意見と感想の違い
僕は、ネットで価値あるコンテンツをつくるためには、役立つ意見を置くことが大事だと考えていますが、そのためには、意見と感想の違いをクリアにして、感想を置かないようにする必要があります。今回はこの話をします。
意見とは何か、感想とは何か
意見と感想は似て非なるものです。デジタル大辞泉の定義によれば:
意見:ある問題に対する主張・考え。心に思うところ。
感想:ある物事に対して心に感じ思うこと。
です。大きな違いは、問題(論点)があるかの違いで、論点があれば意見、なければ感想です。また、意見⊂感想と言っても良いと思います。論文を書くときにはかならず「テーマ」がありますが、論文の書き始めに定められるテーマも、論点の一形態です。
そして、論理的かどうかは関係ありません。問題に対する考えであればそれは意見であり、直感的意見、なんとなくの意見、仮説的意見も意見として成立します。
論点がよければよい
ネット上の感想は無意味です。匿名の誰かが感じたことに興味を示してくれる人はゼロで、感想が有益な情報として機能することはないです。
感想が価値を生むのは、感想を言った人自身が有名人である場合や、感想の集合体(レビューサイトの統計、Amazonの星の数の分布など)がマクロな情報として機能する場合などの特殊な場合です。
問題(論点)のない感想は無価値であり、たとえば、論理的にツナ缶への愛情を解説したとしても、有益な意見にはなりません。ツナ缶はコモディティ食品であるという認識が一般的で、論点がなく、ツナ缶に対する問題意識を持つ人はいないからです。
逆に、うまい論点を見つけて言語化し、明確なポジションを見出せるのであれば、匿名の素人でも価値を出せます。この際、その意見が仮説的でも、間違っていてもよく、というのも、うまい論点を見つけてポジションをとった時点で十分な仕事を果たしているからです。
課題設定能力という言葉があるように、論点を見出すことは難しく、論点をクリアにした時点で価値を達成しています。論点から始めるという話は、ロングセラー本の「イシューからはじめよ」を読むとわかります:
論点を整理しないことの恐ろしさ
意見の表明における問題、論点の選定は死活的に重要であり、これを誤るとどうでもいいことに無限に時間を消耗することになります。
「永久機関の取り組み」がその好例です。永久機関をいかにして実現するかというのは歴史上重要な論点でしたが、熱力学の三法則からそれが実現不可能であることがもう現代においては確定しており、今それをしようとする人はいません。事実特許庁は、永久機関に関する発明出願を特許法第29条第1項柱書に基づき「自然法則に反する」として拒絶していますし、省庁から禁止されるほど無益で発展性のない取り組みであることはもう確定しています。
永久機関の取り組みや錬金術などは、「結果的に科学に貢献した」のですが、それは偶然であり、それらの取り組みそのものからは意図した成果をなんら生み出していません。論点を整理しないことの怖さはここで、多大なリソースの投入の結果が何も生み出さないことが「確定」してしまうからです。
また僕はよく、思考全体のプロセスを「三角形の内角の和」を例に出して説明することがよくあるのですが、誰もが中学で一度はやったはずである、三角形の内角の和の証明を例にとると、論点を基軸にした思考の流れがわかります:
三角形の内角の和はどうなっているか(論点の設定)
内角の和は常に180度になります(ポジション・仮の解)
証明の手続き(たてたポジションの妥当性の確認)
これが論点思考における意見の表明の流れなのですが、この3ステップの直線的な流れの上流側で何かがおかしくなると、それ以降の下流側のすべてがかならずおかしくなります。課題設定・論点設定で堅牢な関所のようなものを設けるべきであるというのは当然であり、それをさぼると、いつまでたってもそこから波及するおかしな結果に振り回されてしまいます。このことは、永久機関の話、錬金術の話と同じです。
冒頭で、「論文のテーマ」を例に挙げて説明しましたが、卒業論文や修士論文などを書いたことがある人であれば、論文のテーマについて指導教官とたくさんディスカッションした記憶があるはずです。言い換えると、文章の文体やてにをはなど、「文章そのもの」について尺を取って議論したという経験がある人は、あまりいないはずです。
なぜテーマにあれほどまでの手間や時間を使う、使ったのかというのも、ここまでの話からわかるはずです。「堅牢な関所を設けること」についてはすでに触れましたが、その、「関所」の役割を担ってくれているのが、指導教官なわけです。問題設定・課題設定能力というのは、指導教官のようなトップにたつ人物にとっては必須の能力のひとつです。
また、ここまでの話から、感想を言うことはとてもかんたんである一方、意見を言うことはそうではない、ということも理解できるはずです。
感想は、「おもしろーい」とか、「ウケる」みたいな、たんなる反応を口にすればいいだけですし、なんなら、LINEのスタンプとかをポンと押すだけでも表現できます。一方「意見」の場合は当然そうではなく、ここまでで説明したような「論点の精査」がかならず必要になります。「自分がいまなんの話をしようとしているのかを自分で理解する」ことは意見の表明で必須であり、これが難しいわけです。「ウケる」の一言ですむ感想の表明とはまったく本質が異なります。
論点のずれは永遠に解消されない
ずれた論点を設定すると下流がおかしくなると言いましたが、このおかしくなる結果は、頑張ればもとにもどる、という感じではありません。論点のずれは「遡って」解消するのが策であり、これは、とにかくモーレツに頑張るというやり方とは異なるものです。
「努力が肝心」、「継続が肝心」みたいな耳障りがいいだけの言葉を使うことが僕はあまり好きになれないのですが、その理由に、「それだけでは本質的な問題を何ひとつ解決できないから」というのがあります。論点がずれた状態では、努力や継続を100万年かさねようがなにも生まれませんし、何も変化しません。努力がや継続そのものにフォーカスして、「で、結局なにをどうしたいのですか」という質問への対応がおろそかになっていないかは、常に確認する必要があります。
なんでもかんでも常識を疑え、のスタンスでやっていくのはさすがに疲れますが、自分のなかでなにか違和感がぬぐえないのであれば、それは、「前提を疑った方がよさそう」なよいインディケーションになります。言い換えると、その違和感を無視することが、大きな機会損失になるかもしれないということです。
ものごとは上流から下流に流れる川のようにすすみますが、「違和感を起点にして前提を疑う」というのは、いうなれば川を逆走するようなものです。上流に移動して川の流れを変更し、全体としての大きな流れを根本から直すことに対応します。
うまい論点とは何か
必然的に、うまい論点とは何かという話題になるのですが、それは、「それを解決した後のインパクトが大きい論点」です。これは別の記事でも説明しているのですが、世の中の人たちがはしゃぐときに持ち出すトピックの多くは論点もどきで、うまい論点ではありません。永久機関の実現は、重要な論点で「あった」と述べたのですが、そのように言えるのは、それが実現できればエネルギーの問題をいっきに解決できる、という夢のような目論見があったからです。
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
