運転しているとなぜ線に沿って走っているのか不思議に思う
40代になってから、ようやく免許をとる機会にめぐまれた。
高校生にまざって試験をうけて、無我夢中で免許をとった。
ネットで見た中古の軽を購入し、黒いその車体に命を預けるのかと神妙な気持ちになった。
そんな私の車は、優秀でなにかとアシストしてくれる。
自転車ですら車幅がわからず、壁にこすりつける私にとっては、文明の力がとてもありがたい。
そんな風に、遅咲きの車社会デビューをした私も、もうすぐ2年がたつ。
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あれから運転になれたといえども、
運転してるといつも不思議に思う。
ただの線にそっておそろしいスピードで走っている車たち。
子供のころ地面に木の棒で線を書いて、「ここからは私の場所~。」と無邪気に主張したあの線と、
黒い道路に、ぬべっとした線で書かれた白線と何がちがうのだろう。
「ルールを守る」というその一心だけで、この道路の秩序は守られている。
ただの線だから、飛びこえようと思えば簡単にできるのに。
人間の優しさとか、正しくあるように生きる力とかに敬服する気持ちになる。
私が、この線を少しでも無視したら…。そう思って運転している私は、邪なんだろうか。
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離婚調停を経験した私は、法律というものが絶対だと思っていた自分の価値観をくつがえされる経験をした。
裁判所で作成された公正証書。長い長い期間をへて、やっとの想いでたとりついたその時。私は、緊張していた。
調停員と裁判官の立ち合いの元、一枚の紙に記された文字の羅列。そこにサインという、自分の手を動かして刻む同意と決意。
「これで、約束が守られる」
このサインが、されたら。
サインさえあれば。
もう、怯えることはない。
直前で元夫がサインするのをしぶったため、裁判官が厳しくたしなめた。その態度に胸をなでおろしながら、この緊張は獲物が逃げないか慎重に気配を押し殺している時のような、他者にむけた緊張だったのたと悟った。
しかし約束を守る気がない者にとって、私との口約束だろうが公文書だろうが、価値は同じなのだ。
ほどなくして、相手は公文書の内容などなかったような態度になった。
その時思ったのだ。たとえ公文書だろうと法律だろうと、「守ろう」という意識がなければ成立しないのだと。
「守る」とは、なんと儚いものなんだろう。何も実態がないではないか。
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ぐんぐん進む車内の中からひび割れた白線を見ながら、あの時のことを思い出す。
守る気がない人間が、今この時。
一瞬でもその気持ちを実行したら…。
なんの実態もない、物理的制限もない、皆、正しくあろうとしているその一心だけでなりたっている奇妙な空間。
黒い黒い道路に直線や曲線、斜線で書かれた白い白い、善意を信じる気持ち。
私は、いつまでもなじめない。
運転するということは、人を信じるということなんだろうか。
あの元夫も運転しているであろう、この日本で。
私は、ぼんやりと考える。
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