『陰キャ』という名の免罪符
私はときどき、「陰キャ」という言葉が免罪符のように使われている場面に出くわすと、少し居心地が悪くなります。
それは内向的であること自体が嫌いだからではありません。むしろその逆です。
「陰キャ」を名乗りながら、協調性を身につけようと努力してきた人たちを、まとめて殴るような言説が嫌なのです。
世の中には、自然に人と打ち解けられる人もいます。
けれど同時に、最初は人見知りで、空気の読み方も分からず、何度も失敗しながら後天的に“潤滑油”になろうとした人もたくさんいます。
雑談が苦手でも、飲み会では一言リアクションを返す。
相手の表情を見て、地雷を踏まないように言葉を選ぶ。
そういう地味で疲れる努力を、彼らはわざわざ声高にアピールしません。
一方で、こんな言葉を聞くことがあります。
「私、人見知りなんで。配慮してください」
これを、たとえば25歳の社会人が真顔で言ったら、どんな印象でしょうか。
あるいは、
「俺、陰キャだから分かんないっすw 自分勝手に動いちゃうんでw」
もし職場にこんな人がいたとして、「じゃあ仕方ないね」と笑って済ませられるでしょうか。
プライベートであっても、正直なところ、印象はあまり良くありません。
面白いのは、同じ不器用さでも言い方ひとつで印象が真逆になることです。
たとえば、
「俺、天然で気が利かないところがあるからさ、せめて見えてる部分くらいは力になりたいんだ」
こう言われたら、「あ、この人ちゃんと自覚してるな」と思えますよね。
それに対して、
「俺ガサツだからよく分かんねーんだよ! ガハハ! 悪気はねぇんだから気にすんなよ! お前らが気にしなけりゃ済む話だろ?」
これはもう、「配慮しない俺様に、世界のほうが合わせろ」という宣言です。
なぜか最近、こういう姿勢の人がとても多い気がします。
もしかするとこれは、
求められる水準が少しずつ上がり、それについていけなくなった人たちの悲鳴なのかもしれません。
冷笑、陰キャ、多様性、自分らしく。
便利な言葉を盾にして、「弱い側なんだから偉そうでも許される」「経験が浅いんだから仕方ない」と自分で言ってしまう。
その瞬間、弱さは“説明”ではなく“居直り”に変わります。
私は、うまく立ち回れなくても、
それでも何とかついていこうとして、
言葉を選び、棘を抜き、善処している“素振り”を見せる人こそが大人だと思っています。
派手ではないけれど、静かに尊敬できる人たちです。
真っ当に生きていれば、たぶん多くの人はそこに行き着く。
だからこそ、今のインターネットの光景には、少し戸惑います。
声の大きい人たちが集団になり、「自分たちが楽をするための権利」を必死に主張しているように見えるからです。
全員が「できない自分」を基準に世界を下げ始めたら、社会は前に進めません。
できないなら、できないなりに工夫する。
工夫している人を見たら、素直に褒める。
「こんな水準でも活躍している人がいるんだ」と認める。
そんな、少しだけ気前のいい文化は、
いつかこの国にやって来るのでしょうか。
私はその日を、皮肉を言いながらも、わりと本気で待っています。
