英語の本質は音と意味
英語学習でインプットを重視すべきか、それともアウトプットか?その黄金比は?みたいな議論は盛んにおこなわれています。そして、僕がnoteをはじめとしたインターネット界隈を観察した限りですが:
インプット最強!派
アウトプット最強!派
黄金比はこれだ!派
の3パターンのいずれかに収束することがほとんどです。
ただ、インプットかアウトプットかという論点そのものが不毛であると僕は考える派であり、上記3つのいずれの主張も的を得ていない、もともとの論点がズレていると感じています。今回はこのあたりの話を、発音や音楽などとからめてしてみたいと思います。
この記事の主張
まず、この記事を書いている「そっちゃそ」の主張をクリアにします。
インプットとアウトプットの比率はどうでもいい。本人がインプットが好きならインプットすればいいし、アウトプットが好きならアウトプットすればいい
インプットはアウトプットのためになる。アウトプットはインプットのためになる
割合や比重関係なしで、結果的にみんな似たような技能習熟度に到達する
インプットもアウトプットも、英語の音と意味の関係性の理解に貢献する
インプットとアウトプットの本質
インプットもアウトプットも、運用される英語の音に触れ、トレーニングするための手段です。どちらも共通の目標である音とその意味の理解に貢献するトレーニングであり、バランスについて考えるのはナンセンスです。
インプットばかり、あるいは、アウトプットばかりしてると何かが損なわれる、みたいなことはありません。インプットは音からの意味の抽出、アウトプットは音による意味の表現であり、たんに逆再生なだけです。AとBをバランスよくこなすと考えるのではなく、AもBも共通目標のCの達成に貢献する、と考えるのがよいはずですし、インプットもアウトプットも共通目標である音と意味の理解に貢献します。
インプットは情報を仕入れること、アウトプットは自分の中で情報を処理して何かしらの形で表現することです。そして英語の場合は:
インプット=音から意味を仕入れること
アウトプット=意味を音で表現すること
であり、ポイントは次のようになります。
まず、インプットとアウトプットは順方向と逆方向の違いでしかありません。インプット=音から意味、アウトプット=意味から音、です。方向性が違うことを除けば、インプットとアウトプットは本質的に等価である、とみなせます。インプットとアウトプット論争は、本質的に等価なふたつを無理やり対立させて盛り上がっているだけのお祭りであり、これが、インプットかアウトプットかの議論が不毛であると僕が感じる理由です。
また僕は、リーディングとリスニングの区別、および、ライティングとスピーキングの区別を特に設けていません。一見音を介在しないリーディングやライティングも、脳内では必ず音による処理が行われているため、ここに区別を作る意味があまりないからです。
このような、「インプットとアウトプットは等価」、および、「RとLの区別、WとSの区別はない」と言うふたつの命題から、4技能で分けることはナンセンスであり、音と意味だけで考えるべきだ、という以降の僕の主張につながります。
英語の実体は音
英語は音楽であり、英文は楽譜です。楽譜は、作曲者が作った曲を後世の人が演奏できるようにするため、あるいは、作曲者が伝えたい楽曲のメッセージを他の人が味わえるようにするために存在しますが、英語でも同じことが言えます。
英語の実体は音であり、英文はその英語の音が紙に書き残された(記録された)ものです。英文の機能は楽譜と同じで、後世の人や、地理的に遠くにいる人、あるいは、不特定多数の人たちがそれを読み、書き手が表現する「音」を正確に再現できるようにするために存在します。
そして、音で表現されるのが「意味」です。意味とは何かというのは哲学的な話なので踏み込みませんが、「発信者と受信者の間で想起される共通のイメージ」くらいに考えてください。
また、あたりまえですが、意味やイメージは目に見えません。意味は、音という媒体を介してのみ伝達可能な概念であり、「これが僕が伝えたい意味です。ハイどうぞ」とは決してなりません。
※もちろん、音ではない手段、たとえば絵画のようなアートでメッセージを伝えることはできますが、それはあくまでもメッセージ「性」があるというだけで、ぶれなく正確に意味を伝達する手段としては、「音」が最も正確です。
楽曲と譜面の対応関係
「鶏が先か、卵が先か」という言葉があります。一方が存在する理由がもう一方に依存していて、それが堂々巡りになっている様子がみとめられるとか、何かしらのふたつの要素に因果関係らしきものが認められるが、どっちが原因でどっちが結果なのか、よくわからないときにつかう言葉です。
さて、「楽曲が先か譜面が先か」と問われたら、どう答えますか?譜面を見てそれを演奏するのだから、譜面が先とも言えそうですし、作曲者の頭の中にある楽曲を譜面に落とし込むのだから、楽曲が先ともいえそうです。
ただ、これは「鶏が先か、卵が先か」問題ほどは難しくなく、「楽曲、つまり音で表現されるそれそのものが先です」、と断言できます。譜面→演奏と考えれば譜面が先に来ると捉えることができそうですが、譜面→再表現と考える、つまり、譜面として記録されたものを再びもとに戻す、復元する、再現する、と考えれば:
作曲者による表現→譜面譜面→演奏者や歌い手による再表現
というふたつの流れがあることがうかがえます。再表現とは、オリジナルの作曲者が伝えたかった表現を、その人になったつもりで再び表現することであり、単にもとに戻しているだけであるため、ここに堂々巡りの関係はありません。
英文を読むときに考えること
楽曲→譜面という流れ、および、譜面に記録された音の再表現という流れは、発音のコンテキストにもそのままあてはめることができるはずです。
意味を担う音がまずありきで、それが記録されたものが英文である、そして、英文を読むとは、オリジナルの表現者が出した音、およびそれによって伝達される意味を再表現し、これを味わうことである、と説明できます。「英文を読むとは、その英文の著者が表現した音を自分で再表現して、これを味わう」といってもよいはずです。
ここで、現実の何かを「記録」するさいに私たちがすることを思い出してみてください。音楽CDに保存される音声データや、パソコンやスマホの中に保存される画像データにはかならず、「解像度」が設定されています。これは、オリジナルからどれくらいの頻度で「サンプリング」するかを表しているといっておおよそ問題なく、このサンプリング感覚をどの程度にするかで、記録された情報にどの程度の劣化が入るかが決まります。ご存知のように、解像度を荒くすると容量は減りますが、ノイズなどが入るためオリジナルの再現度としては悪くなります。
さて、「英語を読む」という話に戻りますが、「紙切れに記録された英文を読む」という話の場合、音声データや写真データのような、どうしでも避けられない品質の劣化はまず発生しません。また、ビデオテープやカセットテープのように、時間の経過に伴い品質が劣化するといったこともまず考えらえず、英文を読むことでオリジナルの音をいつでもどこでも、劣化なく再現することは可能です。
オリジナルの音は劣化なく再現できるのですから、私たちが英文を読むときにはなるべくそれをするように、つまり、著者になりきったつもりで、音楽を演奏するかのように英語を再表現すべきだと僕は思います。発音学習を僕が推しているのはそのためであり、「高い再現度で演奏するためのすぐれた手段のひとつ」が発音学習であるからです。発音学習とは、楽器を獲得することである、といってもいいと思いますし、それは当然、この記事のメインのメッセージであり、「音と意味の関係性構築」の構成要素になります。
発音といっても中身はさまざま
発音は、ローカルな特徴とマクロな特徴にわけることが可能であり、母音や子音がどうのこうのという話はローカルな話、アクセントやイントネーションといったいわゆるメロディ的要素はマクロな特徴です。ここに、ことばの間の空白、表情、身振り手振りなど、さまざま要素が重畳してきます。
発音とは、口の形とか舌のポジションとか、そのような話だけではないということです。音楽にたとえるなら、この鍵盤をおすとドの音がなりますよ、というのはきわめて具体的でローカルな知識ですが、それが音楽のすべてではないことは、なんとなくわかると思います。
音楽の面白いところは、ドレミのそれぞれの音がどの鍵盤の位置に対応するかを知ることではないですよね。そうではなく、全体として奏でられるメロディを味わい、楽しむことに重きが置かれると思います。
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