アカリウム創作大賞 応募作品|また、僕は生き延びてしまった
本作品は以下の投稿作品の内容になります
8900文字という大作ですがどうぞお読みください。
挿絵は3枚あります。
世界にも、眠りたい夜があります。
人が長い一日を終えて瞼を閉じるように、花が季節を終えて種を落とすように、世界にもまた、終わりを迎えるための静かな時があるのです。それは悲劇ではありません。終わりとは、壊れることではなく、役目を終えたものが次の灯へ場所を譲ること。少なくとも、あの世界はそう信じていました。
そこは、英雄のいない世界でした。王の名を讃える歌もなく、魔王を討つ剣もなく、空から降る神託もありません。ただ、朝になれば市場が開き、昼には子どもたちが走り、夕暮れには家々の窓に灯りがともる。そういう、どこにでもある世界でした。
その街に、リオという青年がいました。
彼は印刷工房で働いていました。古い活字を磨き、紙を揃え、町の知らせや店の札、誰かの祝いの招待状を刷る仕事です。剣も握らず、魔法も使えず、誰かに選ばれたわけでもありません。けれど、彼は毎朝、妹のためにパンを一つ余分に買いました。
それだけで、その世界にとって彼は十分に大切な人でした。
工房の朝は、いつも紙の匂いから始まりました。湿気を吸った紙は少し重く、乾いた紙は指先を切りそうなほど軽い。リオはその違いを、誰に教わるでもなく覚えていました。職人というほど立派なものではない、と彼はよく言いましたが、妹のミナはそのたびに笑って首を振りました。

「紙を見ただけで天気が分かる人を、職人って言うんじゃないの」
「それはただの年寄りみたいな特技だ」
「兄さん、まだ若いでしょ」
「腰はもう若くない」
「それ、昨日も言ってた」
二人がそんな話をしていると、工房の戸が勢いよく開きます。入ってくるのは、向かいのパン屋の女将でした。腕には焼きたてのパンを入れた籠を抱え、いつも決まって「ついでだから」と言いながら、頼んでもいない余り物を置いていきます。
けれど、リオは知っていました。
それは余り物ではありません。女将は毎朝、ミナのために少し柔らかめのパンを一つ焼いていました。ミナは幼い頃に熱を出してから、固いパンを食べると喉につかえやすくなったのです。本人はもう気にしていませんでしたが、女将だけはずっと覚えていました。
「ほら、今日のは柔らかいよ。嫁入り前の娘さんに、歯が折れるようなパンは食べさせられないからね」
「女将さん、それ毎日言ってる」
「毎日言うくらい大事ってことさ」
ミナは頬を赤くしながら礼を言い、リオは黙って代金を少し多めに渡しました。女将はそれに気づいていながら、気づかないふりをしました。そういうやり取りが、この街にはいくつもありました。
市場へ行けば、魚屋の老人が今日も売れ残りを嘆き、花売りの少女が婚礼用の花を見繕い、役場の書記が掲示板に貼る告知の誤字をリオに直してもらおうと工房まで走ってきます。
「リオ、すまない。至急だ」
「またですか」
「今回は私じゃない。上の者が書いた」
「前もそう言ってました」
「今回もそういうことにしてくれ」
リオはため息をつきながらも、結局は直してやりました。役場の書記はいつも申し訳なさそうに頭を下げますが、次の週にはまた同じように紙を持ってきます。ミナはそのたびに、兄さんは文句を言いながら断らないよね、と笑いました。
この街には、大きな事件などありませんでした。誰かの鶏が逃げたとか、隣家の洗濯物が風で飛んだとか、祭りの旗の色で老人たちが言い争ったとか、その程度の出来事が日々を満たしていました。けれど、そうした小さな出来事こそが、世界を世界として保っていたのです。
鐘楼の老人も、その一人でした。
彼は毎夕、決まった時刻に鐘を三度鳴らしました。一度目は店を閉めるため。二度目は子どもたちを家に帰すため。三度目は、今日も一日が終わったと世界に知らせるため。
リオが紙束を運んでいると、老人は鐘楼の下からよく声をかけました。
「リオ、今日は妹さんの招待状か」
「ええ」
「なら、字は大きくしろ。年寄りにも読めるように」
「招待するんですか」
「呼ばれなくても行く」
「それは迷惑ですよ」
「祝い事に迷惑も何もあるか」
老人はそう言って笑いました。リオは呆れた顔をしましたが、その日の夜、招待状の文字を少しだけ大きくしました。ミナはそれに気づきませんでした。けれど、鐘楼の老人はきっと気づいたでしょう。彼はそういう人でした。
薬草師の青年は、ミナに会うたびに緊張していました。
彼は街外れの小さな薬草小屋で働いていて、いつも袖に草の匂いを染み込ませていました。声は小さく、目を合わせるのも苦手で、リオに挨拶するときなど、まるで裁判にかけられる罪人のような顔をしていました。
「リオさん」
「はい」
「その、ミナさんを……大切にします」
「当たり前だろ」
「はい」
「そこで震えるな」
「すみません」
ミナは隣で笑っていました。
「兄さん、怖い顔しないで」
「してない」
「してる」
「してない」
薬草師の青年は、そのやり取りを見て少しだけ笑いました。リオはそれを見て、この男なら悪くないかもしれないと思いました。頼りない。けれど、ミナの笑顔を見て安心する男なら、少なくとも彼女を泣かせるために生きる人間ではないだろうと。
婚礼の準備は、街全体の小さな祭りのようになりました。
花売りの少女は余った白い花をこっそり足し、パン屋の女将は菓子パンを焼く量を勝手に増やし、鐘楼の老人は「祝福の鐘は五度鳴らす」と言い出しました。役場の書記は式の案内板を作ると言い、魚屋の老人はなぜか祝い魚を用意すると張り切っていました。
誰も特別な英雄ではありません。
誰も歴史に名を残す人ではありません。
それでも、彼らは誰かの幸せを少しずつ持ち寄っていました。世界とは、そういうものです。たった一人の王や勇者が支えているのではありません。名もない人々が、明日の朝もパンを焼き、鐘を鳴らし、誤字を直し、花を選び、誰かのために少しだけ余分な手間をかける。その積み重ねによって、世界は今日も世界でいられるのです。
だから私は、この街を忘れられません。
滅びたからではありません。滅びる前に、確かに生きていたからです。
世界の終わりは、そういう朝の中に静かに混ざっていました。
空が裂けることはありませんでした。地が叫ぶこともありませんでした。ただ、夕日が少しだけ長く残り、古い時計が一日に一度だけ遅れ、井戸の水面に知らない星が映るようになったのです。
人々はそれを不吉とは呼びませんでした。
「最近、夕暮れが綺麗だね」
「そうだね。少し、長い気がする」
「悪くないよ。仕事帰りに空を見る時間が増えた」
誰も騒ぎませんでした。
世界は、優しく終わろうとしていたからです。
その年の終わり、ミナの婚礼が決まりました。リオは招待状を刷りました。何度も活字を並べ直し、余白を調整し、二人の名前の間に小さな花の模様を入れました。
「兄さん、ただの招待状だよ」
「ただの、じゃない」
「大げさ」
「一回しかないだろ。こういうのは」
その言葉を、私は覚えています。
一回しかない。
人の人生は、何度も繰り返すためにあるのではありません。だからこそ、朝のパンも、結婚式の招待状も、言い損ねた謝罪も、渡しそびれたリボンも、すべてが重みを持つのです。あの世界もまた、一回きりの終わりを迎えるはずでした。
けれど、その終わりは叶いませんでした。
婚礼の前日、街のすべての招待状から、日付だけが消えました。インクが薄れたわけではありません。紙が濡れたわけでもありません。ただ、そこにあったはずの数字だけが、最初から存在しなかったように空白になっていたのです。

ミナは笑いました。
「兄さん、刷り忘れたの?」
リオは首を振りました。
「そんなはずない」
「じゃあ、もう一回刷ればいいよ」
「……そうだな」
彼はもう一度、活字を並べました。けれど、何度刷っても日付だけが消えました。それは世界が最後に見せた、ささやかな抵抗だったのかもしれません。終わりの日を、誰にも知らせないために。
最初に消えたのは、鐘の音でした。
夕暮れを告げる鐘は、毎日三度鳴るはずでした。けれど、その日から鐘は鳴らなくなりました。鐘楼はありました。鐘もありました。老人もそこにいました。
ただ、誰も鐘の音を思い出せなくなったのです。
「鳴ってたっけ?」
「鳴ってたよ。たぶん」
「じゃあ、どんな音だった?」
誰も答えられませんでした。
次に、古い通りの名前が消えました。その次に、祭りの歌が消えました。そして、ミナの婚礼の日取りが消えました。
それでも人々は暮らしました。
パン屋はパンを焼き、子どもたちは走り、老人は鐘楼に登りました。鳴らない鐘を磨き続けました。リオは毎朝パンを二つ買いました。ひとつは自分のために。もうひとつは、嫁に行くはずだった妹のために。
街の人々は、最初のうちは笑っていました。
笑うしかなかったのです。
魚屋の老人は、自分の店の名前を忘れても、魚の目利きだけは忘れませんでした。役場の書記は掲示板に貼る紙の題名を思い出せなくなっても、誤字だけは見つけました。花売りの少女は、花の名前を忘れたあとも、ミナに似合う色だけは間違えませんでした。
「この白い花、なんて名前だっけ」
「知らないのに売ってるのか」
「昨日までは知ってた気がするんだけどね」
「じゃあ、昨日の名前で売ればいい」
「昨日の名前も忘れちゃった」
花売りの少女は、そう言って困ったように笑いました。リオは笑えませんでしたが、ミナはその花を受け取りました。
「名前がなくても綺麗だよ」
「そう言ってくれると思った」
そうして、名のない花が工房の窓辺に飾られました。
パン屋の女将は、ある朝、自分の店の看板を見上げて首を傾げました。そこには確かに文字がありました。誰かが書いた店名がありました。けれど、彼女はそれを読めなくなっていました。
「リオ、これ、なんて読むんだったかね」
リオは答えようとして、言葉を失いました。彼もまた、その店名を思い出せなかったのです。毎朝通っていた店でした。子どもの頃から知っている店でした。ミナが熱を出した日に、柔らかいパンを届けてくれた店でした。それなのに、名前だけが世界から抜け落ちていました。
女将はしばらく看板を見てから、鼻で笑いました。
「まあ、パンが焼けるならいいか」
そう言って、彼女は店に戻りました。
その日もパンは焼かれました。名前のない店で、名前のない柔らかいパンが焼かれました。リオはそれを二つ買い、ひとつをミナに渡しました。ミナは当たり前のように受け取り、当たり前のように笑いました。
当たり前が残っているうちは、人はまだ生きていられます。
たとえ世界が少しずつ形を失っていても、朝にパンを食べ、昼に仕事をし、夕方に誰かの帰りを待つことができるなら、人はまだ今日を今日として扱えるのです。けれど、その当たり前も、少しずつ薄くなっていきました。
ある日、役場の書記が工房へ来ました。
彼はいつものように紙を抱えていましたが、その紙は真っ白でした。文字は一つもありません。けれど書記は、それをとても大切そうに抱えていました。
「リオ、すまない。これを刷ってほしい」
「何をですか」
「分からない」
「分からないものは刷れませんよ」
「そうだな。そうなんだが……これは、大事な知らせだった気がするんだ」
彼は困ったように笑いました。リオは紙を受け取り、光に透かしました。何もありませんでした。文字も、印も、折り目さえありません。ただの白い紙です。けれど、その白さが妙に恐ろしかった。消えたものの跡すら残らないということが、これほど静かで、これほど残酷なのだと、リオはその時初めて知りました。
「置いていってください」
「刷れるのか」
「分かりません。でも、預かります」
書記は深く頭を下げました。その背中は、以前よりずっと小さく見えました。
鐘楼の老人は、鐘の音を忘れても、毎夕鐘楼へ登りました。
誰も鳴らない鐘を聞くことはできません。それでも老人は、縄を握り、同じ時刻に同じ動作を繰り返しました。街の人々も、音のない鐘に合わせて店を閉め、子どもたちは家へ帰りました。音は聞こえません。けれど、誰かが一日を終わらせようとしている。その事実だけで、人々はまだ夕暮れを信じることができました。
「じいさん、もう鳴らないなら休めばいいのに」
リオがそう言うと、老人は鐘楼の階段に腰を下ろし、少しだけ笑いました。
「鳴らないから鳴らすんだよ」
「意味が分からない」
「意味がなくなったものほど、続ける意味がある」
「それこそ分からない」
「若いな」
老人はそう言って、遠くの夕日を見ました。
「終わり方を忘れた世界に、今日の終わりくらい教えてやらないといけないだろう」
リオは何も言えませんでした。
その言葉を、私は覚えています。
世界は滅びを迎えたかった。けれど、滅べなかった。
何かが、その終わりを押しとどめていました。それは人の願いではありませんでした。神の慈悲でもありませんでした。救済と呼ぶにはあまりに乱暴で、奇跡と呼ぶにはあまりに冷たい力でした。
遠い場所で、誰かが世界の理に手をかけた。
誰かを呼ぶために。
誰かを救うために。
あるいは、誰かに救われるために。
その魔法の余波が、終わろうとしていたこの世界に届いてしまったのです。世界は眠るはずでした。けれど、眠りかけた身体を無理やり起こされました。死にゆく者へ、まだ生きろと命じるように。役目を終えた灯へ、まだ燃えろと油を注ぐように。
優しい終わりは、そこで壊されました。
それでもリオは、誰かを憎みませんでした。
憎む相手がいなかったのです。空に怒ればいいのか。消えた日付に怒ればいいのか。思い出せない名前に怒ればいいのか。それとも、世界そのものに怒ればいいのか。彼には分かりませんでした。
だから彼は、いつも通りパンを買いました。
「兄さん」
「なんだ」
「私、結婚するんだよね」
「ああ」
「誰と?」
「……いい奴だ」
「名前は?」
「思い出す」
「そっか」
ミナは笑いました。
「じゃあ、思い出したら教えてね」
リオは頷きました。けれど、その約束が果たされる日は来ませんでした。
薬草師の青年は、次第に街の人々の記憶から薄れていきました。最初は名前だけでした。次に声が消えました。それから、彼がどんな顔をしていたのか、誰も正確に言えなくなりました。けれど薬草小屋には、ミナのために用意された小さな薬包だけが残っていました。
リオはそれを見つけた時、長い間動けませんでした。
紙には何も書かれていませんでした。誰が何のために包んだ薬なのか、そこには記されていません。それでもリオには分かりました。これは彼女のためのものだ。あの気の弱い青年が、結婚式の前にミナが疲れないように、眠りやすい薬草を調合していたのだと。
リオはその薬包を工房へ持ち帰り、招待状の束の隣に置きました。
日付のない招待状。
名前のない薬包。
鳴らない鐘。
読めない看板。
白い告知。
それらはすべて、世界が終われなかった証でした。
ミナは日に日に、自分の輪郭を失っていきました。兄のことは覚えていました。工房のことも、パンのことも覚えていました。けれど、自分が何を待っていたのか、誰の隣に立つはずだったのか、なぜ青いリボンを見ると胸が苦しくなるのか、それだけが分からなくなっていきました。
ある夜、ミナは窓辺の花を見ながら言いました。
「兄さん、私、何か大事なことを忘れてるよね」
リオは活字を磨く手を止めました。
「忘れてない」
「嘘」
「忘れてない。少し、遠くに置いてあるだけだ」
「じゃあ、取りに行ける?」
「行ける」
「いつ?」
リオは答えられませんでした。
ミナはしばらく兄の横顔を見ていましたが、やがて小さく笑いました。
「兄さんは、嘘が下手だね」
その夜、リオは一人で招待状を刷りました。日付はやはり消えました。けれど彼は刷り続けました。何十枚も、何百枚も、日付のない招待状を刷り続けました。紙の上には、ミナの名前だけが残っていました。相手の名前は、もう空白でした。
それでも、彼は刷りました。
誰にも届かない招待状を。
いつか誰かが思い出すかもしれない婚礼のために。
世界はまだ、終わろうとしていました。けれど、終われない世界は、眠るのではなく薄れていきます。そこにあった意味が、役目が、名前が、順番に消えていきます。人々はそれでも生きました。誰かが泣けば誰かがそばに座り、誰かが忘れれば誰かが代わりに覚えようとしました。
けれど、覚える者にも限界があります。
リオは紙に書き始めました。
パン屋の女将は柔らかいパンを焼く。
鐘楼の老人は夕暮れに鐘を鳴らす。
役場の書記は誤字が多い。
花売りの少女は白い花を多めにくれる。
薬草師の青年はミナを大切にすると言った。
ミナは青いリボンが似合う。
彼は書きました。何度も書きました。忘れないために。世界が消していくものを、紙の上に引き止めるために。けれど翌朝、その紙の一部は白くなっていました。薬草師の青年について書いた行だけが、綺麗に消えていたのです。
リオはその紙を握りしめ、初めて泣きました。
声を上げることはありませんでした。ただ、工房の床に座り込み、白くなった紙を見つめながら、肩を震わせました。ミナは何も言わず、兄の隣に座りました。彼女は何を失ったのか、もう分かっていませんでした。それでも、兄が悲しんでいることだけは分かりました。
だから、彼女は兄の手を握りました。
その手の温かさだけが、まだ消えていませんでした。
やがて、世界は限界を迎えました。
空は暗くなりませんでした。大地も割れませんでした。海が荒れることも、星が落ちることもありませんでした。ただ、ものの輪郭が薄くなりました。椅子は椅子でなくなり、家は家でなくなり、街は街でなくなっていきました。人々は悲鳴を上げませんでした。泣く者はいました。抱きしめ合う者もいました。けれど、最後の瞬間まで、彼らは自分たちの生活を手放そうとはしませんでした。
パン屋の女将は、最後の日にもパンを焼きました。
看板の名前は読めません。店の名も思い出せません。けれど、彼女は柔らかいパンを一つ余分に焼きました。誰のためだったのか、もう分かっていなかったかもしれません。それでも、彼女の手は覚えていました。
鐘楼の老人は、最後の日にも鐘楼へ登りました。
鐘は鳴りません。音は世界から消えています。それでも、彼は縄を握りました。夕暮れを告げるために。今日が終わることを、終われない世界に教えるために。
役場の書記は、最後の日にも白い紙を掲示板に貼りました。
何も書かれていません。誰も読めません。それでも、彼はそれを知らせだと言いました。きっと大事な知らせだったのだと、彼は最後まで信じていました。
花売りの少女は、最後の日にもミナへ白い花を渡しました。
名前はありません。香りもほとんど残っていません。けれど、その花は確かに白く、ミナはそれを大切そうに抱えました。
ミナは青いリボンを髪に結んでいました。
リオが婚礼の日に渡すはずだったものです。
「似合うか?」
「うん。すごく」
「本当?」
「本当だ」
「じゃあ、よかった」
ミナは少しだけ空を見上げました。
「兄さん」
「なんだ」
「私、幸せだったよ」
リオは何も言いませんでした。言葉を出せば、すべて崩れてしまうと知っていたのでしょう。
その時、遠くから声がしました。
王の声でした。
姿はありません。名も語られません。ただ、消えゆく世界の果てで、その声だけが静かに響きました。
「そういうことは、ここでは起こさない」
その声は、命令ではありませんでした。怒りでもありませんでした。ただ、自分の世界で起きた悲劇を、もう二度と繰り返させないという、静かな拒絶でした。
リオには意味が分からなかったでしょう。
ミナにも分からなかったでしょう。
けれど私は、少しだけ理解しました。
ああ。
彼もまた、終わらせたくなかった一人だったのだと。
「……そうか」
誰が言ったのかは分かりません。
王か。
世界か。
あるいは、私だったのかもしれません。
そして、その世界は消滅しました。

滅びではありません。
崩壊でもありません。
そこにあったすべてが、役目を終えた灯のように、静かに消えていきました。リオも、ミナも、鳴らない鐘も、日付の消えた招待状も、朝のパンも、名前を思い出せなかった薬草師も、白い花も、読めない看板も、何も書かれていない告知も、すべてが消えました。
ただ、僕だけが残りました。
また、僕は生き延びてしまいました。
そうして、僕は焚き火の前でこの話を終えました。
炎は静かに揺れていました。薪が小さく爆ぜ、火の粉が夜へ昇っていきます。
「これが、ある世界の終わりです」
私がそう言うと、向かいに座っていた少女は記録帳を閉じました。
彼女の名はアーカ。
記録を読む者であり、終わった物語を片づける者でした。
「記録完了。お疲れ様でした」
彼女は淡々と言いました。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ役目を終えた者へ言葉を渡すように。
少しの沈黙がありました。
それから彼女は、焚き火を見つめたまま尋ねました。
「じゃあ、君はどうするんですか」
は長い間、炎を見ていました。
リオのことを思いました。
ミナのことを思いました。
名前を失った薬草師のことを思いました。
終わりたかったのに終われなかった世界のことを思いました。
そして、ようやく答えました。
「死にたいです」
声は驚くほど穏やかでした。
絶望ではありませんでした。
怒りでもありませんでした。
ただ、長すぎた旅を終えたいという、静かな願いでした。
アーカは一度だけ頷きました。
「分かりました」
それ以上の言葉はありませんでした。
白い炎が灯りました。
痛みはありませんでした。恐怖もありませんでした。私の手は枝となり、足は乾いた木となり、記録し続けた身体は少しずつ薪へ変わっていきました。
最後に残った意識の中で、私は思いました。
ああ。
今度こそ、私は生き延びなくていいのだと。
アーカは薪となった私を、焚き火のそばへ静かに並べました。
炎は少しだけ大きくなりました。
誰かの夜を温めるには、十分な灯でした。
終わり
ある世界の終わりです。
唯何かを忘れていく、そこの世界から人の何かが消えていく…
彼はそれに耐える事が出来なかった。
世界は終わり始まり、常に巡ります。
これで彼は救われたのでしょう…。
それを読者はどう思うかは知らないですけどね
by灯の旅人
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もし何か感じていただけたなら、その想いをそっと置いていっていただけると嬉しいです。