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カモかもいやカモじゃないかもペルー 2009年6月2日

(はじめに)
 人生初、陸路で国境越えを果たし、エクアドルから隣国ペルーへ。以前の日記にある通り、エクアドルの旅は、最初とても楽しんでいた。しかし、体調を崩してからは、町や宿の不潔さに嫌気がさしたらしい。この日記にも文句を書いている。さて隣国ペルーはいかに。
 移動について補足する。南米やアフリカでは、乗り合いタクシーによく乗った。10人乗りくらいのワゴン車に、客を詰められるだけ詰め込んで、いっぱいになったら出発する。ワゴンが1台あれば始められる商売(営業許可など存在するのだろうか)みたいだから普及したのだろう。多くの途上国で、メインの交通手段として発達していた。
 これまで日記に乗り合いタクシーの記述は出てこなかったのだが、この日記に初めて出てきた。エクアドルにもありそうなもんだが、もしかしたらペルーで初めて乗ったのかもしれない。まだ乗り合いタクシーの仕組みに警戒している感じが表れている。

2009年6月2日
ペルー、トゥンベスにて

 まずエクアドルのマチャラで朝食をとる。町と宿の汚さにうんざりしていたが、この朝食が安くて満足感があったおかげで、少しマチャラの印象が良くなる(ちょっとだけど)。こんな些細なことが案外、町や国の好き嫌いを決めてしまうのかな、と思う。

 マチャラから約1.5時間で、エクアドル側の国境の町、ウアキージャス(Huaquillas)に着くが、イミグレーションを通り過ぎてしまったらしく、再び長距離バスに乗り、来た道を少し戻る。イミグレーションでいとも簡単にパスポートにスタンプをいただき、タクシーで再び国境へ。エクアドル側でタクシーを降りる瞬間から、ペルーのコレクティーボ(乗り合いバス)の客引きが、声をかけてくる。胡散臭いなあと思いつつも、しつこく話しかけてきて、やたら愛想が良い。ここがまた胡散臭いのだけれど。ペルーの国旗の描かれている簡素なゲートを歩いてくぐると、そこはもうペルー。となりで客引きがまだしゃべり続けている(うるさい)ので、感慨にひたる間もなく人生初の国境越えとなる。

 何もわからないので、仕方なく客引きの彼についていくと、空き地に置かれたボロいワゴンを指さし、「さぁ乗った!」といやに陽気に言う。胡散臭い、と思い、「またあとで、バイバイ」と言い、立ち去ろうとすると、何やらわめきながらついてくる。名前を教えたのが間違いで、「トザン!トザン!(注:本当は本名が書かれているが、便宜的に冬山登山の名前を使うことにする)」となれなれしく名前を呼んでくる。通りかかったケーサツと話せば諦めるかと思い、ケーサツと色々話してみた。でも客引きの彼は一向に平気な顔でそばにいたので、ちょっと警戒心が解けて、彼の話に乗ることにした。トゥンベスの町まで、運賃は5USドルとのこと。やたらと親切に色々案内してくれるんだけど、胡散臭い。「両替はバンコ(銀行)でやりな!」とか言っていた。

 ワゴンが発車して、ドライバー(こいつはさらに胡散臭い。途中ペルー側のイミグレーションを通ったが、やたらと焦っていて、皆を「早く、早く」と急かしていた。車に何かヤバいものでも積んでいるのだろうか)が突然来た道を逆走し始めた。何かな、と思っていたら、ガソリンスタンドに入っていった。しかしガソリンを入れる様子はない。いったい何なんだ。

 その後は順調かと思いきや、再び別のガソリンスタンドに入る。するといきなり、「20USドルよこせ」と言ってきたので、「5ドルってゆったじゃん」と言うと、「20ドルをとりあえず70ソル(ペルーの通貨)にチェンジマネーしよう」と言う。そこから運賃の15ソルを引くから、という。これを実行するまで、10分ほどかかった。

 一応トゥンベスまでちゃんと連れてきてくれた。なんだいい奴らだったのかもと思い、「スペイン語しゃべれなくてごめんねー、ありがと」と片言のスペイン語で伝えて別れた。

 しかしその後、奴らが両替してくれた50ソルをレストランで出すと、「これはニセ札だ」という。ちきしょうやりやがったな。と思ったが、ニセ札を生まれて初めて見たのでちょっとうれしかった。でも全然ニセ札に見えなかった。まったくペルーの紙幣を見たことがないから判別なんてできない。試しに宿でそのニセ札をもう一度出してみると、意外にもあっさり使えた。奴らは結局、善か悪かどっちだったんだ?

 トゥンベスの町をぶらぶらする。気のせいか、エクアドルで感じた不潔さがないような気がする。バイクにシートを取り付けたモトタクシーの数が異様に多い。そういや昼食に食べた海の幸いっぱいのガーリック風味のチャーハンも、とても洗練された見た目をしていた(エクアドルにはなかった感じ)。

 トルヒーヨという町へ行くバスのチケットを買い、モトタクシーの運ちゃんに、インカ帝国の征服者ピサロが上陸した地だというプエルト・ピサロまで往復7USドルで行ってくれるよう話をつける。そこまでは思ったより遠かった。運ちゃんはいい人だった。夕日のために逆光になった船とカモメと港の風景を、一緒に眺めた。彼は煙草を吸っていた。

 運ちゃんとおしゃべりしながら(といっても彼がスペイン語でずっと話しかけてくれただけだが)トゥンベスの町に戻り、満足して宿に戻る。近くに中華料理屋「若井」という店があり、そこで夕食を食べる。若井なのに中華なのはなぜ?日本人だろ、若井は、と思って中に入った。ドルで支払いができるか店員と交渉していると、「日本人?中国人?」と聞くので、「ハポン(日本)」と答えると、彼は日本語を話し始めた。「これは鳥、これは…忘れた!」とメニューの説明をしてくれる。彼のお父さんは日本人で、静岡に住んでいたことがある、とのことだった。久々の日本語と、やや薄味なのがちょうどいい中華料理と、ジャスミン茶と箸に満足して夕食を終える。ジャスミン茶には茶柱が立っていた。会計のとき、彼はおつりを少し多くくれて、「気を付けて帰ってください」と言ってくれた。なんと幸先の良いペルーのスタートだったことだろう。しかし油断は禁物!

 宿で水しか出ないシャワーを浴びる。水シャワーがこんなに気持ちのいいものだとは思っていなかった。水しか出ないシャワーには、意味があったのだ。薬局で石鹸を買ったときも、文房具屋でセロテープを買ったときも、日本人?と聞かれ、やさしくしてもらえた。こんなに近いのに、エクアドルとは別の国に来たのだなぁと感じた。どっちがいいとか悪いとかは別として。

(日記を書き起こしての感想)
 ペルーはきっと少なくない数の日系移民が暮らす国だけあって、国境を越えたとたん日本人にまつわるエピソードが出てきた。僕はわりと最近になって南米への日系移民について、ある程度の知識を得たが、旅行中はたぶんそれほど知らなかったと思う。中華料理屋「若井」の店員のお父さんも、日系移民だったのだろうか。南米への日系移民には、太平洋戦争前に行った人もいれば、太平洋戦争の後に行った人もいた。太平洋戦争後に行った人となると、満州から引き揚げてきた人が、戦後の日本でなかなか居場所を見つけることができず、再び海を渡って南米に行ったケースが結構多かったらしい。どちらにせよ、さまざまな苦労があったことだろう。
 中華料理「若井」はまだあるかな、と思って、Googleマップで「tumbes」「wakai」で調べてみたら、何となく見覚えのある中華料理の写真とともに、「Chifa Wakay」という店が出てきた。まだ営業しているのかもしれない。ストリート・ビューで見ると僕の記憶の中のお店より、外観が随分きれいになっていたし、周囲も発展していた。
 観光名所でもなんでもない、ペルーの町の中華料理屋を見て、自分は随分と遠くの地に行ったことがあったのだなぁと、しみじみ思うと同時に、自分はほんとうにここにいたのかなぁと、現実味のない、不思議な感覚を覚えた。

冬山登山

コロナ禍,半地下のアパートの一室で弾き語りと曲作りを始める.
2023年5月ライブ活動を開始.
2024年3月HIP LAND MUSICによる「FRIENDSHIP.」のサポートを受け1st Single「千の丘の国」をデジタルリリース.
2025年5月初のワンマンライブを開催.

★Apple Music、Spotifyほか各種サブスク音源はこちら⇒https://friendship.lnk.to/MaybeItsADuck (2nd Single「カモかもね」)

★ライブ情報はHP下部へ
https://tozanfuyuyama.studio.site/

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