【SS】変わるあなたへ
第一章 消えた面影
わたし、叶島美友花は戸惑った。
今まで、友達の弓莉はこんな風だっただろうか。
幼い頃は一緒の幼稚園、一緒の小学校で、昔の弓莉はもっとシャイで優しい子だった。
なのに、高校生になった今。
彼女からは、そんな面影がとうに消え失せている。
少なくとも、わたしには、そうとしか思えなかった。
「何?
何か気になることでも?」
わたしは弓莉に言われ、体を一瞬こわばらせた。
微笑みを浮かべ、彼女に向けて言った。
「う、ううん。
何でもない。
弓莉といると、いろいろ思い出すことがあって」
「昔、ね――」
弓莉が、なぜか苛立たし気に言った。
「そうだね。
あたしは美友花と違う高校だし、制服もセーラー服じゃないし」
わたしは、弓莉の苛立たしい気持ちが何だかわかるようだった。
高校受験を乗り越えれば、落ち着いた日々が訪れると思った。
でも、現実は厳しい。
みんな将来のことを考え、良い進学先、良い就職先と、日々ピリピリした思いでいる。
わたしだって、そうだ。
「その制服、あたしも着たかった。
でも、仕方ないよね。
あたしは頭悪いし、美友花と同じ学校には行けない。
中学校の頃の友達なんて一人もいない。
そういう高校に進学しなきゃならなかった」
わたしが通っている高校には、中学校の頃の生徒が何人か通っている。
でも、その子達は進学コースで、私のような普通科ではない。
そのように以前、弓莉に説明したが、同じ高校でしょ、と話を聞いてもらえなかった。
「でもね、弓莉」
わたしは力ない声ではあったが、話を変えようと口を開いた。
ただし、弓莉は感情的になったまま、わたしの言葉をさえぎった。
「あたしの高校はね、一人も中学校の頃の友達がいないんだよ。
なのに、いつも外見がどうだとか、彼氏がどうだとか、人をいじるようなことしか考えてない人間ばかりでさ。
入学したときから、『わたしたちは違う』って無意識に線を引いてきて、周囲の人を見下しているの。
美友花の高校とは、まるっきり違うんだよ」
わたしは、弓莉の言葉にうつむいた。
昔の弓莉であれば、こんなこと一言も言わなかった。
とても優しい子で、今みたいな冷めた目つきで人を見る子ではなかった。
昔はもっと、弓莉といろいろと話をすることができたのにな、と思う。
よくは覚えていないが、流行りのキャラクターやグッズ、学校や友達のことを話して、今よりずっと仲は良かった。
――もう、弓莉とはこれから、会えなくなるのかな。
そんなことすら思う。
弓莉の学歴コンプレックスと外見コンプレックスは相当強くなっているように思う。
以前は、そういったことが彼女の言葉に現れることもなかった。
でも、今は違う。
弓莉は他人と自分をいつも比べて、うまくいかないことに苛立っている。
わたしでさえ、その比較の対象なのだ。
昔と変わってしまった彼女を考えると、ため息しか出なかった。
「子どもの頃は――」
弓莉が少しだけ思い出すように言った。
わたしは思わず顔を上げる。
「子どもの頃は、あんなに『いつも一緒だよ』って言ってくれたのに」
微かに睨むような目で言われる。
わたしは突然のことに戸惑った。
「弓莉」
「もういいよ。
いろんなことが変わっちゃった。
ただ、そういうことなんだよね」
そのとき、弓莉が心の中で『美友花の嘘つき』と言ったような気がした。
勿論、それはわたしが思っただけ。
実際にはどこからもそんな声は聞こえてはいない。
けれども、わたしは弓莉の寂しさが直感的に伝わったようで、悲しかった。
弓莉が椅子から立ち上がり、ファーストフードのトレーをつかむ。
「じゃあね、美友花」
別れの言葉を言って、弓莉はそのまま店の出口へと向かった。
こちらをふり返ろうともしない。
わたしは、声をかけようと片手を握りしめた。
ただ、かける言葉が見当たらない。
弓莉は本当に変わってしまった。
昔の、わたしが知っていた頃の弓莉ではなく、全くの別人に――。
悲しくて、視界が揺れる。
弓莉が、わたしのそばから離れていく。
わたしはそのまま、店を出て駅へ歩く弓莉の後姿を目で追うことしかできなかった。
第二章 交換ノート
弓莉と別れた後、胸のどこかが痛くて悲しかった。
どうしても、現実を受けとめることができなかった。
わたしは昔と変わっていない、そう言えば良かったのに――。
駅へと向かう途中に、角を曲がり、100円ショップがある場所へと歩いて行く。
スーパーの近くにあるため、親子連れや仕事帰りに行きかう人で店はにぎわっている。
今では世界展開しているらしく、動画サイトなどでも安さを大きな魅力として商品を紹介している人が多く見られる。
日本ではない商品や、日本以外の国からの視点など、動画を見ていてもいろいろ驚くことが多かった。
扉を押し開けて、店内へと入った。
100円で購入できるものが、所狭しと棚の上に並べられている。
今は3月ということもあって、お花見や花粉症グッズなど、季節に応じた商品を店内で多く見かけた。
わたしは文房具売り場へと行き、ノートが並べられている一角へと向かった。
学校の勉強用に、わたしは未だにノートを愛用している。
どうしても紙でないと覚えられず、タブレット上でまとめても長期記憶として定着してくれない。
それに、子どもの頃から文房具売り場に来ることは好きだった。
可愛いシールやノート、リングファイルに、色付きの付箋。
最近では手帳やチェックリストなども売られているし、昔から根強いファンのいる情報カードも販売されている。
ラインマーカーも手軽に購入でき、手帳に細かく書いたことをラインマーカーで線を引いたり、シールを貼ったりするのが好きだった。
今でも、そうした習慣は残っているし、続けてもいる。
勉強用のノートを手に取ってかごに入れ、わたしは『交換ノート』と記された商品に目を向ける。
それは、親子でやり取りができる交換ノートだった。
親が書いたことに子どもが一言、二言書くことができる、双方向で交流できるノートだった。
わたしはノートを手に取り、こういうのがあると、親子での会話もはずむだろうな、と心がくすぐられる思いだった。
小学校の頃に、弓莉や同級生達と交換ノートをしていたことがあった。
各自でイラストを描いたり、日記を書いたり、こんなことがあったよね、あんなことがあったよね、とみんなで書いて、思いをつづって。
あの頃は良かったな、と本当に思う。
わたしも、あのときは弓莉と仲の良いままだった。
お互いにいろんなことを話して。
笑いあって。
今とは全然違う。
あの頃とは全く二人の関係は違うけれど。
あの交換ノート、いつの間にか誰かの手元に残ったまま、自然消滅的に終わってしまった。
多分、同級生の誰かが当時のことを懐かしむために、どこかへ持って行ってしまったのだと思う。
この先も何回も読み返したい、わたしでさえ、そう思ってしまうくらい出来栄えの良い交換ノートだったから。
ページをめくる度、じんわりした思いで胸が満たされるような、そんな不思議なノートだったから。
わたしは交換ノートを棚へと戻すと、会計へと向かった。
今では、交換日記もアプリで行ったり、デジタルなやり取りが日常を占めることも多い。
ただ、わたしは中性紙のさらっとした質感と厚みのあるシールの手触り。
カラフルなマーカーの線と処理を終えた証拠のチェックマーク。
それらを手で触って満たされる時間が好きだった。
まるで、一冊の本を自分で書き上げたような、そんな充足した時間だったから。
わたしはレジに向かう前に、ある棚の前で足を止めた。
それは、子どもの頃に大好きだったキャラクターのフレークシールだった。
女の子でありながら悪と戦い、一人だけではなく、友達と一緒に戦う。
わたしは子どもの頃にそんな主人公に憧れ、良く言動を真似していた。
母にも、あの頃の美友花はこうだったと高校生になってもからかわれるくらいに。
懐かしさのあまり、わたしは、ついフレークシールを手に取った。
ふいに笑みがこぼれる。
この年になっても、こうしたキャラクターシールを買うなんて。
わたしはレジに向かい、ノートとキャラクターのフレークシールを買った。
通学鞄に商品をしまうと、店の扉を押し開けて外に出る。
外はもう既に日が暮れていた。
店外へ足を向けると、急に誰かが横からぶつかった。
衝撃に視線をそちらへと向けた。
店内へ入ろうとする親子連れと、すれ違ったのかもしれない。
「あ、すみません……」
わたしは咄嗟に言って、顔を上げた。
見ると、そこには男の人が立っていた。
赤いキャップを目深にかぶり、オーバーサイズの黒いパーカーと黒いスウェット。
灰色のスニーカー。
おそらく、あまり睡眠を取っていないのか、彼の表情はすぐれなかった。
相手は背も高く、威圧感がある。
何を考えているのかも、わからなかった。
「……いや、こちらこそ……」
聞き取り辛いような小さい声で彼は言い、店内へと入って行った。
わたしは少し呆気に取られたが、もめ事を起こしたくはないため、黙って駅の方へ向かった。
肩にかけた通学鞄をもう一度、ずり落ちないようにかけ直す。
気持ちを落ち着けながら、家に帰ることだけを考えた。
第三章 変わること
家の近くまで来ると、共働きの母が既に帰宅しているようだった。
玄関や室内に明かりが灯っているのが見える。
「ただいま――」
玄関のドアを開けて、靴を脱ぐ。
急いでリビングルームに駆け込むと、母が夕食をつくっている最中だった。
「今日の夕ご飯、何?」
カウンターキッチンのため、リビングルーム横にキッチンが備え付けられている。
母の手元を見ると、今日は葉もの野菜の上にのった手羽先の照り焼きと揚げ豆腐。
ご飯とお味噌汁の献立だった。
美味しそうと思いながら、母に言われる前に
「着替えてくるね」
と言う。
自室がある二階へと急いだ。
「あっ、お姉ちゃん、おかえり――」
二階へ行く廊下で、小学生の妹、絵美花とすれ違う。
妹に
「ただいま」
と言って、わたしは二階へと駆け上がった。
ルームウェア、上下のツーピースに着替えて、髪はいつもシュシュでまとめるところ、今日は下ろしたままにした。
一階へと降り、わたしはリビングルームへと歩いて行った。
「美友花」
母が呼び止め、わたしに近寄る。
「今日、誰かと会ったの?」
「え、どうしてわかるの?」
わたしはそう言った後、すぐに理由がわかった。
今日は普段より少し遅く帰った。
だから、母は疑問に思ったのだ。
「弓莉とね……
今日の放課後会って話をしていたの」
そのときのことを急に思い出して、わたしは気分が沈んだ。
できれば、しばらくの間、思い出したくないことだったから。
「そう。
弓莉ちゃん、元気だった?」
母は言うものの、わたしは応えられずに髪の毛先に手を触れた。
彼女のことについて、詮索されても応えることはできない。
相手の調子がどうだったかなど、母に言うのは躊躇らわれた。
「――何かあったの?」
母が言い、わたしはうなずいた。
一瞬間を置いて、わたしは言った。
「弓莉、高校に進学してから違う子になったみたいで……。
もう、昔の弓莉じゃなくなっちゃった。
これから先、会うことができないのかもなって思う」
「そう……」
母はしんみりと言って、頬に片手を当てた。
「元気出してね、美友花。
高校生になれば、そういうことの一つや二つ、あるものよ」
「うん……」
なおも髪を触りつつ、わたしは母の言葉にうなずいた。
「ああ。
でも、わかるなあ。
お母さんもね、大学を卒業して独身時代が長くてね。
都会に出てずっと働いていたら、田舎にいた子達と疎遠になってね。
音信不通よ。
その子達が結婚したらお祝い金を持って行ったり、出産したらお祝い金を渡したり、ずっと連絡を取り合っていたのにね。
まさか、結婚したら連絡を取ってくれなくなるなんて思いもしなかったわ。
相手も忙しいだろうし、わたしも遠慮してね。
そうしたら、気づかない内に友達もどんどん変わっていって、実家に帰省したときに気づいてね。
どうも、その子達から上から目線で見られることが多くなって。
あるとき、一人で働いて暮らしている人は、普通じゃないって、嫌み交じりに言われてね。
それで、焦りだした頃にお父さんと出会って結婚することになったのよ。
それで、美友花と絵美花が生まれて……。
でも、連絡を取ろうとしても、その子達からは無視されてね。
お母さん、本当に悲しかったわ。
こっちは明るく接しているつもりでも、それが逆にとらえられてしまうこともあるものよ」
母の言葉に、わたしは新鮮な思いで聞き入っていた。
母の実家はここから随分遠いが、そんな事情があるなど少しも知らなかった。
「それで、今もその人達とは合っていないの?」
「ええ。
その子達とはそれから一切会わないようになってしまった。
それに、その子達が裏でいろいろ言っていたのを知ってしまったの。
本当にひどいの。
独身で仕事しかしてないのは頭がおかしいに決まっている、だなんて。
それでもう、絶交よ。
会いたくなくなってね」
母がため息をつく。
わたしは何度もうなずいた。
「お母さん、無理しすぎだよ。
そこまで人に優しくしていたら、疲れるだけじゃない」
「まあね。
でも、大人になると、そういう気遣いが大切なものよ。
それでもね、礼儀あっての人間関係だからね。
相手にしてもらったことを忘れて、恩を返さない人とは無理して会わなくてもいいの。
人は成長すれば、誰しも変わるもの。
美友花もね、これから先、どういう大人になりたいかを、よくよく考えなくてはいけない時期に来ているの。
弓莉ちゃんとは、予想よりも早く、そうなってしまっただけということよ」
母は言うと、わたしの背をリビングルームへと軽く押した。
「ほら、席について。
熱々の夕食を食べて、もっと元気にならなくちゃね」
わたしは母の言い方にくすっと小さく笑って、席に着いた。
妹の絵美花もリビングルームのソファから立ち上がって、席に座る。
今日は父の帰りが遅い日であったため、3人で夕食を先に食べてしまった。
主菜も副菜も美味しく、箸が進んだ。
母の手料理はいつも真心がこもっていて、ほっぺたが落ちそうだ。
わたしは夕食を味わった後、食器洗いを手伝い、自室へと戻った。
第四章 不審な影
部屋のベッドの上にあおむけになり、先ほど電子レンジで適温に温めたホットマスクを顔にのせる。
じんわりとした温かさが皮膚を通して伝わる。
こうしたグッズを使うのは社会人みたいで自分には早すぎるとも思うが、冷え性にならないように首元にパイル地の襟巻をつけたり、ふわふわした記事のハイソックスを履いたりもしている。
今は寒さも和らいだために着けてはいないが、ファッションだけは大人っぽさに憧れがある。
それも、外に出て行くファッションではなく、自室内で凝ることのできるルームファッションにだけ。
誰にも見せることのないファッションだからこそ、自由になりたいと願う。
きっと、そんな思いから来ているのだろう。
わたしの憧れは。
わたしも、大人になりたい、変わりたいと願っているに違いない。
無意識的に、心のどこかでは。
――弓莉。
心が疼いた。
どうしようもなく。
幼い頃の弓莉と会うことができれば、わたしはそれで良かった。
でも、母の言うように、大人になれば誰しも関係が変わっていくもの。
それを止めることはできない。
胸が痛い。
こうして様々なことが変わってしまうことが。
こんなにも、いろんなことが――。
わたしは体を起こし、窓の方をちらっと見た。
帰宅した際に窓にカーテンを引いたのだが、今見ると、カーテンがちゃんと閉まっていなかった。
立ち上がって窓辺に行き、カーテンの端をつかんだ。
偶然にも窓の外が目に映る。
わたしは何気なく家の外を見て、驚きに声を上げそうになった。
家の一階部分。
庭に当たる場所。
そこに、一人のおじいさんが立っている。
使い古したようなズボンに、しわくちゃなトレーナー。
白髪頭で、目鼻立ちはのっぺりとしている。
顔のしわに目鼻が埋もれ、両方の区別ができないくらいだ。
家の近所には人家はあまりなく、この場所は住宅街からも離れている。
だからこそ、近隣に住んでいる人の顔は見慣れている。
それでも、今、庭に立っているおじいさんの顔は知り合いの誰とも合致しなかった。
嘘。
一体、どこから、うちの庭に侵入して――。
わたしがおじいさんを見ていると、おじいさんが突然、こちらを向いた。
その上、気味の悪い表情で、わたしをじっと見ている。
わたしも、見知らぬおじいさんから視線が離せない。
怖い。
ぎゅっと手でカーテンの端をにぎった。
そのとき、おじいさんがこちらを見たまま、突然、にいっと不気味に笑った。
「いやあああああああぁぁぁっ」
恐怖のあまりに叫び、わたしはカーテンから手を離した。
足音が急にして、自室のドアが開く。
妹と母が急に入って来た。
「どうしたのっ」
「お姉ちゃん!?」
わたしは声を上げることができず、ただ、指で一階の庭部分を指し示すことしかできなかった。
窓辺からは数歩ぐらい離れたまま。
「誰か、いるの……?」
母がそう言い、わたしは無言でうなずいた。
咄嗟に母が窓辺に駆け寄り、下をのぞく。
だが、頭を左右に振って周囲を確認した後、再度、わたしの方を見た。
「美友花、誰もいないけど?」
「そんな、はず――」
わたしは母の後ろから、そろそろと窓辺に近づいた。
だが、母の言うことは正しかった。
窓の下――庭に、先ほどのおじいさんの姿はどこにもなかった。
「おねえちゃん、寝ぼけてたの?」
妹が不審そうに言う。
わたしは、きっぱりと否定した。
「ううん。
本当に、さっきまで知らないおじいさんがいたの。
庭に勝手に入ってきたみたいで――本当に見たんだから」
「そんな人がいたの、美友花」
母が心配そうに言う。
「うん。
本当に――」
「大丈夫か、美友花」
父があわてた様子で自室に入ってくる。
夕食後に父が帰っていたことに、わたしは少しも気づかなかった。
「お父さん、さっき庭に――」
ピンポーン。
突然、家のチャイムが鳴る。
それも一回限りではなかった。
ピンポーン。
ピンポーン。
わたしは恐怖に凍りついたまま、動くことができなかった。
母が窓は閉まっていることを確認し、カーテンを閉めた。
父の方を見る。
「お父さん、行きましょう。
わたし、携帯を持って、何かあったらすぐに緊急通報を押すから」
携帯の緊急通報。
緊急時に携帯にロックがかかっていても、押すことで緊急電話をかけることができる機能。
その上、設定次第ではGPSでの位置情報も追加して連絡することができる。
緊急時の電話番号のかけ方に困らないよう、以前に母が教えてくれたものだ。
こういうときに使用することになるとは。
わたしは喉の奥がごくり、と鳴るのを感じた。
「絵美花は部屋にいて」
母はそう言うと、父とうなずき合い、階下へと降りて行った。
わたしはどうしようか迷ったが、両親の後に続き、玄関へと向かった。
第五章 見知らぬ人
ピンポーン。
またもインターホンが鳴った。
胸の奥が、どくどくと早鐘のように鳴っている。
こんなことは初めてだった。
両親が玄関の様子を確認する。
玄関のドア奥には、どうやら男性らしき人の姿が見える。
だが、全体的に暗くてよくわからなかった。
父が母の方を見て、確認するようにうなずいた。
父はどこから持ってきたのか、野球のバットを手にしている。
一瞬、不安がよぎる。
だが、父はそろそろと玄関ドアに近づき、バットを持っていない手でカチャリ、とドアを開けた。
侵入者に向けて、父がバットを身構える。
だが、ドアの外に立っている人を見て、わたしは呆然とした。
「あ――」
思わず、相手に指を差してしまう。
それは、相手も同様だった。
わたしと同じく、口をあんぐりと開けて、こちらへ指を差している。
赤いキャップ帽。
オーバーサイズの黒いパーカーと黒いスウェット。
灰色のスニーカー。
今日、わたしが店を出ようとしたときにぶつかってきた男性。
その人が、今、玄関前に立っている。
わたしは何と言っていいかわからず、呆然と立ち尽くしていた。
「なんだ?
どうしたの、二人はもしかして知り合い……?」
父が気の抜けたようにバットを降ろす。
わたしは、うまく事態が呑み込めなかった。
「ええと、今日の夕方に、ノートを買いに行ったときに――」
わたしが話し始めると、相手が言葉をさえぎった。
「いや、その……
何と言えばいいか、妹がお世話になっています」
わたしは驚きに目を丸くして、言いかけたことを途中で止めてしまった。
父が
「妹?」
と、わたしと相手の男性とを見比べて言った。
「弓莉の――俺は兄なんです。
時々妹のことが心配になってSNSをチェックしているのですが、妹のSNSに彼女が写っていて……」
男性がわたしを指差すが、ぞっとして気分が一気に悪くなった。
彼も雰囲気を察したようで、あわてて言葉を付け加えた。
「俺は、弓莉の兄、弓登です。
いつも、弓莉の友達のことは弓莉から聞いています。
最近はよく無視されるけど、今度、子どもの頃の友達と会うんだって、あいつ、嬉しそうに言っていて――」
母が眉根を寄せ、父の方を見た。
携帯はいまだに、しっかりと手にしたままだ。
「――それで、どうしてうちに?」
母が言うと、男性――弓莉のお兄さんが片手で頭の後ろをかいた。
良く見れば、確かに弓莉とどことなく似ているものを感じる。
「うちのじいちゃんが、ここらへんに来たはずなんですが……
見ていませんか。
今まで追いかけていたのに、突然、見失ってしまって」
「おじいちゃん?」
父が言い、わたしの方を見た。
「美友花、さっき、おじいさんを見たって言っていたよな」
「う、うん……」
わたしは庭の方を指差して言った。
「のっぺりした顔のおじいさんが、突然、庭に立っていて。
目が合ったときに、こっちをにやっと見て笑っていて。
あのおじいさんは、もしかして」
「多分。
いや、おそらく、うちのじいちゃんです。
認知症で、家から突然出て行ってしまって。
ご迷惑をかけて、本当に申し訳ないです」
弓莉のお兄さんが帽子を取って、頭を下げた。
やっと、わたしはあのおじいさんが庭にいた理由がわかった。
幽霊なんかではない。
ましてや、わたしだけに見えた存在でもなかった。
「ええと……
庭のどこらへんにじいちゃんがいたか、教えてもらってもよろしいでしょうか。
まだ、じいちゃんがどこかにいるかもしれないので」
両親とわたしは一旦、家を出て庭へと言った。
弓莉のお兄さんも一緒だ。
三人で庭に立ち、おじいさんの目撃情報を細かく彼に伝える。
お兄さんは聞き上手のようで、つたないわたしの話しぶりでも、何度もうなずいて聞いてくれた。
もしかしたら、相当におじいちゃん子で、普段からおじいちゃんの話をよく聞いている人なのかもしれない。
わたしの話が終わった後、庭中を確認したが、おじいさんの姿はどこにもなかった。
残念そうな表情で、お兄さんがわたし達の方を見る。
「じいちゃんのことを教えてもらって、探してもいただいて、本当にありがとうございました。
それに――」
お兄さんが、私の方を見る。
「その、妹と会ってくれてありがとうございます。
あいつ、今、大好きなじいちゃんに存在ごと忘れられたことにショックを受けていて。
すごく傷ついているんですよ。
家でのじいちゃんの介護も見ていられないって。
あいつ、いつも部屋で泣くんです。
年を取ったら変わるのが普通だし、ボケてても、じいちゃん自体は昔とさほど変わったところはないんです。
話し方も性格も昔のまま。
それでも、妹の存在を全部病気のせいで忘れてしまった。
そのことが、非常にショックみたいで。
ずっと、そのことを受け入れられずにいるんです、あいつ。
あたしのことをじいちゃんは忘れた、全部忘れてしまったんだって言って。
最近、すごくヒステリックになったりもして」
お兄さんが辛そうにうつむいた。
大好きだったおじいさんの変化に、弓莉がついていけないのは無理はないだろう。
わたしでさえ、もし同じ状況になったら、どうなっているか予想もつかない。
「――だから、時々、弓莉のこと思い出してやってください。
そういうことができるのは、あいつの子どもの頃からの友達にしかできないことですから。
俺も最近、どうして良いのかわからないんです。
妹から段々と避けられて、兄弟で話をすることができないくらいで。
帰宅したら、すぐに部屋に引っ込んじゃうし。
今のあいつと関われるのは、あいつの友達だけなんです」
お兄さんはそう言って、わたしを見て微かに微笑んだ。
わたしは何だか、遠い存在になった弓莉のことが、霧が晴れたように、やっとわかったような気がした。
その後、お兄さんの携帯に警察から連絡が入り、交番におじいさんがいるとのことだった。
ほっと胸をなでおろして、両親とわたしは家の中に再び入った。
わたし達の声に、安心したように妹の絵美花が二階から顔をのぞかせる。
心配させたわねと、母が妹を気遣うように声をかけた。
「お姉ちゃん、大丈夫だった?」
「うん、大丈夫だよ」
わたしは妹に笑顔を見せ、自室へと戻った。
ベッドの上に寝転がり、天井を眺めた。
ふと、横を見ると、今日買ったフレークシールが手帳とともにベッドの上に置いてあった。
帰宅したときに、放ったままにしていたのだった。
フレークシールを手に取り、天井の照明にかかげるようにして眺めた。
「いつも一緒だよ」
思い出した。
子どもの頃、大好きだったキャラクターのセリフ。
このフレークシールのキャラクターが言っていた。
もう一人の相棒であるキャラクターに向けて、ピンチのときに傷つきながらも手を差し伸べ、そう言っていたシーン。
覚えている。
このキャラクターが大好きで、子どもの頃は、よく真似していた。
『いつも一緒だよ』って言っていた。
子どもの頃。
わたしは、弓莉にこのセリフを言っていた。
いつも二人は一緒で、それが永遠に続くと思っていた。
恐れ知らず。
大胆にも、子どもの頃に数えきれないほど、弓莉に言っていた。
何度も。
何度も。
ずっと二人はあのときのまま。
一緒のままだと信じて――。
今とは違う。
昔のときの二人のようには戻れない。
けれども、まだ間に合うのではないだろうか。
心の底で、疼くようにそう思った。
弓莉の言葉。
弓莉のお兄さんの言葉。
積み上げてきた時間。
たくさんの思い出。
忘れられない。
忘れることのできない過去。
視界がにじんだ。
目の端に浮かんだ涙を、そっと手の甲でぬぐう。
これから、どうしよう。
どうすればいい。
様々な考えが脳裏をよぎる。
でも、わたしが思うことは――。
フレークシールをかかげたまま、わたしは心の中で彼女に向けて言っていた。
彼女がどう応えてくれるか、わからないけれど。
――弓莉。
このキャラクターのこと、今もまだ覚えている?
〈了〉
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