【映画レビュー】聴く隣人のいるところ~声と歌がまっすぐ届く~
先日、試写でドキュメンタリー映画を見ました。
2026年6月6日に公開の作品で、タイトルは『聴く隣人のいるところ』。だいぶ主観だらけで長文レビューします。
『聴く隣人のいるところ』ってどんな映画?愛真高校とは?
島根県江津市浅利町という小さな町にある全寮制の小さな「キリスト教愛真高校」。2024年春からの撮影で、そこに生きる高校生と教職員の1年を追ったドキュメンタリーです。
以下、紹介する学校の日常は、そのままこの映画に映し出されている光景でもあります。

浅利富士と呼ばれる山の中腹にあり、街まで歩いて約1時間。全校生徒が60名にも満たない小さな高校。さまざまな場所から集まって寮生活を送る、多感な10代の若者たち。
愛真高校はキリスト教の普通科で、毎朝礼拝、毎週の日曜礼拝、聖書の授業もあります。信仰の有無は問わないけれど、聖書を学ぶ姿勢が必要。「作業」の時間があり、畑仕事をしたりパンを焼いたりも。制服はなく、チャイムも鳴りません。朝は6時に起床してラジオ体操をし、食事は当番制でみんなで作ります。当然、初めて包丁を握る子もいます。
毎日礼拝で讃美歌をうたい、放課後や休日にはピアノやギターを弾いたり、歌をうたったりと、音楽が大好きな子が多く、ヘンデルのオラトリオ「メサイア」の難曲「ハレルヤ」を歌えるようになります。
自主性を重んじるので、学校や寮のルールは、とにかく話し合い。クラスで、寮の中で、学校全体で、友達同士で、常にいろんな話をします。夜は、食事のあとに夕会(ゆうかい)が行われ、毎晩担当の生徒が「夕会ノート」に日々の想いや疑問を書き綴り、それをみんなの前で読みます。
スマホは禁止。夏休みなどで帰省の際は、寮に戻ったときに寮監に預けます。テレビもありません。時間や当番に縛られることも多く、不便と引き換えに、学べることはあるのでしょうか?
ドキュメンタリー映画としてどうなのか?
私はメディアに携わってきて、一時は仕事でドキュメンタリーを含む映画を年間200本以上観ていました。海外の虐殺事件や、閉鎖病棟のドキュメンタリーは観るのもなかなかハードでした。
今回の試写にあたり、ひとつ気になっていたことがありました。
実は、私はこの愛真高校の卒業生で、しかも1期生なのです。在校した時代は違えど、当事者でもあるため、正直どんな気持ちになるのか全く想像がつきませんでした。
ドキュメンタリーって、ともすれば、説明があまりなくて難解、独りよがりになりやすく、監督の自己満足では…?なんて思ってしまうことありませんか?
テレビにもドキュメンタリー番組はあります。「ザ・ノンフィクション」「情熱大陸」「テレメンタリー」etc。ディレクターたちはさまざまな演出を使って、内容をわかりやすくするために尽力します。テロップやナレーションもそのひとつです。しかし『聴く隣人のいるところ』は、ほとんどそういうものがありません。当事者である私が、どこまで客観的に観られるのか。「覚悟」を決めて試写に臨みました。
スクリーンの向こうに私がいた
思春期独特のワチャワチャ感、なにが面白いのかわからないけどゲラゲラ笑っている子たち、意見が衝突して思い悩む子、自分の気持ちがうまく伝えられず苦しむ子、人を想う祈り、一生懸命な歌声……。生徒たち、先生方、学校生活、寮生活など、これらは愛真高校のある年の1ページであり、ほんの一部でしかありません。
でも、そこには私の姿がありました。
……いや、もちろん実際には、私はどこにも映ってないんだけれど(笑)。でも、確実に私がいました。

私はクリスチャンホームで育ったわけではなく、入学当初はなんとなく疎外感がありました。狭い敷地内で小さなコミュニティ、当たり前に聖書を開いてお祈りする人たち、人間関係にも悩み、相談することもできず、孤独を感じることが多かった。
そんな中でも、スクリーンの中の生徒たちと同じように、私たちはいつもなんやかんやと話し合い、笑い、泣き、怒り、歌っていたのです。それに先生方はずっと付き合ってくれていました。
あれ?あの頃の私たち、スクリーンに映る彼らと変わらないじゃん。もしかして、これは普遍的なもので、愛真とはそういうところなのでは?
「遊び」に飢えていた末に生まれたAAF!?
愛真高校では秋になると”AAF”という文化祭が行われます。この映画の中でも描かれていました。毎年テーマを決めてクラス劇(1学年1クラスだが)をしたり、楽器の演奏や歌など、練習を重ねて披露します。近年は外部からも人が来るようで、そんな様子も登場します。

我々は1期生28名で入学しました。(近年は15名前後と減っている)1年生のときは先輩も後輩もおらず、生活の全てが学校と寮。思えば「遊び」に飢えていました。そのせいか、今思うと幼稚だけど、毎月「誕生会」をやっていました。イベントというか余興というか、そんなことを頻繁に行っていたんですね。
その流れで、「秋って普通は文化祭とかあるよね。……よし、やろうよ!”愛真アートフェスティバル"、略してAAF。」と、私が言い出しました、たぶん。(昔過ぎて記憶が曖昧)今も変わらずその名前が続いているなんて、「安直なネーミングでごめんよ」…と後輩たちに謝りたい。
生徒も職員も全員が揃ってディスカッションする「全体会」
愛真では、生徒も職員もみんな真面目で純粋でした。もちろん年相応のラフさや、寮でのハチャメチャさもあって、ときにはテキトーだったりもするけれど、基本的に真摯に向き合う姿勢の人が多い。
そのため、学校や生活のルールなど、様々な話し合いが行われます。年に一度の「全体会」は映画の中でも重要なチャプターでした。

映画の中では「ドライヤーの導入について」が議題に上がってましたが、現校長の栗栖先生(1期生の担任でした)から聞いたエピソードで、歴代の「話し合い」の中で忘れられないのは、「エアコンの導入について」。
職員側が議題に出したとき、まさかの生徒たちの反対により「却下」になったそうです。ざっくり言うと「愛真らしさがなくなる」という理由でした。昔と違って気候も変わっていて、連日の猛暑の中を思うと、健康面や衛生的にも「いやそれ、設置した方がいいでしょ」と思うのですが、多くの生徒が、不便さを”愛真らしさ”のひとつと捉えているのも、なんとなく「昔と変わらないなぁ」と感じたエピソードでした。(現在はエアコン設置済ですのでご安心を!)
余談ですが、今や当たり前でもある”ディベート”という概念を知ったのも高校時代でした。アメリカ人英語教師のバッシュ先生が授業中に、自分の意見とは関係なく「肯定」「否定」に分かれて、そのポジションを守って議論を行う…と教えてくれ、ディベートする時間を設けてくれたことがありました。実際にやってみると、自分の意見とは違うことを話すのがなかなか難しい。
特殊な環境だけれどこんな3年間があってもイイ
そんな愛真高校のことを説明すると、よく知らない人には「それって更生施設みたいな学校?」と言われることもありました(笑)。
日曜礼拝や聖書の授業は、「苦行」と感じる人もいると思います。私はあるとき思いました。冷静に考えると、「聖書」は人類史上最も読まれているベストセラー本です。中には非現実的なエピソードもある……というと、敬虔なクリスチャンの方からはお叱りを受けそうだけど、「たとえ話」だし、旧約聖書・新約聖書ともに「読み物」として捉えて解説・解釈を聞くと、実はとても興味深い。それにより、キリスト教が根付く海外の国々の「当たり前」の理解が進むこともありました。聖書を知識として学ぶことも大事だと思います。実際、ご実家がお寺という卒業生もいましたよ。
ぶっちゃけ、まあまあ偏っているな…という部分があるのは否めません。ただ、それもこれもひとつの「知識」だと思えばいい。世の中にはいろんな考え方があり、実際は多方面から考えないといけません。それを知る機会。全て丸飲みしなくていいし、学校側もそれを強要はしませんでした。

また、この映画の中で初めて知ったのが、職員会議の様子でした。先生方が、生徒と学校のことを想ってお祈りをしている様子が淡々と撮影されていました。
これは私たち卒業生も初めて見る姿で、かなり衝撃を受けたシーンでした。見えないところで、日々こんなに私たちのことを考え、対峙し、祈ってくださっていたと思うと、胸を打たれました。全寮制で生徒たちを預かっているので、当たり前といえば当たり前ですが、職員室の中でこうやって大人たちに守られていたのだと、実感した瞬間でした。
インターネットで一時騒がれたこともあるのですが、いわゆる”偏差値教育”をしないので、授業の内容は受験対策用の勉強ではありません。その代わり、大学の論文のように、自分で好きな研究テーマを掘り下げて発表する機会もあったりします。学年の垣根を越えて授業を受けることもあります。
一番多い進学先は、国際基督教大学か明治学院大学なのかな?社会に出てもさまざまな職業の人がいて、海外の大学で研究職についている人、医療関係者や教職についている人もいれば、農家、職人、陶芸家、シェフ、パティシエ、ミュージシャン、アーティスト、メディア関係者、議員など、幅広く活躍しているようです。
監督・早川嗣さんもまた卒業生でした!
最初に「愛真が映画になる」と聞いたのは、昨年の夏だったか。栗栖先生たちにお会いしたときでした。

映画?果たしてあの特殊な環境が全く予備知識のない人に伝わるのだろうか?大丈夫?……と不安がよぎります。
が、本作の監督である早川嗣さんも愛真の卒業生だと知りさらに心配に。あんな特殊な環境にいて客観的に観られる?えー?大丈夫?(笑)。失礼だな…。
「20年の時を経てもなお、母校は他者を諦めていませんでした。」の真意
最初は、冒頭に出てくる彼のこの言葉がピンとこなかったのですが、映画が終わってからは「なるほどね」とつぶやいてしまいました。
愛真では、常に誰かと対峙し、歌い、生きていました。よく「純粋培養」とも言われていましたが、世に放たれて(卒業)からしばらくは、全く違う一般社会に違和感や戸惑い、刺激を受けます。だんだんとそこに馴染んでいくと、当時の記憶や感覚は薄れていきます。
スマホを片手に情報溢れるインターネットの中を生き、お金を出せば「便利」が手に入り、面倒なことには片目をそっと閉じて、人と対峙せずとも日々を過ごしていける。それは決して悪いことではないけれど、本当にそれでいいの?
愛真は決して諦めない。私が大人になっても、思考の分断が進んでも、2024年(撮影時)の愛真は、生徒たちと向き合い、歌っていました。早川監督は「20年」と表現していましたが、実際はもっと長く、私が1期生のときから続いています。
私は決していい生徒ではなかった。「違う」と思うことは妥協せず、反発もしたし、うまく言葉にできないこともありました。きっと面倒くさい子だったはず。先生を含めて大人たちにはとても迷惑をかけたと思っています。だからこそ、さんざん話し合いを重ねて、歌をうたっていたあの時間って貴重だったんだなぁと身に染みたのです。
これは愛真高校のほんの一部です。中には「そんなに何も考えてなかったけどね」と言っていた卒業生もいます。これが全てではないけれど、変わらない愛真が確実にそこにあり、私もそこにいました。
早川監督は、説明過多にせず、ただそこにある「聴く」営みを丁寧に撮っていました。それがこの映画の誠実さだと思います。
もし皆さんが、誰かと本気で向き合うことに疲れていたり、便利さの中で孤独を感じていたら、この映画の世界が意外と豊かな生活に見えるかもしれませんよ。
※2026年6月6日からポレポレ東中野ほか全国順次公開
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