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【語学】正しい学習法という矛盾

「あなたが英語を習得できないのは正しい方法、正しい順番でやっていないから、正しい方法とは…」みたいな流れを広告とかでみたことはありませんか。「正解はこっちにありますよ~」とやさしく誘導して、「その人のために助けてあげる」みたいなテイストで流れてくるコンテンツのことです。

今回はこれに関連して、「正しい学習法」というものを求めてさ迷い歩くのはやめよう、という話をします。10,000文字以上の長文記事です。


正解の確認はシンプルである

正解のない世の中なんて言われますが、正確に表現するなら、正解とされていたことが正解ではなくなってきた、になるはずです。これまで拠り所にしていた常識や価値観がブレはじめたね、ということ、正解がある問題とない問題で構成されるポートフォリオのバランスが変わってきたということであり、これは、正解がある問題がゼロになったことを意味しません。

正解であるとみなせる話はまだあるわけで、気にするべきは、正解がある問題とない問題の扱い方の違いです。「水は酸素と水素からなります」という命題は正解であり、「水はイッテルビウムとプロトアクチニウムからなります」という命題は不正解ですが、ここに、「正解は人それぞれです」みたいな文言は干渉してくる余地は、まずなさそうですよね。

「水は酸素と水素からなります」のような、正解の地位を得た普遍的真理が、秘密にされたり隠されたりすることはたしかにあるのですが、それがどこにあるかまで不明である、というケースはまずないです。たとえば、コカ・コーラのレシピは企業秘密になっていますが、それがアトランタにある、という情報はオープンになっています。アトランタの銀行の金庫に保管されているコカ・コーラのレシピをみれば正解がわかる、つまり、「それはできないが、それをすれば正解がわかる」ということは言えます。

つまり、「正解がある問題の正解に関して、少なくともそれを突き止めるために必要な要件や要素は、ふつうはすぐにわかる」とまとめることができそうです。裏を返すと、「だれが言っていることが正解なのだろうか」というかんがえが頭に浮かんだ時点で、つまり、正解の所在がクリアではない時点で、「その問題に正解を与えられないこと」が確定します。

正解を得ることは簡単だし、みんなやってる

正解のある問題で正解を得ることは簡単です。インターネットに代表されるようなテクノロジーのおかげで、正解のある問題の正解を得ること自体は誰でもできるようになっています。最近話題に上がる生成AIもそうで、AIは、正解がある問題の正解にたどりつく手段としては優秀です。

たとえば、青色確定申告の方法、証券口座を開く方法、NISAやiDecoの使い方などには、正解と言っても差し支えない「解」は、インターネットでいくらでも見つかります。そこにたどりつくこと自体は誰でもできますし、それをじっさいに理解できるかは別として、正解がどれなのかわからない、正解がどこにあるのかがわからない、という事態になることがありません。

他にも、電車が何時に出発するかとか、富士山の登山口に行くにはどのようにいけばいいかとか、調べればすぐにわかる確定的情報を得ることは現代ではとても簡単になっています。ここで苦労する人は、ほぼいないでしょう。

正解を得るためにコストや費用、労力がかかることもありますが、その場合でも、それをすれば正解に難なくたどり着けます。「現場を見に行って確認する」などがその典型で、生の情報(=正解)を見るのは手間だがその代わりに、高い精度の正解が得られるということです。正解のためのコストについては後述します。

「山手線の終電」をネット検索すると、NAVITIMEやJR東日本のサイトがヒットしますが、その中の情報を見れば山手線の終電が何時何分なのかは、すぐわかりますよね。そして、その情報を一度確かめることがもう完了したのであれば、もうそれ以上なにかすることはなくなります。正解がある場合はその場所がクリアであると言いましたが、そのため、我々の行動様式は、「正解のある場所に行き、それを見たら動きは止まる」というものになります。

また、これは一般的傾向ですが、視座が低いほど正解の輪郭はクリアになります。たとえば、床に水をこぼしたとき、Suicaの残高がなくなりそうになったとき、終電を逃してしまったとき、のような、視座が低い具体的なシーンにどう対応すればよいかというのは、「正解」がありますし、そこに悩むことはまずありません。仮に、それがわからないのであれば、それこそ生成AIのようなツールにたよればいいわけです。

ためしに、Suicaの残高がなくなりそうなときに何をすればいいかに対する回答を生成AIで出してみたら、百点満点で文句なしの正解が出てきました:

Suicaの残高がなくなったら、駅の券売機やコンビニでチャージを。改札通過後不足時は精算機を使うか駅員に相談。

生成AIの回答

正解は「取引」である

真偽の性質とは信念の性質であり、また、その真偽は「事実との対応関係」をたしかめることで確認されます。事実との対応関係がない信念はたんなる妄想、机上の空論、フィクションであり、その場合、「それは誤りですね」とドライに判断し、結論付けることができます。

さて、ことが正解であるかを確認するために何をすればいいかはすでに説明したようにかんたんにわかるのですが、それを実際にやる場合に大きなコストや労力がかかることがあります。たとえば、宇宙の果てはどうなっているかを確かめるには宇宙の果てにいけばよいですが、それには膨大なコストがかかりますよね。また、コカ・コーラのレシピを例に出しましたが、どうあがいても、どんなに労力やコストを払っても正解にたどり着くことが無理な場合もあります。

正解の授受にはそのような労力やコストがかかるため、情報の精度や確度を保証する場面、つまり、正解の受け渡しをする場面はしばしば、取引的性質がつよくなります。たとえば、マイクロメーターを使っても文房具の定規をつかってもモノの長さは測定できますが、その際、(定規よりも値段の張る)マイクロメーターを使う場合の方が精度はよくなりますし、正解に近づきやすくなります。これは、高額なコストを支払ってより精度のいい正解に近づくという取引であると解釈できます。

取引される精度の結果は、命題として表現された文に現れます。たとえば、「この試料の質量は10gです」と、「この試料の質量は10.00gです」の場合、後者は前者の完全上位互換であり、正解の精度としては後者がすぐれていると客観的に判断でき、これはマイクロメーターと定規の話と同じです。正しさや精度とは取引のなかでやり取りされる便益の一部であるという解釈は、いい線いっているのではないかと個人的には思います。

横道ですが、「正解・不正解」のやりとりで話がかみ合わなくなるのは多くの場合で、「取引ミスマッチ」が原因であるはずです。相手が何をどれくらい求めているかを察してそれを与えるのは難しく、WIRED の、~in 5 Levels of Difficulty のシリーズなどをみるとよくわかります:

ボウリング場の教え魔のように、頼まれてないのに懇切丁寧にアドバイスしてしまう人種もいますが、それも「取引が未成立の段階で正解の授受をしてしまう」というミスマッチの一例です。教える・指摘するとは、関係の中での取引行為ですから、「聞かれてもいないのに得意げに教える」というのは基本的にやめたほうがいいはずです。

また、一方的に何かを要求したりするのもミスマッチになります。一定水準以上の精度や確度を求めるならば、それ相応の対価を差し出すのが通常であるとすでに述べましたから、「正しい情報をよこせ」と言いながらクレクレ君になるのも変です。ネットの知らない誰かが自分の欲望・欲求を無料で、無限に満たしてくれると考えてしまうのは危険で、いわゆる、「モンスター顧客」と本質は同じです。あれもこれも尽くしてもらうのが当然、と考えてしまうのはいただけません。

ここで僕が言いたいのは、「情報は正しくなくてもいい」ということではありません。正しさというのは、それをやり取りする二者間で決めて定めるものであり、取引でやり取りされる価値に付与される便益のひとつが正しさであるということです。

「正解がない」の意味をもう少し詳しく

対して、「正解がない問題」には、ちょっと調べただけでは解決できないという、異なる特徴があります。

まず、正解がない問題は、「どうでもいい問題」と「重要な問題」に分けることができます。たとえば、「コーヒーしたいけど近くのスターバックスにすべきかドトールコーヒーにすべきか」は、正解がないどうでもいい問題です。正解がないどうでもいい問題には、テキトーに対処するのがほとんどでしょうし、リソースを割く意義もありません。そもそも、「それが判断を必要とする問題である」とすら意識されないかもしれません。

人間は1日あたり3万5,000回も「判断」をしているらしいのですが、そのほとんどが無意識的な判断であるといいます。たしかに、そんな数の判断を合理的にやっていたら疲れるでしょうし、それは納得です。この3万5,000回の中に含まれるのが、「正解のないどうでもいい問題」と考えていいはずです。

さて、ケアしないといけないのは、「正解がない重要な問題」についてなのですが、ここでいう「重要性」は、その人自身の価値観や状況、文脈で変わります。たとえば、発音をある程度仕上げたこの記事の著者である「そっちゃそ」にとって発音学習はもはや重要ではありませんが、発音学習に手を出していない英語学習者にとっての発音学習は、重要な論点になるかもしれません。

他にも、「英語学習すべきか」という問いには正解はありませんが、これも上記の話と同じで、その人のビジョンや価値観と照らし合わせないと、最終的な判断は下せません。極論すると、英語学習をしたくないという素直な本音がある人が英語学習をするのは「間違っている」わけで、そのような判断を下せるかどうかはその人が何を考えているのかを見ないとわかりません。「これからは英語が重要になる!」のような、世間の声をいくら聞いても、その人が英語学習をすべきかという、正解がない重要な問題には対応できません。

「客観的、合理的に解を導けないが、なんかしないといけない、なにもしないわけにはいかない」という状況が正解がない重要な問題であり、そのような状況は多くの人にふりかかるはずです。答えがないのだからどうしようもないではなく、答えがないなりになんとかしないといけない、ということです。これは:

  • 正解がある:個人の価値観、感性、直感に依存しない

  • 正解がない:個人の価値観、感性、直感に依存する

とまとめることが可能です。正解がある問題とない問題を大きく分かつのは、その人自身の価値観や考えが介在するかどうかである、と言い切ってもいいと思います。

また、上記の話から必然的に誘導されることとして、自分の中の価値観や筋がびしっと定まっていないと、正解のない問題にいざ直面したときに何もできなくなる、ということがあります。自分の中にビジョンがあれば、正解がなくても確固たる決断を下すことは可能ですが、これがないと正解のない問題に対して身動きがとれなくなります。「正解探し」を常態的にしてしまう人は、価値観がブレている人の典型です。

これは、主観と客観の取り扱いの違いの問題であるとも説明できます。合理的に解が決まるということは、誰の景色から見ても同じ解にたどりつくということであり、それはきわめて客観的です。対して、その人の視点、つまり主観でしか対応できない問題に客観をあてがうことはできず、その問題に対処できる人はその人自身しかいません。これが、「正解のない問題」の正体です。

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