”ゴッホに魅せられた者たちの過ち”ヴァッカー事件は日本美術界も巻き込まれていた
1920年代のドイツ。ゴッホ・ブームが巻き起こる中、美術界を揺るがす一大贋作事件が発生します。
仕掛け人の名は、オットー・ヴァッカー(Otto Wacker)
彼は、ゴッホの「未発見作品」を20点以上も発見(?)し、そのほとんどをドイツ国内の一流画商や美術館に販売しました。
その作品は当初、著名な専門家たちによって“真作”と鑑定され、多くのメディアも「ゴッホの新時代到来」と称賛したのですが、それはとんでもない誤認でした。

ゴッホ・ブームの起源と背景
フィンセント・ファン・ゴッホが亡くなった1890年当時、彼の名はまだ広く知られていませんでしたが、20世紀初頭、特に第一次世界大戦後の1920年代に入ると、ゴッホの名声は急激に高まっていきます。
まず、彼の死後、弟テオの未亡人であるヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルが、彼の絵と手紙を保存・普及させたことが大きなきっかけとなりました。
さらに、フォーヴィスムや表現主義など、感情や色彩を重視する新しい芸術運動が台頭するなかで、ゴッホのスタイルは「近代絵画の先駆者」として再評価されていきました。
1920年代には、ヨーロッパ各地でゴッホ回顧展が開催され、彼の手紙や画集が次々に出版され、中でも、ジャコブ=バート・ド・ラ・ファイユによる作品カタログは美術界に大きな影響を与え、「ゴッホ作品を所蔵することは名誉である」という風潮が強まります。
また、「精神を病みながらも創作に身を捧げた孤高の天才」という彼の人生が、時代のロマン主義と結びつき、ゴッホに対する熱狂的な人気を形成していきました。
このようにして、1920年代のヨーロッパには“ゴッホなら売れる”という雰囲気が漂い始め、美術商やコレクターの間で彼の作品の需要が爆発的に高まりました。
まさにこのタイミングで登場したのが、オットー・ヴァッカーだったのです。

贋作の手口と販売の手法
オットー・ヴァッカーは、自身が絵を描いたわけではありません。
贋作の多くの制作を実際に手がけたのは、弟レオンハルト・ヴァッカー(Leonhard Wacker)です。
これらの贋作は、ゴッホが好んだ絵具の色彩や構図、筆致まで細かく研究された上で描かれており、非常に高い完成度を誇っていました。
しかし、最大のポイントは“ストーリーテリング”です。
ヴァッカーは作品の来歴を
「あるロシア人亡命者が亡命時に密かに持ち出した未公開作品。スイスに秘密裏に持ち込んだものだが、報復を恐れて名前は明かせない。」
と説明し、それに合わせて偽造された由来書やゴッホのものとされる手紙なども添えていました。
これらのプロヴァナンス資料が非常に巧妙で、専門家をも納得させてしまったのです。
さらにヴァッカーは、販売先を慎重に選びました。
一流の画商や美術館に「限定的に」紹介することで、“本物でなければ入手できないような希少性”を演出して、著名な美術史家を巻き込み、彼らにお墨付きを与えさせることで、美術界全体に信頼感を広げていったのです。
ヴァッカーが接触した具体的な販売先は?
ベルリンの有力画商パウル・カッシーラー(Paul Cassirer)

マティーセン画廊(Galerie Matthiesen)
さらにベルリン国立美術館(Berliner Nationalgalerie)にも一時的に作品が展示されました。
鑑定を行った”ゴッホ研究の権威”
ジャコブ=バート・ド・ラ・ファイユ
ヘンク・ブレンマー
ユリウス・マイヤー=グラーフェ
ハンス・ローゼンハーゲン
といった専門家たちも真作と信じ、鑑定書を発行してしまいます。
この巧妙な手法によって、ヴァッカーの贋作は本物と信じ込まれ、欧州中で流通していったのでした。
贋作の疑いが浮上
1928年1月、パウル・カッシーラーが企画した展覧会に、ヴァッカーが所蔵する作品が出展されましたが、展示直前に届けられた4点を確認したキュレーターがその不自然さに気づき、贋作の疑いが浮上しました。
作品は直ちに会場から撤去され、ヴァッカーの主張に疑念が持たれるようになり、その後の調査により、ヴァッカーに由来する少なくとも33点の作品に贋作の可能性があると判明しました。
美術史家ジャコブ=バール・ド・ラ・ファイユ(Jacob-Baart de la Faille)は、ゴッホの全作品を網羅した4巻からなる『フィンセント・ファン・ゴッホ作品集』を1928年に出版していました。

◆ 1928年出版『フィンセント・ファン・ゴッホ作品集』
この作品集(全4巻)は、世界初のゴッホ作品の網羅的なカタログ・レゾネ(全作品目録)として、当時としては画期的なものでした。作品ごとに番号「F番号」が付され、以下の情報が詳細に記録されていました。
【タイトルと制作年】【所有者と来歴(プロヴァナンス)】
【展示歴】【関連文献や美術批評の記録】
このカタログは、ゴッホ研究の基礎資料として世界的に評価され、美術館・画商・研究者・コレクターの間で“ゴッホ作品の信頼できる指標”とされていました。
しかし、その直後、オットー・ヴァッカー画廊が出展した33点のうち、弟レオンハルト・ヴァッカーによる偽作が含まれていたことが、科学的分析によって明らかになりました。
この中には、ド・ラ・ファイユがカタログ・レゾネに収録してしまっていた作品も含まれており、専門家の誤鑑定という深刻な信用問題が浮上したのです。
ド・ラ・ファイユは、この誤りを真摯に受け止め、自ら誤収録を認める「補遺(Appendix)」を発行。ヴァッカー由来の作品を削除・修正するという異例の措置を取りました。
さらに、いくつかの作品に対し、ゴッホ研究者や画材分析の専門家から疑問の声が上がります。
筆致の違和感、構図の不自然さ、さらには使用されている絵具がゴッホの時代には存在しなかったという指摘もあり、事態は一転します。
ドイツ画商協会の支援を受けたMatthiesen画廊が1928年12月に訴訟を提起するに至り、事態は裁判へと発展していきました。
法廷で揺れた真贋と専門家たちの分裂
ヴァッカーが起訴された1928年以降、ベルリンで行われた裁判は、美術史における“前代未聞の対決”となりました。
法廷では、ゴッホ研究の第一人者や、ベルリン国立美術館の学芸員、著名な美術商、画家たちが証人として出廷し、各々の立場から意見を述べました。
しかし、その評価は真っ二つに割れます。
【オットー・ヴァッカー裁判の概要(1932年)】
裁判開始:1932年4月6日
証人として出廷したのは、画家ゴッホの甥、フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ。「ロシア人コレクター」の存在を家族の記録には見つけられなかったと証言。
専門家たちの証言は大きく割れる
ヴァッカーの擁護派には、かつてゴッホの真作として贋作を認定した経験のある専門家たちも含まれており、彼らは「これほどの筆致は本物でなければ描けない」と主張。
ド・ラ・ファイユ:当初の全否定から一転し、「5点は真作の可能性がある」と主張。
ヘンク・ブレンマー:9点は真作と判断。
ユリウス・マイヤー=グラーフェ:自らの過去の鑑定ミスを認める。
ハンス・ローゼンハーゲン:14点は“美術的価値は低いが真作”と証言。
一方、反対派は、絵具分析や筆跡、構図のズレなどから贋作の可能性を指摘しました。キャンバスの素材もフランス製ではなく、ゴッホの制作時代と矛盾していたのです。
A・マールテン・デ・ヴィルト(オランダの修復家):使用された絵具がゴッホのものと異なることを発見。
クルト・ヴェールテ(ドイツの修復家):X線解析により、技法の違いを指摘。
特に注目を集めたのは、当時の美術史学界の重鎮であるユリウス・マイヤー=グラーフェ(Julius Meier-Graefe)が、裁判の過程で態度を変え
「私が誤っていたかもしれない」と証言したのです。
この発言は世間と美術界に大きな衝撃を与えました。

結果として、裁判所はヴァッカーの販売した絵画の大部分を贋作と認定し、1932年4月19日、ヴァッカーに対して有罪判決(懲役刑)が下されました。
判決:詐欺罪で有罪→ 刑罰:禁錮19か月、罰金30ライヒスマルク
しかし、この裁判を通じて浮かび上がったのは、「真贋を見抜くことの限界」と「専門家による信頼の連鎖」の危うさ、そして専門家の目をも欺いた贋作の完成度の高さでした。
ヴァッカー贋作カタログ
大原美術館にも届いた贋作の波

日本の美術界もこの贋作事件から無縁ではありませんでした。
実は、岡山県倉敷市にある日本屈指の私立美術館「大原美術館」でも、かつてゴッホの贋作が所蔵されていたことが判明しています。
この作品は、1920年代から30年代にかけて購入されたもので、当時は「真作の可能性が高い」とされ、来館者にも“ゴッホの作品”として紹介されてきました。
しかし後年の鑑定や調査によって、真作ではない可能性が高いと結論づけられ、その後の展示からは外されることとなりました。
ド・ラ・ファイユが裁判中に「5点は真作の可能性がある」と主張した作品のひとつが、大原美術館が購入した《アルピーユの道》(F639)だったのです。
ド・ラ・ファイユ死去(1959年)後、1962年に著名な美術史家アブラハム・ハマッハー(Abraham Hammacher)を委員長とする編纂委員会が発足しカタログ・レゾネの大改訂プロジェクトが始まります。
1970年
『フィンセント・ファン・ゴッホ:油彩と素描の注釈付き作品集』が刊行されて、従来のF番号を引き継ぎつつ、文献・展示記録・来歴のアップデートが加えられました。
《アルピーユの道》は、カタログ・レゾネ削除されました。
この事実は、世界的なゴッホ贋作の波が、日本の美術館にも届いていたということを如実に物語っています。
そして同時に、“作品の真贋”がいかに時代によって変化し得るか、美術館の収集と鑑定の難しさをも浮き彫りにした出来事でした。

