
今日のスタジオは、直接、外に出て行く方式の場所だった。
スタジオの裏口と言えど、ファン達は期待に湧きながら、出待ちをしていることだろう。
だから、わたしは負けたくはない。
後ろを、ふり返ることはない。
どうしても今の立場を譲ることはできない。
愛するファンのため、そして、育ての母と実の『母』のために、わたしは役者、時花夢葉を一生演じ続ける。
誰もなり代わることはできない。
誰も演じることはできない。
一生涯に唯一。
わたしだけができること。
『わたし』を真似することなんて、できない。
誰にも。
絶対に。
ふっと柔らかく微笑んで、わたしはスタジオの外へと歩いて行った。
出待ちをしているファン達の歓声を、ただひたすら、一身に浴びながら――。
<了>
参考文献
株式会社平凡社. "自己像幻視". コトバンク. https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%83%8F%E5%B9%BB%E8%A6%96-1329975, (参照 2025-03-28).
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