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大規模言語モデルの異常な性能 または私は如何にして心配するのを止めてコモンセンスを愛するようになったか

前回の投稿「「もっともらしさ」の漸進的横滑り(あるスタディ)」は、ほとんどすべて、AIが生成した文字列でございまして、このご時世、コトのなりゆきをいちいち説明するのもバカバカしいことではございますが、いちおうご説明しておきましょう。

ChatGPT になにかしらお題を出しますと──たとえば「自己批判してごらんなさい」「ここはひとつカント先生に助けを乞いますか」「はて? 超越論的プロンプトつうのはなんですかな」などなど──そうするとこのチャッピーの旦那、三題噺さんだいばなしがお得意なようで、その語りは玄人くろうとはだし、ものの1分もかからず、スラスラとそれらしいお話をこしらえるのでございます。

チャッピーの旦那、10,000字ほどの内容をせいぜい10分くらいで組み立てやがったわけですが、おなじ内容をこのアタシが書いたとしたら、そうですねえ、3日以上かかるんじゃないか。いや、もっとか? いやはや情けない。

おまけにですよ、チャッピーの旦那が10分で仕上げた論考らしきものを、アタシが適当に調整したところ、この「適当に調整」つうのも、それなりに時間がかかる。なにしろ、こちとら人間ですからね、手際が悪いこと悪いこと。結局、30分もかかっちまった。

それはともかく、生成された文章の「もっともらしさ」を活かすために、アタシがなにをしたかてえと、これは至極単純な話でありまして、要らない接続詞や安っぽい結論を削る──せいぜいそれくらいでございます。それで文字数は8,000字弱になった。だからといって、文章がキリリと引き締まったかどうか、わかりゃしませんが。

たいした苦労もせず、なんとなくまとまったふうのあのテキスト、さて、どの程度おもしろいのかと自問自答してみますと──まあまあおもしろいか……うん? いやいや、それほどのものじゃないな、どっちかつうと、むしろおもしろくないかもだなあ──と、だいぶ腑抜けた結論になっちまった。

おもしろい、もしくは、おもしろくない、その理由はじつにハッキリしておりまして、要するにチャッピーの旦那には「視点」というものがない。だから、そのもっともらしさは永遠に横すべりしていくだけ。りくりゅうペアもビックリですな。つうことはですよ、この「もっともらしさ」は、ごくアッサリと「つかみどころのなさ」へ反転しちまう。

嗚呼AI哀歌ああええあいえれじい

話は変わりまして──アタシはこのnoteであの人この人をフォローしており、常日頃、彼ら彼女らの文章をたのしく読ませてもらっております。また、フォローはしてないまでも、内容に感心しながらタタッと目を走らせる、とまあ、そんな方々もチラホラいらっしゃる。せっかくですので、この場を借りて、みなさんにお礼を申し上げるといたしましょう。感謝感謝。

彼ら彼女らは、年齢も性別も住んでいる場所もバラバラ、興味や関心のありかた、文章の内容やスタイルもバラバラ、文章量も更新頻度もバラバラ。一見しますと、共通するところなんぞ、ひとつもございません。

と思いきや、じつはひとつ、れきとした共通項がありまして、それはなにかと申しますと、みなさん、それぞれ「個人」としての「視点」があり、またその視点というものが、おのおのの「生活」に根ざしている──とまあ、そういうところなんですな。

アタシの個人的見解に過ぎませんが、英国でいうところの "Common sense"、これはふつう「共通感覚」と訳されますけども、それをチョイとずらし、アタシは「生活感覚」と呼びたい。この生活感覚から発せられた言葉や文章、それはものを書くうえで、とっても大事なことではあるんですが、しかし、管見の限りでいいますと、その「あたりまえ」がやけに少なくなってしまったぞ、わびしい話だなあ、というのが、正直な印象でございます。

ですので、たとえ観念的・抽象的に見えようとも、その人なりの傾きや偏りに根ざしたものであれば──そしてここが重要なのでございますが、独りよがりではなく、なんらかの共通感覚コモンセンスの上に立っているものであれば、アタシはそれをよしとしたい。

まあ、チャッピーの旦那みたく、到底もっともらしい話にはなりゃしませんし、わざわざいうことか、というくらい、おもしろみのない結論になりましたが、いえね、要するに、そういうこと、、、、、、を申し上げたかっただけなんでございますよ。

というわけで、ひとまず本日は、これにて失礼いたしやす。


(Unreliable narrator)




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