「母の味、最後に食べた日を覚えていますか」
母の味、最後に食べた日を覚えていますか
母の味、最後に食べた日を覚えていますか。
私は、思い出せません。
「もう一度、あの味が食べたい」
そう思うことはあるのに、
最後に食べた日だけが、どうしても浮かんでこないのです。
何月何日だったのか。
どんな会話をしていたのか。
思い出そうとすると、そこだけぽっかり抜け落ちている。
きっと、特別な出来事ではなかったからです。
記念日でもなく、
ごちそうでもなく、
ただの、いつもの夕食。
その終わりを考えることはありませんでした。
子どもの頃、食卓は「あるのが当たり前」の場所でした。
学校から帰ると、台所から包丁の音が聞こえてくる。
湯気の立つ味噌汁の匂いが、部屋の奥まで流れてくる。
「今日のごはん何?」
そう聞いて、
好きなものならうれしくて、
苦手なものなら少しだけテンションが下がる。
それでも結局は箸を取り、目の前のごはんを食べる。
どうしてそれがそこにあるのか、なんて考えもしなかった。
お腹が空いた時間に、食べるものが出てくる。
それだけで、世界はちゃんと回っていました。
作ってみて、はじめて気づいた違和感
大人になって、自分で料理をするようになったときです。
あの味を、もう一度食べたくなったのは。
味噌汁なら簡単だと思いました。
出汁を取って、味噌を溶くだけ。
煮物だって、調味料を合わせれば、それらしくはなる。
きっと、近いものは作れる。
そう思っていました。
一口食べて、すぐにわかりました。
違う。
濃いわけでもない。
薄いわけでもない。
ちゃんとおいしい。
なのに、どこかが足りない。
それなのに「これじゃない」と思ってしまう
「これじゃない」
その感じだけが、はっきり残るのです。
あの味は、料理だけじゃなかった
しばらくして、やっと気づきました。
あの味は、料理だけじゃなかったのだと。
思い出そうとしたとき、浮かんでくるのは味より先に、
あの部屋の空気だったり、
テレビの音だったり、
誰かの声だったりする。
少し熱があって、布団から出たくなかった日の雑炊。
帰りが遅くなった夜に、まだ温かかった味噌汁。
寝ぼけながら食べた、少し甘い卵焼き。
あのときの自分ごと、全部一緒に残っている。
同じ味にならないのも、無理はありません。
料理だけを真似しても、
そこにあった時間までは、持ってこられないのです。
少しずつ変わっていたことに気づく
久しぶりに実家へ帰ったときのことです。
食卓に、見慣れた煮物が並んでいました。
ほとんど記憶のままの見た目で、
匂いも、あの頃と変わらない。
一口食べて、少しだけ引っかかるものがありました。
「あれ、ちょっと味変わった?」
そう聞くと、母は何でもないように言いました。
「最近は薄味にしてるのよ」
ただそれだけのことなのに、妙に残る言葉でした。
そのとき、ふと思ったのです。
ああ、この人も変わってきているんだな、と。
母の味は、ずっと同じだと思っていました。
いつ帰っても、同じ味がそこにあるものだと。
本当は、少しずつ変わっていたのでしょう。
体調に合わせて、
年齢に合わせて、
暮らしに合わせて。
変わっていなかったのは味じゃなくて、
それに気づかずにいられた時間のほうだったのかもしれません。
母の味は、料理じゃなかった
気づけば、台所に立つ時間が少し減っている。
「今日は簡単なものでいいよ」
そんな言葉が増えている。
そういう変化は、あとから振り返ると見えるのに、
その中にいるときには、なかなか気づけません。
ある日ふと立ち止まって、思うのです。
もう一度、あの味が食べたい、と。
母の味は、料理じゃなかったのだと思います。
料理なら、また作れる。
材料をそろえれば、似たものはできる。
あの味には、
台所に立つ背中があって、
何も言わずに出されるタイミングがあって、
同じ時間を過ごしていた空気がある。
それごと全部で、あの味だった。
同じものは、もう作れないのです。
それでも残っていくものがある
全部がなくなるわけではありません。
同じ味にはならなくても、
受け取っているものは確かにある。
体調を気にすること。
食べやすくすること。
好きなものを覚えておくこと。
そういうものは、気づかないうちに残っていく。
同じ味にすることではなく、
同じように誰かを思うこと。
それが続いていくなら、
母の味も、どこかで続いていくのだと思います。
もし、まだ間に合うなら
もし、まだ間に合うなら。
そう思うことがあります。
もっとちゃんと味わっておけばよかった。
もう少しだけ、台所に立つ時間を一緒に過ごせばよかった。
本当に大事だったのは、そこだけではないのかもしれません。
今日のごはんを、ちゃんと食べること。
「おいしい」と、きちんと伝えること。
それだけで、十分なのかもしれません。
最後に食べた日を覚えていないということ
母の味は、最後に食べた日を覚えていない。
それは、少しさみしい。
同時に、
すごく幸せなことでもあったのだと思います。
終わりを意識しなくていいくらい、
当たり前にそこにあったということだから。
今日、もし食卓にごはんが並ぶなら、
ほんの少しだけ、ゆっくり食べてみる。
それはきっと、
味わっているというより、
誰かが積み重ねてきた時間を、
そのまま受け取っているのだと思います。
そしていつか、
どうしてあのとき、
もっとちゃんと味わわなかったんだろうと
思い出す日のために、
その一口は、静かに残っていくのだと思います。
