私のファーストキスの話を聞いてください
この話をしたら私はきっと友達を失くすし、恋人も去るかもしれないとビクビクして生きていたが、もうババァだし話さなくても未婚のままだ。
失くすものなど何もないと気がついたので、人生の汚れを今年のうちに出し切っておこうと思う。
中1の冬。
放課後に校内合奏コンクールの練習を終えて教室に戻る途中、放送で音楽室に呼び戻された。
ただでさえ遅れている部活を諦めてUターンした時「音楽室戻るん?」と幼馴染のTに声をかけられた。
Tとは保育所からの付き合いで、物心ついた頃からの私の初恋の人。
いや、本当の初恋はハリソン・フォードだが、リアルに目の前にいる男児ではTが初めてだと思う。
「準備室にリコーダー忘れたからついでにとってきてくれへん?」
練習は基本的に音楽室だが、人数が多いリコーダーは準備室で練習をしていて、Tもその一員だった。
えぇよ〜と承諾して音楽室に戻り、先生から楽器変更の指示を受けて新しい楽譜を受け取る。
その流れで「準備室に忘れ物を取りに行きたい」と伝えて鍵を預かり音楽室を出た。
音楽以外に使われていない旧館の廊下に人気はなく、ギター部が練習を再開した音を聞きながら準備室の扉を開けて室内を見渡す。
大型金管楽器の手前に使われていない机が片されている。
確かTは右端の机に楽譜を置いて練習していた。
だが机にリコーダーは見当たらず、机の中を覗くとやっと白いもの見えた。
あった。
白いリコーダーを掴みだして準備室を出ようと思った時、ふと私の中の悪魔が来たりて笛を吹いた。
聡明な読者は冒頭の「リコーダー」「初恋」「友達を失くすエピソード」の三種の神器で大体お察しだろう。
Tとは保育所からずっと仲良しで、一緒に風呂も入ったし同じ布団でも寝ていた仲だが、そんな私たちだからこそ、お付き合いする未来は見えなかった。
だがリコーダーに唇をつけると初恋のファーストキッスだけは達成される!
ばかもん!
すぐさま理性が下心にゲンコツを落とす、手に入らないから奪うのは野生動物のすることや!
いえ、これはわざわざ取りにきた報酬ですと下心が加勢する。
それに舐めるんやないです。
最悪、ドの音くらいは吹くかもしれんけど、そもそもこれは下心の権化の私に頼んだTの落ち度、むしろそそのかしてるのTの方です。
よし、整った。
思春期特有の安易なご都合思考で理性を捻じ伏せ、唇を近づけた時。
「なっちゃん!」
Tの声が廊下に響き、私は仰け反った。
だが、勢い余って振りかぶり、リコーダーの吹き口に前歯をガッツリぶつけてしまった。
ジンジン痺れた前歯を上唇で隠し、遅れてきた動悸を誤魔化そうと大声で返事しながらTにリコーダーを見せた。
「これやろリコーダー!!」
廊下に走り出てTの胸にリコーダーを押し付け、顔も見ずに準備室を施錠する。
もう無かった事にできない。
痛む歯茎がファーストキスの余韻を物語っている。
このまま走って帰りたい、でもあわよくばもう部活はサボってさりげなく一緒に…と振り向くと、Tが首を傾げてリコーダーを見下ろしていた。
「なっちゃん」
「なん?」
「リコーダーあってん、こうちゃんが持ってきてくれてて」
…ッ?
ちょ、待てよ。
当時キムタクはすでにデビューしていたが、この不屈の名台詞はまだ存在していなかった。
多分、私の方が先に使ってる。
「じゃあこれ、誰のん?」
「知らんよ、俺が聞きたい」
そんなの私はもっと聞きたい。
ギター部の練習曲がビートルズの「help」に切り替わった、ここは妙に覚えている。
Tはしげしげと手の中の白いリコーダーを眺め、そのまま私を見下ろした。
「それにこれソプラノやん、俺のんアルトやん?」
そうだった。
白いソプラノリコーダーは小学校までで、中学からは茶色くて太いアルトリコーダー。
ここは音楽準備室だからソプラノが絶対にないとも言い切れないが、とりあえずTのものではあるはずがない。
「誰かの忘れもん?」
リコーダーの裏を確認すると、そこには驚きの名前が彫られていた。
『たき れんたろう』
説明しよう、たきれんたろうとは!
瀧廉太郎
明治期における西洋音楽化で、歌唱共通教材として「荒城の月」は廉太郎さんがクリスチャンになった時に作った曲らしい。
ちなみに「鳩ぽっぽ」の作者だが、多分曲の方が有名だ!🐦
どないやねん。
チラッと見上げたTの眉間にも「なんでやねん」のシワが深まった。
多分だが、2人の脳内では瀧廉太郎の大ヒットソング「荒城の月」が流れている。
相手は明治の大音楽家なのでツッコミは控えたが、問題はこの後どうするか、である。
「忘れもん、よな?」
「明治からの?」
「この校舎いつから建ってんねん?」
「そもそも大阪の人とちゃうんちゃうん?」
それ以前に瀧廉太郎の時代にリコーダーがあったのかも知らないが、あったとしても…あったとしてもである。
拉致があかないので音楽の先生に届けたところ「忘れもんやな」の一言で終わった。
その後、Tはサッカー部の練習に向かい、バスケ部だった私は体育館でひたすらシューティングに励んだ。
顧問に「腕もげるぞ」と止められるまでアテンプトし続け、外から聞こえた夕方5時を告げる「夕焼けこやけ」にブザービートしてコートに倒れる。
お腹すいた、前店で買い食いして帰ったろ。
冬場の汗は体を冷やし、筋肉の疲れは脳内をスッキリさせる。
もう前歯も心も痛まなかった。
どこの馬の骨かも分からん「たきれんたろう」
せめてTよりイケメンであってほしい。

ファーストキスのカウントが概念でなく物理だとすれば、大体の人のファーストキスはオカンの乳首か哺乳瓶の乳首、大体みんな乳首やんけ。
やからセーフ。
