見出し画像

『国宝』(李相日監督)鑑賞

公開からだいぶ日が経つがまだまだ話題沸騰、大人気の作。とはいえ地方の田舎町でもあり、平日の日中という時間帯もあり、幸いにも館内はガラガラだった。ガラガラだった割には、切符を買いに行ってくれた伴侶がなにを思ったか前から3列目の左寄りの席を取った。え、盛大に空いてるけど? 3列目? 首、痛くならない? しかも左寄り? 実際指定された番号の席に座ってみたらちょっと横すぎる気がした。3列目という近さはスクリーンを見上げる格好にはなるものの苦しいほどではない。ありがたいことに3列目にはほかに席を取った人がいない。というわけでちょっと右へスライド移動して座らせてもらうことにした。真ん中付近ならまだよい。しかも自分たちの前には誰もいない。

原作は吉田修一の小説。3年間にわたり著者自ら歌舞伎の現場で黒衣を体験しながらの取材に基づき執筆された上下巻の大著らしい。映画としては3時間というと長いほうだが、何十万字を3時間に収めるのだからかなりかいつまんで切り貼りしなければならない。小説とは別モノとして観るべきだろう。と観る前から思ってはいたがやはり切り貼り感は切り貼り感としてある。

疑問が湧いてしまった。喜久雄の父親はあの乱闘場面において本当にあのような死に方をする必然があったんだろうか、座敷を埋め尽くしていた子分たちが盾になることはなかったんだろうか(子分のそのような配慮・申し出を親分自ら拒んだようにも見えた)、とか。喜久雄の後を追うようにして長崎から出てきた彼女が「曽根崎心中」の舞台途中で「逃げるんやない」と漏らしつつ会場から立ち去る俊介に簡単について行ってしまうの、なんで? とか。彼女をそのように奪っていった俊介に対して喜久雄は再会後とくになんにも言うことないの? とか。喜久雄の刺青や芸妓さんとの子どものことを週刊誌に売ったの誰? とか。それが原因で干された喜久雄がわずか2年で舞台に復帰できるほどあの出来事は軽いものだったの? とか。俊介の子どものことは世間的にはお咎めなしなの? とか。2代目半二郎、血を吐いちゃうほど病状が悪化してたなら舞台にそのリスクを持ち込むのまずいんじゃないの? とか。俊介、左足が壊死してたのがずっとわかってたなら舞台上でそういうことが起こりうるって予見できてたんじゃないの、それを押して舞台に上がっちゃうのって伝統芸能のプロとして許されるの、親子そろって舞台を中途退場ってどうなの? とか。極道出身の人が人間国宝になるってホントのところアリなの? とか。

いや、自分なりに説明をつけようと思えばつけられる部分もある。でも説明のための説明になってしまう。歌舞伎の世界および世の中のしくみを知らないために生じた疑問もあるかもしれない。なにしろ、場面場面でたびたび「うーん」と思ってしまった。

一緒に観ていた伴侶に鑑賞後、これらの点を話してみたが、ほぼ共感される部分はなかったと言ってよい。伴侶にとってそれらは「ああ、この人はそうなんだな。そういう映画なんだな。そもそもフィクションだからな」で済ませることのできる許容範囲内であったらしい。「もしかしたらそれは、演技力不足ゆえのことで、台詞にはないまでも俳優が表情その他の表現によってもっとわかりやすく伝えるべきことだったのかもしれないけどね」とは言われた。この作品の感想を話し合った相手は今のところ伴侶一人である。他のいろんな人たちと話したら、自分の感じたような「ストーリーの細部に対する疑問」を「そうだよね」と言う人が現れるのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

いずれにせよ自分としても、さすがに映画を「ストーリーがすべてである」とまで言うつもりはない。「画を映す」と書くくらいだから、映像の美しさ、おもしろさが重要要素のひとつなのだろうし、コマ割りの仕方とか、場面描写とか、キャスティングとか、個々の演者の表現力とか、演出方法とか、編集手腕とか、作品の構成要素はいくつも挙げられよう。ストーリーはそのうちのひとつに過ぎない。それはそうだが「そのうちのひとつ」として捨て置けない要素ではある。それぞれの映画作品において、それらの構成要素の優先順位というものもあるのかもしれない。もしもそうだとすれば、この作品ではストーリーの優先順位がやや低めに位置づけられていたのだろうか。数十万字のエッセンスを3時間で表現しようとすること自体、尺が合わなかった面もあるのかもしれない。原作を読めば自分の疑問は晴れるだろうか。晴れたとしても、なおさらこの映画のストーリー描写が惜しまれることになりはしないだろうか。

さてそれらの疑問(ことによったら愚問と呼ぶべきか)を、「フィクションだからこれでいいのだ」と収めれば、エンターテインメントとしてはよい作品だった。

映像が美しかった。3列目の座席からスクリーン全体が視界に収まらないほどの近距離で仰ぎ観た甲斐があった。

演技もよかった。熱演、という言葉が似つかわしい。1年半にわたりプロの指導を受けてきたという主人公喜久雄と相棒俊介の所作も細部にわたり美しかった。

カメラワークも魅せた。歌舞伎という伝統芸能のある意味閉じた世界を、現場の目線で生々しく表現する映像の数々には説得力があった。これまた3列目で得をした点である。

骨格はしっかりと組み立てられていた。物語の大枠は立体的に「世界」を描いて楽しませてくれた。

観終わってからまだ24時間も経たない今、思い返すのは喜久雄の「見たい景色」について。

見たい景色があるんです。人間国宝になった直後、喜久雄がインタビューに答えて言う。その景色は、喜久雄の脳裏に浮かぶ幻影としてだろうか、作中に繰り返し現れる。これが最初と最後をつなぐ。

喜久雄の父親が人を殺し、その場で自分も殺された。その一部始終を少年喜久雄はガラス越しに見ていた。長崎にしては珍しい(という設定だろうか? 大阪で出会った芸妓に「長崎では雪など降らないのだろう」というようなことを言わせていたし)雪が降っている日だった。父の死とともに、雪の舞う宵闇は喜久雄の記憶に焼きついた。

人間国宝として立った舞台で演じた「鷺娘」。クライマックスで紙吹雪が舞う。演じながらそれを見上げる喜久雄。満員の客席、無数の観客たちの姿がやがてフェードアウトし、降りしきる紙吹雪が喜久雄の視界を覆う。きれいやなあ。喜久雄は心でつぶやき、ただひとり、漆黒の中を舞う白い紙吹雪に包まれる。

喜久雄自身も言葉でうまく説明することのできなかった「見たい景色」は、否応なく父の死と結びついている。

以下は勝手な個人の妄想。闇を舞う雪、その景色を見た喜久雄は、それが父の死とともにあるからこそ、世の真理のようなものをいきなり嫌というほど感受してしまったのではないだろうか。闇と雪、黒と白、罪と浄め。人間社会はきれいごとばかりで成り立っているわけではない。むしろ欲が渦巻いているどす黒い世界だ。それでもときにそれをそそぐかのように真っ白な雪が降る。降っても降ってもそそぎきれるものではない。そうとわかっていてなお、というよりも、そうであるからなおさら、人間はやりきれなさを抱えながら美しいものを希求する。そのひとつが、究められた芸である。

喜久雄自身も己れの裡にとぐろを巻くどす黒いものに自覚的だったのではないか。歌舞伎の世界を如何ともしがたく縛りあげる「血」を憎み、人の裏切りや欲や拒絶に打ちひしがれながらも、己れもまたその連なりのうちにあると諦観し、すべてを呑み込んで芸に昇華させたかったのではないか。あるいは「それしかできない」と観念していたのではないか。鷺娘は舞い、雪を降らせる。罪を浄めるかのように紙吹雪が世界を覆う。その景色は「きれい」だ。

おそらく「国宝」という肩書は喜久雄が欲したものではなく結果に過ぎない。とはいえ国宝は国宝だ。軽いものではない。その「国宝」を担保したものはなにか? 表層的には喜久雄の芸である。芸を裏づけるものとしての熱意の持続であり、稽古の積み上げであり、感性の研磨であり、身体の鍛錬である。それらの陰、見えないところを、伏流水のように滔々と流れていたのが、歌舞伎という伝統と因習の塊を超えたところにある美しさであり、美しさの象徴としての「見たい景色」が物語る世の真理らしきもの、だったのかもしれない。仮にそうであるとすれば、喜久雄の演じる舞台は舞台のみで完結するものではない。舞台という一点につながる人間たちの営みが清も濁もないまぜに含まれ、舞台は舞台として成立する。圧倒的に横たわる黒さが、舞い散る紙吹雪の白さを際立たせて見せる。地があって図が引き立つ。黒がなければ白は白としてそこにない。黒が黒いほど、白の白さ、景色の美しさは、いよいよ冴える。

理屈で割り切れることばかりではない。辻褄の合うことなど圧倒的に少ないのが現実かもしれない。きれいごとで糊塗された現実は、手のつけようもないほど汚れているかもしれない。それでも「見たい景色」を求めて、自分にできることを血ヘド吐いてでもやる。それでいいんだよ。それしかないんだよ。

って言われているんだとしたら。

自分の抱えた数々の疑問も、つまり、そういうことなんだろう。

と、辻褄合わせをしようとしている自分は、まだまだである。



いいなと思ったら応援しよう!