【南ベトナムの記憶】オーラル・ヒストリー〈連載第18回〉『私はお父さんの娘です』私は疲れない
ファン・トゥイ・ハー, ベトナム婦女出版社, 2019。“Tôi Là Con Gái Của Cha Tôi” Phan Thúy Hà, Nhà Xuất Bản Phụ Nữ Việt Nam, 2019.
【訳者Mikikoより】
今回の主人公は、相当に優秀な兵士だったようです。海兵隊、PRU(地方偵察部隊)、米軍空挺特殊部隊、雷虎部隊、レンジャー部隊などに所属し、幾多の戦場を経験していますが、ひとつひとつの戦いの記憶が鮮明で、仲間や人々の様子、地理、兵器や戦闘機について詳細に語っています。私は兵器や戦闘機には全く詳しくないので、大変苦労しました。もしも間違いなどありましたら是非教えてください。
かつて南ベトナムではボーイスカウト・ガールスカウトの活動が盛んであったと私も聞いたことがありました。本章の主人公は、統一後のベトナムにおけるこの活動の復興に尽力しました。ただし、ボーイスカウト・ガールスカウトはまだベトナムで公式に認められた活動ではないようです。
本章、少し長いのですが、お付き合いいただければ幸いです。
※本文中、身体の障がい、性別、政治的な立場等に関する差別的な用語を使用することがありますが、原文を忠実に反映するため、そのまま掲載いたします。
◇ 目次 ◇
● まえがき
● クオック・キエット
● ザンおじさんと二人乗りした三日間 (前半)
● ザンおじさんと二人乗りした三日間 (後半)
● フエへ
● カムロの母
● 「戦争が今まで続いていなくてよかった」
● チンおじさんの親指
● トゥオンサーの夜
● 「コマンド野郎」
● ヤシの老木①
● ヤシの老木②
● ヤシの老木③
● ホイトン寺の鐘の音
● サイゴンの路上のバイクタクシー運転手
● 女性軍人
● 車椅子に乗った宝くじ売りの老人
● アヒルの卵のバー爺さん
● 私は疲れない ☚ 今回はここ
● カオラインの朝
● 「戦争は終わったのになぜ父さんはそんなに悲しそうなの」
● フエへ(再び)
● 傷痍軍人の歌声
● さようなら
● 私はお父さんの娘です
私は疲れない
私は近頃、胸が苦しくなるほど昔のことを思い出す。フックトゥイ(Phước Tuy)とビエンホア(Biên Hòa)の二省にまたがる鬱蒼としたジャングルを歩いていた時のこと。私が隊の先頭を歩き、枝葉の広がるジャングルをかき分け、草原を越え、棘のある竹林をすり抜け、絡み合った枝や蔓をそっとかいくぐって進んだ。隊の中に乾いた枝を踏んで大きな音を立てる者がいたので、私は戻って睨みつけた。するとそいつは慌てて首を縦に振り、理解と謝罪の意を表した。私が最も嫌うのは、行軍中に騒音を立てることだった。どうやって騒音を立てずに歩くのか?つま先をそっと地面に降ろし、前方に軽く押し出す。そして、かかとを置くのに十分な空間を作る。練習を積めば、慣れるものだ。
小川のほとりに腰かけ、魚の群れを眺める。中には腕の太さほどもある大きなのもいる。手りゅう弾を一発投げ込んで、魚を捕りに潜れたらどんなにいいだろう、などと夢見る。マメジカが何匹か恐る恐る頭を垂れて近づいてきてにおいを嗅ぐ。顔を上げ、私がいるのに気づいた途端、慌てて姿を消した。小川の向こうに、一頭のイノシシが子どもたちを連れて水を飲みに来たが、突然頭を上げ、鼻をひくつかせる。そして、何か異変を嗅ぎ取ったように身を翻して走り出し、子イノシシたちもそれに続いて走り去った。
ヘリコプターの脚が地面に着く前に飛び降りて、我々は素早くジャングルの中へと逃げ込んだ。ジャングルは、私たちの身を隠し、守ってくれる。夜になると、枝葉が密集した木立を選んで眠った。ジャングルの中で眠るとき、見張りはいらない。原生の密林では、けもの道でもなければたとえ懐中電灯があっても移動するのは困難だ。夜のとばりが降りる。夜のジャングルは静まり返っている。地面には、枯れ枝がきらきらと光を放っている。冷たい風が肌を刺す。私はふと目を覚ました。ジャングルの音ではない物音が聞こえたからだ。いや、もしかしたら、私が警戒しすぎて妄想しただけかもしれない。私は耳を澄ませた。遠くから牛車のがたがたという音が響いてくる。この時間に動いているのは、村人ではない。私はポンチョ(訳注:米軍で支給されるポンチョは主に雨具として用いられるだけでなく、敷物やブランケット、タープなどとしても活用できる)に身をうずめ、静かに横たわり、考え込んだ。
ゴムボートに乗り、小さな水路に沿ってトイソン島(訳注:cồn Thới Sơn。ティエンザン省ミトー市。現在はメコンデルタの有名な観光地でボートツアーなどが人気)へと入っていく。この島はメコンデルタの中洲の一つで、入り組んだ水路が張り巡らされ、無数の地雷や長釘の罠が仕掛けられ、あちこちに狙撃手が潜んでいる。時は真夜中、私は岸に上がり、赤外線暗視ゴーグルをつける。このゴーグルは、暗闇の中、通常肉眼では見えない熱源を捉えることができる。私はごく細いニッパヤシの葉を使って進路を探った。普段はチガヤ(cỏ tranh)の葉を使うが、この水辺の地域にはチガヤが無いので、ニッパヤシの葉を使わなければならなかった。歩きながら、ニッパヤシの葉の細い部分を前に出し、引っ張り上げる。もしその葉が下にしなったら、それは何かのワイヤーに引っかかっていることを意味する。そのワイヤーの先には、地雷や手りゅう弾が仕掛けられているかもしれない。この方法を使うことで、動きは遅くなるが、かなり安全に進むことができる。これは、戦場での過酷な経験から私が学んだ知恵だ。
再び、眠れぬ夜を過ごす。自分自身に語り掛けている。私は、ロープ梯子とともに、ぐらぐらと揺れ動いている。ヘリコプターが離陸したのは、私がまだ半分ほど登った時だった。以前、ある通訳の男は、同じようにロープで撤退する際、宙ぶらりんのロープに対空砲が命中して死んだ。今度は私の番だというのか。私は警報スイッチを探した。そして、ヘリの中から誰かの顔が覗くのを待った。
悪夢の中に沈んでいく。死は、それほど早く私を迎えには来なかった。
人の足跡ひとつない、滑らかに磨かれたような小道。コマンド部隊兵士としての第六感で、ここに地雷があると確信した。足元でかすかな音がした瞬間、私の身体は凍りついた。私は部隊全体に後退するよう合図した。私の足の下には、何らかの種類の地雷がある。
目を閉じて祈る。わずかに足を持ち上げる。爆発しない。どの種類の地雷なんだ?
私は銃剣を抜き取り、そっと周囲の土をかきわける。二重になった電線があった。
銃剣を使って電線を一本ずつ切断した。しばらく掘り返していると、簡易な電気起爆装置の一部が出てきた。回路の両端には、上に一枚、下に一枚のスズ板があり、12ボルトの電池と繋がれていた。電線は、ズオイ(duối)の木が最も密集している茂みへとまっすぐに伸びていた。私はその茂みをかき分けた。高さ1メートル以上もある175ミリ砲弾が堂々とそびえ立っていた。それは米軍の砲兵の不発弾で、北ベトナム軍が持ち帰って信管を取り替えたものだった。
あの時、もし私がもう少し強く足を踏み込んでいたら、部隊は全滅していただろう。
それに、もし、私の銃剣が、あの二枚のスズ板(訳注:電気回路の両端、起爆スイッチ)に同時に触れていたら?
背筋がぞっとした。あのティエンザン省バンロン(Bàng Long)での偵察任務は、私にとって生涯消えることのないトラウマとなっている。
私は74歳の爺さんになった。眠るのに苦労する年齢だ。自分が何時に眠ったのかもわからない。たいていは、疲れ果てて眠りに落ちる。
あの年のビンザーの戦い(trận Bình Giã)を思い出すと、今でも恐怖がよみがえる。新兵が震えながらゴムの木の陰に身を隠し、夢遊病者のように銃を乱射していた。あの時、どうして私は生き延びることができたのだろう。神が一匹の迷える子羊を救い給うた、としか言いようがない。
1964年12月30日、私たちはヘリコプターでビンザー村に移送され、第30レンジャー大隊の支援に向かった。
12月31日の夜明け、上からの命令により、海兵隊第4大隊は、前夜にクアンザオ(Quảng Giao)のゴム林で撃墜されたアメリカのヘリと、搭乗していた四人のアメリカ人兵士の遺体を捜索するため、行軍を開始した。
私たち第2中隊はクアンザオ農園に進入した。そこはまばらな森や低い丘の続く地帯だった。ゴム林は長らく手つかずで放置され鬱蒼としている。約一時間の捜索の後、私たちは墜落したヘリとアメリカ兵四人の遺体を発見した。機体に近づこうとしたその時、遠方から82ミリ迫撃砲とDKZ(訳注:B-10無反動砲)の爆音が鳴り響いた。
私は隣にいる指揮官の指示を仰ごうと振り返った。彼の頭は片側に傾いている。ロン軍曹とバウ伍長は最初の12.7ミリ弾の連射を受け倒れた。ゴムの枝葉が被弾してへし折られている。背中がべたべたしていた。ゴムの樹液なのか、血液なのか、私にはもうわからなかった。激しい砲撃戦の後、迷彩用の葉を身につけた無数のベトコンが蟻の群れのように押し寄せてくるのを見た時、身体がぶるぶると震えた。進軍ラッパの音が頭に鳴り響いた。私は、今までに感じたことのない恐怖に襲われた。
第1中隊と第3中隊が援護に入った。第2中隊の何名かは自主的に残った。私は魂の抜けた死体のように、ふらふらと村に戻った。人目に付かない場所を探し、泣き崩れた。出会ったばかりの仲間たちが無念の死を遂げるのを目の当たりにして、私は泣いた。恐怖のあまり泣いた。つい昨日まで海兵隊第4大隊の兵士であることを誇りに思っていたというのに。
ビンザーの戦いの後、私は脱走した。自分の命を、安全な部屋で座っている連中に決められるのは嫌だった。脱走にも失敗し、1965年末、私はPRU(Provincial Reconnaissance Unit – 省偵察部隊)に加わった。この部隊はCIAの職員によって選抜・訓練・指揮され、給料もCIAから支払われていたが、実際の運用は所轄省長の指揮下に置かれ、まるで地方軍の兵士のように扱われていた。
PRUの任務は軍事情報の収集、敵地の偵察、探索、およびベトコンの地下組織の壊滅だった。
小部隊、あるいはそれを組み合わせた編成で、ダットドー(Đất Đỏ)スエンモック(Xuyên Mộc)、ロンディエン(Long Điền)などの重点地域に潜入していった。これらの戦場で、私は自分の判断で動くことができ、大規模な戦闘に遭遇することもなかった。次第に火薬の臭いにも慣れ、私はゲリラ戦という戦い方に面白さを見出すようになった。
行軍。行軍。PRUにいたころの行軍の数々が、私の脳裏によみがえる。
1967年秋のある朝、オーストラリア軍戦闘団のM113装甲車の上にはオーストラリア兵が座り、我々は窓のない車内に潜んだまま、スエンモックへ向けて進軍していた。地図上で指定された座標の位置に到着すると、車両は速度を落とし、我々は身をかがめて飛び降り、素早くジャングルの中へと姿を消した。車両はまるで何もなかったかのようにそのまま走り去っていった。これはオーストラリア王立陸軍が用いたコマンド部隊投入戦術である。
隊列を組み終わった後、我々はじっと座っていた。朝から昼まで耳を澄まし、周囲を観察していたが、聞こえるのは鳥や動物の鳴き声と、木の葉をさらさら揺らす風の音だけで、ベトコンの気配は全くなかった。昼下がり、私は二人の若者が魚を追い込んでいるのを見つけた。水はすでにほとんど干上がっていて、ひとりが川に入って捕まえ、もう一人はなおも魚を追い込んでいた。岸には、ゆがんだアルミの洗面器が置かれていた。二人はすっかり疲れた様子だったが、洗面器の中にはわずかに数匹の魚がちょろちょろしているだけだった。
動くな。手を挙げろ。私は先に尋ねた。お前ら、どこの部隊だ?
はい、私たちはスエンモックの民間人で、魚を捕りに来ました。
私は鼻で笑った。お前らの年でベトコンに入っていないなら徴兵逃れってことだ。身分証を見せろ。
作戦司令部は装甲兵員輸送車に戻るように命じ、捕虜二人を回収させ、我々は任務を続行した。地図によれば、我々はバートー村(xóm Bà Tô)に向かっていた。地図上ではかなり多くの家がある村に見えるが、実際に到着してみると家は一軒も残っておらず、黒焦げになった柱がぽつんと残っているだけだった。地面は雑草や低木に覆われていた。バートー村は完全に消滅していた。地図情報はすでに過去のものだった。
私たちはフオックブウ村(xóm Phước Bửu)へと手探りで向かい、村に通じる小道を探し出してそこで待ち伏せ態勢をとった。夜九時近く、村の方から拡声器の声がかすかに聞こえてきた。拡声器の声は、全住民に対し米や食料を納め抗戦を支援するよう呼び掛け、若者には解放戦線への参加を奨励する内容のようだった。やつらは、別の道から村に進入したらしい。我々は話し合い、退路を断つことにした。この村では犬を飼うことが禁じられていたので、我々はやすやすと家々の周りや狭い路地をすり抜けることができた。欠けた月のぼんやりとした光の下、三つの人影がこちらに近づいてきた。
マイルア山(núi Mai Rùa)の頂上から、双眼鏡を通し、我々はダットドーとロンタン(Long Tân)地域で展開されている活動の全体を広範囲に観察することができた。
その日、私の分隊は待ち伏せ任務が無かったので、代わりに水汲みの任務があった。山のふもとに小さな水源を見つけるまでに、我々は四時間も歩き続けた。その水源は開けた場所にあり、遮るものが無い空間を通り抜けねばならず、その空間はダットドーからロンタンに行く道路に面していた。通りにはぽつりぽつりと人の往来があった。横断する際、非常に慎重に渡ったにもかかわらず、一台の牛車に遭遇してしまった。存在が露見することを恐れ、我々はその夜、痕跡のすべてを消して山頂を離れた。
ボンの分隊はダットドーに移動していった。私とホアの班はロンタンに向かった。
一時間強歩いたころ、ダットドーの方向から銃声が聞こえた。M79擲弾発射機や手りゅう弾の音が混ざっている。ボンの分隊は敵に遭遇し、ナンとトイが被弾した。ナンは私の親友で、私は居ても立ってもいられない気持ちで分隊を率い、ナンとトイの救出に向かった。
私たちは照明弾の支援を要請した。五分ごとに一発の照明弾を撃ってもらい、さらに砲兵による援護も求めた。発射音が聞こえるたびに隠れる場所を探し、照明弾が光ると目を凝らして周囲を観察した。照明が消えると、また一歩ずつ慎重に進んだ。交戦地点に近づくと、私は一列縦隊で展開するよう指示を出した。「一列縦隊」とは、先頭の兵士が前方にある遮蔽物を見つけて戦闘の拠点とし、そこまで前進してから、二番目の兵士がその位置まで移動し、入れ替わるように進んでいくことを意味する。次は、三番目の兵士が二番目と入れ替わる。
道端のバナナの茂みからかすかなうめき声が聞こえた。トイはナンの傍に横たわっていたが、すでに死んでいた。ナンは内臓が飛び出て、足も折れていたが、必死に友の遺体を引きずり、バナナの茂みに隠していた。私たちはナンの手当てをした。木を探して担架を作り、二人を運び出した。ハンモックに横たわりながらも、ナンにはまだ悪態をつく元気があった。三日後、ナンがヴンタウの軍病院で死んだという知らせを受けた。

「投降せよ、投降せよ、君たちは包囲されている」。それを聞いて、地方軍だとわかった。正規軍なら「降伏すれば生きられる、抵抗すれば死ぬ」と北部弁で叫ぶ。
バオが大声で叫んだ。「おい、こっち来いよ!おれがそのキンタマ握り潰してやる!」すると皆が一斉に叫び返す。「潰せ!潰せ!キンタマ潰せ!」
日頃冗談で言い合っていた言葉が、突撃の号令になった。敵への攻撃なのに、まるで子どもの戦争ごっこだった。だが、それが良かった。緊張がほぐれた。
一晩中こちら側はホイッスルを吹きながら突撃の掛け声を上げ、「降伏せよ!」と叫んだ。すると向こう側は「あいつのキンタマ潰せ!」と応じた。向こうがB40(訳注:ソ連製の歩兵携行用対戦車擲弾発射機、RPG-2)で一発撃ってきたら、こちらは「ハズレー!」、「ガキみたいに下手くそだな」と叫び返した。
一番大きな声で叫んでいたのはバオとカインだった。二人は叫びながらぴょんぴょん跳ねていた。
朝になると、我々の任務はほぼ終了し、あとは迎えの車を待つだけだった。しかし、郡長(訳注:quận trưởng、郡quậnは現在の県huyệnに相当)は省の軍隊司令部に掛け合い、私たちに引き続き地方軍と協力して戦闘に加わるよう要請してきた。徹夜明けで、今度は分隊を率いて北ベトナム軍が占拠している民間人の集落に深く突入しなければならない。民間人の居住区での戦闘は、我々にとってなじみのないものだった。我々は偵察部隊であって、歩兵部隊ではないのだ。
移動の最中、銃声が一発響いた。銃声は壁に反響していたので、どの方向からなのか判断できなかった。カインがゆっくりと倒れ、頭から首へ血が滴っていた。私とバオが駆け寄ったが、カインはすでに昏睡状態だった。
翌日、我々はカインの家に出向き、葬式に参列した。カインの兄は、二カ月前に死んだばかりだった。カインは家族に残された最後の息子で、結婚したばかりだった。カインの遺体は、妻の故郷のチューハイ教区墓地(Nghĩa trang giáo xứ Chu Hải)に埋葬された。
1968年ロンディエン社カウダートゥン村(xóm Cầu Đá Thùng)でのあの夜の待ち伏せ作戦は、兵士生活の楽しい思い出になると思われたが、結局は戦争の掟から逃れることはできなかった。
ある夜、私たちはクミ(Cù Mi)・ラギ(La Gi)海域(訳注:バリア・ヴンタウ省の海岸)に上陸するよう命令を受けた。その日の夕方、我々はカイケー橋(cầu Cây Khế)に停泊していた沿岸海上船団(訳注:Lực lượng hải thuyền。南ベトナム海軍が編成した沿岸警備部隊。臨時に徴用された地元漁師などがジャンク船を持ち寄って編成された。)の木造船二隻に乗り込んだ。これらは上陸用の舟艇ではなかったため、多数の兵士を乗せると岸に近づけず、胸の高さまで無図がある場所でしか止まれなかった。
船がヴンタウ海域に出たころ、日が暮れた。空模様が急変し、激しい雨と高波に見舞われた。ラギに到着した時には潮が引き始めていたため、座礁を恐れた船団の乗組員たちは早く降りるよう我々を急かした。
ニャン、飛び降りろ、分隊を降ろせ。ザーさんが叫んだ。
この行軍はチャン・ヴァン・ザーさんが隊長として指揮をとり、彼の実弟であるチャン・ヴァン・フック中隊副隊長補佐も同行していた。
私は短機関銃を抱えて分隊とともに海に飛び込んだ拍子に、水の中でひっくり返ってしまった。立ち上がると、海面は胸のあたりまであった。前に進もうとすると、水はさらに深くなっている。私は船が砂洲に引っかかっていることに気づいた。空に向かって発砲し、仲間たちに飛び込むな、と叫んだ。波の音と船のエンジン音が私の叫び声をかき消す。皆、次々と飛び込んでしまった。暗闇の中、我々は互いの手を握り合い、身体を寄せ合い、大波に耐えた。そうして、水の中に六時間も立っていた。ザーさんとフオックさんの声が聞こえない。私は悪い予感がして、ぞっとした。兄弟は、とても小柄だった。夜明け近くになり、我々は二人の遺体を見つけた。兄弟は別々の方向を向いて倒れていた。
敵との交戦はなかったが、深い喪失感と悲しみに満ちた行軍だった。
忘れ去られた死。
誰に知られることもない戦闘。
そして私もやがて消えていく。
ナン、トイ、ザーさん、フオックさん、カイン。僕らはかつてともにあった。残酷で野蛮な時間をともに過ごした。僕らは互いのために銃を撃ち、殺し合った。そして互いのために泣いた。
私はアメリカ人と親しくなった。ベトナム人二人がアメリカ人四人から六人とともに動く。初めは英語が話せなかった。学生時代、私はフランス語が得意で、英語は第二外国語だった。父はフランス人のための通訳をしていたので、私にフランス語を学ばせた。私の分隊の通訳人は民間人だったので、行軍には同行しなかった。行軍に出るたびに、私はよく使うフレーズをベトナム語で書き出し、通訳人に英語に訳してもらってアメリカ人に発音したもらい、それをまねて読んだ。六カ月間独学を続け、毎日アメリカ人と接しているうちに私は通訳人となり、砲兵の支援要請や航空支援の指示が英語でできるようになった。
チュオンソン山脈が眼前に現れた。青く澄みきった空に、真昼の太陽がまぶしく照りつけている。ヘリコプターが着陸地点を探している。幽霊のようにジャングルの中に消え、静かに身を伏せていた。鬱蒼としたジャングルには、人間が通った痕跡などまるでなかった。木の上で、猿の群れが動き回る音が聞こえた。すると、連続して銃声が鳴り響き、その後に猿が落ちる音がした。あるコマンド兵が叫んだ。「I got it、 I got it(やったぞ、仕留めたぞ)」。彼は歩兵から異動してきたばかりの新人コマンド兵だった。何を撃ったんだ?と聞くと、木の上を移動していたベトコンです、と答えた。信じられない。コマンド兵がそんな見間違いをするなんて。
待ち伏せをして一夜を過ごし疲れ果てたが、何の成果もないまま、我が分隊は撤収し、迎えのヘリコプターを待つため野原に出た。我々は野原の真ん中にある一軒の家を選んだ。ジャングルから離れていて、周囲は見通しが良く警戒しやすく、狙撃や奇襲を受ける恐れのない場所にあった。私と分隊長のファンクは家の中を確認した。老婆がひとりいるだけだった。家の人たちは田んぼに出ており、夕方にならないと戻らない。私は分隊に家の周囲に散らばり、それぞれ見えにくい場所を選んで座るよう伝えた。私は台所に入り、食べ物が無いか探した。煮魚と冷や飯が無性に食べたかった。米軍の食事にはうんざりしていた。民家で食べ物を手に入れたときには、私はたいてい数十ドンを置いていった。フォー二杯分ほどの額だ。
台所には辛みをつけた煮魚があったので、私はご飯も茶碗によそい、座って食べていた。食べている最中、分隊の誰かが撃った銃声が聞こえた。私が銃と弾帯を手に取り走り出ると、分隊内の狙撃兵が言った。「I've just killed one VC(ベトコンをひとり殺した)」。私は弾帯を身に着け、背嚢を担ぎ直してこう言った。「Check it out(確認してこい)」。
彼の指し示す方向に行くと、おそらくは九歳か十歳ほどの少年が田んぼの畔に倒れて死んでいるのが見えた。頭に銃弾が一発貫通していた。
狙撃兵は口ごもりながら「I’m sorry... I’m sorry…」と言った。稲の背が高く、少年が畔を歩いているとき稲の先に頭しか見えなかったので、ベトコンが匍匐前進してきたのだと思ったと、言い訳をした。私は怒りで体が震えた。お前の銃にはスコープが付いているのに、なんで子どもの頭と大人の頭の区別もつかないんだ。
母親は、地面に身をよじらせて泣いていた。そして持っていた包みを投げつけた。包みから、「消斑露」の瓶(訳注:ベトナムで売られている子ども向けの清熱解熱シロップ)と、数包の「神功散」(訳注:発刊・解熱・解毒を目的とした粉末の漢方薬)が転がり出た。
少年は一晩中熱を出していたので、朝早く母親が薬を買いに市場に出向いたのだ。川辺の船着き場で母親が小舟から降りるのを見つけると、少年は走って迎えに行ったのだった。
私たちにできることは、ポケットの中のあり金をかき集めて、母親に渡すことだけだった。全部で200ドルだった。私は彼女に心からこう言った。「これは坊やのために使う当面の費用として受け取ってください。後日、どうか裁判所に訴えてください。そのときには正式に補償します。これが私たちの部隊名です…」。
母親は「兵隊さん、お金なんていらない。息子を返してください」と言った。
我々はヘリに乗り帰還した。私は、狙撃したやつには母親の痛みを理解できるわけがないとわかっていた。あいつにとって、それは単に「不運な出来事」でしかなかった。私には、この痛みを通訳することができなかった。
私はアメリカ兵たちにこう言った。「お前らが魂も身体も満足に揃った状態で飛行機に乗ってアメリカに帰りたいのなら、俺の言うことを聞け。ベトコンとは俺のことだ。ベトコンの頭が考えることは、俺の頭も同じように考える。ここはお前らの戦場じゃない。お前らがここにいるのはせいぜい数年だろう。でも俺は生まれた時からここにいる。一生ここで暮らすんだ。この戦場は、俺たちの戦場だ」。
帰省するたび、近所の弟分でニョーという名前の少年は、私がヘリに乗って戦闘に行った話に喜々として耳を傾けた。そして、自分も行きたがった。ある日、私が出動準備をしているとき、ニョーはどうしても連れて行ってほしいとい言う。命の保証ができないから、私は連れて行かないと言った。追い返しても、ニョーは帰ろうとしない。彼の家に行き、両親に息子を連れ帰るよう頼んだ。すると父親は、「もう心は決まっているんだ。呼び戻してもどうせ抜け出すだろう。戦闘が少なく、比較的安全な仕事を何か与えてやってくれないか」と言った。「僕の部隊には戦闘に行かない仕事なんてほとんどありません」。「わかった。連れていってやってくれ」。ニョーは十八になったばかりだった。その後、私と一緒に米軍第75空挺コマンド部隊で二年間勤めた。1969年になると、アメリカ人たちは飛行機に乗って国に帰った。我々は引き続き戦った。私は雷虎部隊(訳注:南ベトナムの特殊任務部隊Lôi Hổ)に行ったが、ニョーは陸軍特殊部隊(Lực lượng đặc biệt)に異動した。数か月後、私はニョーが死んだという知らせを受けた。
戦争とは。ひとりの人間の命が、一頭の牛の命にも劣るところ。
私は今、ベンチェの米軍軍事裁判所の法廷に出頭している。米国人の中佐である裁判官が、なぜその兵士を撃ったのか、と尋ねた。「私はベトナム人で、彼もベトナム人ですから、互いの言葉が分かります。であれば、なぜ私が止まれと言って先制して三発撃ったのに、なお止まらなかったのでしょうか。二人は軍服を着ておらず、しかも我々の作戦地域内にいたということは、私には彼らを敵軍であると疑う正当な理由があります」。
その五日前、作戦行動中にこんなことがあった―。
バオが「ニャン、あそこに二人逃げているやつがいるぞ!」と叫んだ。
そちらに目を向けると、私は二人の男が林の中を逃げていくのが見えた。手には何かを提げている。
止まれ。私は大声で叫ぶ。そいつらはなお走り続けた。私は彼らの前方に向かって数発の曳光弾(えいこうだん)を撃ったが、それでも止めることはできなかった。
私はバオに言った。やつらを止めろ。バオはM79を構えて、正面に向かって一発撃った。弾は二人のうちの一人の頭に命中し、そいつはその場に崩れ落ちた。我々は走り寄って確認した。残りのひとりが跪いて「どうか僕を殺さないで。僕はこの近くの駐屯地にいる地方軍兵士です。いま魚を捕りに行くところだったんです」と言う。
私は怒りが込み上げてきて「畜生。兵士なのに何で俺が止まれと言った時に逃げたんだ?」と言った。
「証明書を携帯していなかったから。皆さんがあんまり恐ろしい形相だったんで、怖くなったんです。」
お前らは、馬鹿すぎるから無駄死にするんだ。
農民から兵士になった者たちが抱いたその恐怖に、私は痛恨の念を禁じ得ない。
裁判官が尋問を続ける。「あなた方はなぜ牛を二頭撃ったのですか。」
分隊の皆が、ぽかんとしてから首を横に振った。裁判官は、地元の駐在所長が書いた嘆願書を差し出した。嘆願書には多くの住民の署名があり、我々が人や家畜を撃ったり鶏やアヒルを捕まえたりし、牛を二頭撃ち殺すなど野蛮な行為もした、と訴えていた。我々はそのような行為を否定したが、彼は「おそらく君たちが撃った流れ弾に当たったんだろう」と言った。
裁判所の判決が下った。我々は牛二頭の補償として400ドルを支払わなければならない。一方、人を撃った件については、撃たれた側に過失があったとして不問とされた。
何時だろう。目を閉じて雑念を追い払おうとしたが、頭は異様に冴えていた。
北ベトナムの対コマンド特殊部隊の活動は、日増しに効果を上げていた。コマンド分隊のヘリを使った侵入作戦は多くの困難に直面していた。北ベトナムはすでに作戦の傾向を把握し、対抗策を整えていたので、奇襲性、秘密性、迅速性といった要素はもはや失われていた。
夜間の侵入作戦が提案されたが、その場合ヘリが着陸地点を探す際危険が伴う。目標地点への空挺降下しか選択肢はなかった。
私はHALO(高高度降下・低高度開傘)空挺降下訓練課程を受けなければならなかった。夜間の降下技術について深く学ぶのだ。
夜間の降下。死神との命がけの駆け引き。生きるも死ぬも、天の思し召し次第。
飛行機のドアが閉じられ、私たちは床に広げられた地図を囲んで集まり、クルーから飛行ルートと航空支援任務について説明を受けた。
深夜一時。航空機は高度を上げる。1,000フィート… 12,000フィート… 13,000フィート… 21,000フィート…(21,000フィートは約7000m相当)。
最初の鐘が鳴ると、酸素マスクを外して立ち上がる合図だ。
二番目の鐘で、静かにドアの方に進む。
三番目の鐘で、機体尾翼の赤いランプが青に変わると、私たちは飛行機から飛び出す。両足を閉じ、両腕をまっすぐ伸ばして体にぴったりと添え、全身を一本の矢のようにして、頭から落下していく。高度が下がるほど、地面の引力が強まり、落下速度は増していくような感覚に包まれた。高度2,000フィートの地点でパラシュートを開く。眼下は漆黒の闇だ。私は姿勢を整えて、着地に備える。眼を固く閉じる。命を大地に委ねた。
夜が明けている。昨夜は一晩中眠らなかったようだ。自分の身体が、空中で回転しているような感覚だ。神経が張り詰めている。日中の降下作戦。夜間の降下作戦。
冬のある夜、第一強襲戦闘団基地の立ち入り禁止区域から、私、ディエップ少尉、チャン・クアン軍曹、チャウは車でダナン空港まで移送された。米軍海兵隊C130輸送機が、我々をフーバイ空港まで運ぶため待機していた。
我々の主な任務は、最新型の対空砲の設置場所を偵察・発見することだった。最新型とはKS-19型100ミリ対空砲のことで、最大の口径を持つ対空砲であり、B-52爆撃機さえ撃墜できる兵器だった。F-4ファントムやF-100スーパーセイバーといった戦闘機でさえも警戒する存在だった。何度空爆されてもまた何事もなかったように配備され、時に姿を現したり、時に隠れたりしていた。我々はそれを 「火の龍」 と呼んでいた。
四名のコマンド隊員を降下させるために、作戦司令部は11機の航空機を動員しなければならなかった。
コビー機(訳注:前線航空管制機としての任務を担う航空機Covey。戦場において航空支援を誘導、調整する任務を担う)ブロンコ OV-10が朝から周辺を哨戒飛行し、天候が侵入に適していると報告した。六機のH-34 キングビー(訳注:米国の航空機メーカー、シコルスキー・エアクラフト社が開発したシコルスキーS-58のベトナムでの呼称) が四人の特殊部隊を目標地点に投入する。六機はそれぞれ異なる着陸地点に降下するが、実際にチームが降りるのはそのうち一機だけである。二機のコブラ(訳注:米国のベル・ヘリコプター・テキストロンが開発した攻撃ヘリコプター。AH-1コブラのこと)とヒューイ・ガンシップ(訳注:同じくベル社が開発した汎用ヘリUH-1を武装型にしたもの)が上空で周回しながら支援に備えている。
チュオンソンの山並みが高々と頂を抱き堂々たる姿を現した。山は幾重にも連なっていて、果てしなく続いている。チュオンソン山脈を越え、ヘリはまっすぐラオス領内へと進んでいく。コビー機一機と武装ヘリ四機は低空飛行を続け、六機のキングビーはそれぞれの投下地点を確定するため、徐々に高度を下げていた。
武装ヘリは通常のように着陸地点の掃討を行わず、上空を戦闘待機の状態で旋回していた。二機のキングビーが左右に分かれて徐々に降下し、それに続いて兵員を輸送しているH-34ヘリ六機もそれぞれ六か所に無事着陸した。ヘリは我々の部隊を最終地点の手前まで運び、ジャングルの端に降ろした。瞬く間に、全員がジャングルの中に姿を消した。
山奥のジャングルは冷え冷えとしていて、薄暗く、神秘的だった。我々は、岩がごつごつと突き出た小川を渡った。岩陰からは、小さな魚たちがちらちらと姿を見せている。足元にはヒルの群れがいて、私は寒気を感じながら進んだ。
鋭い銃声が至近距離で鳴り響き、我々はすくみあがった。北ベトナム軍は、我々の痕跡をたどるため、互いに合図を送り合っているのだろうか?大急ぎで進行し、この危険地帯から離れた。
ジャングルで一夜を明かし、計画では今朝、偽りの現場を作るための空爆が行われ、それに乗じて「火の龍」をおびき出すことになっていた。
我々は鈍く響きわたる爆発音を耳にした。撃ち方は慎重で、弾薬を無駄にしたくないかのようだった。コビー機は高くゆっくり飛び、対空砲の位置を懸命に探している。F-100機は標的を確認したのだろう、三発同時に爆弾を投下した。その瞬間、ヘリ部隊がもう我々の頭上にいた。銃撃戦が始まる。シナリオ通りの展開だ。ヘリが徐々に離陸し始める。四体のダミー人形がワイヤーにぶら下がっているのがはっきりと見えた。
北ベトナム軍が合図用の銃声をならしている。我々の陽動作戦はどうやら功を奏したようだ。我々四人は、まるで幽霊のように、黙々と移動を続けた。岩や急な斜面のため、地形は険しさを増していった。
二日目の夜、私たちは大きな岩の傍で再び野営した。
太陽が昇り、遠くの空が薄明るい。耳を澄ます。エンジン音、車の音がだんだんはっきりと聞こえてくる。人々のざわめきもとても近い。我々は「大通り」のごく近くにいる。重い荷物を運ぶ車が、重みでタイヤを沈ませて唸るような音を響かせている。道は山の斜面に沿って曲がっている。トラックは木の枝でカモフラージュされている。四台のトラックが、坂道を上っている。ソーレ、という掛け声がかすかに聞こえる。我々は木の根元に身を潜める。緊張状態が長く続き、我々は徐々にそれに慣れ、最初のころのように汗をかくほどの恐怖ではなくなった。私はディエップに、状況を知らせる電報をすぐに準備するように言った。私は無線機でコビーと連絡を取った。
二機のファントム(戦闘機)が上空を旋回している。
コビー機が降下し、ロケット弾が一発発射され、白煙の柱が上がる。
コビー機は二発目のロケット弾を撃つ。
F4が急降下し機関砲を一斉射撃しながら、同時に三発の爆弾を落とした。
爆発音が天地を揺るがした。炎と煙が眼前を覆いつくし、やがて渦を巻いて空高く昇っていく。
二機目のF4が樹木の先端をかすめて飛びながら爆弾を浴びせる。次々と投下されたナパーム弾が目標を焼き尽くしている。
爆弾を追加で三発搭載したF4機が、ジェットエンジンの轟音とともに急上昇している。
ドン、ドン…。一発ごとにゆっくりと響く音。ボフォース40機関砲の音や撃ち方とはまったく違う。まさにあいつだ。100ミリ対空砲KS-19、「火の龍」だ!
見上げると、F4戦闘機が黒い煙の尾を引いていた。大爆発音が空に響きわたった。黒煙の柱が上がる。F4は破壊された。
コビー機が上空から目標に向けてロケット弾を発射した。
対空砲の音が重く鳴り続けている。
二発目の煙標弾の後、残っていたF4戦闘機は、一度に四発の地響きがするような爆弾を我々のいる場所のごく近くに投下した。爆撃音が岩々にぶつかって跳ね返る。我々四人全員、息が苦しく胸に鋭い痛みを感じた。
戦場は、突如静寂に包まれた。
タンゴエコー(我々の分隊名)、こちらキロホテル、そちらにすぐ向かう、応答願います。
私はすぐに、現れたばかりのO-2機に乗っているグエン・カオ・ヴィ大尉の声だと気づいた。その後ろには、四機のヘリと二機のA-1スカイレイダーが続いていた。
突然、時が止まったかのようになり、そしてまた激しく動き出した。コビー機が西の方向の目標に向かって急降下した。白い発煙弾が立ち昇った。
最初のA-1機が急降下し、鋼鉄と炎で一帯を覆った。同時に、西の方向から北ベトナム軍の銃撃が戦闘機を追う。
二機目のA-1機から20ミリ機関砲の音が響いた。
北ベトナム軍の圧力に厚く取り囲まれていた。
ヴィ大尉が大声で叫んだ。「タンゴエコー、こちら、被弾!」私は上を向いて探した。O-2機が真っ黒い煙柱のように地面に向かって真っ逆さまに墜ちていく。パイロットのパラシュートは見えなかった。心臓が締め付けられる。さようなら、グエン・カオ・ヴィ大尉。
これは映画のワンシーンではない。地獄でもない。これは、我々が今、耐え忍んでいる現実なのだ。
二機のガンシップが、北方向の目標に向かってロケット弾を一斉に発射している。
500ポンド爆弾(訳注:米国ダグラス・エアクラフト社が開発した航空機搭載爆弾Mk.82と思われる)が西方向の目標に投下され、大地が揺れた。続いて大小さまざまな爆発音が交錯し、空を轟かせた。弾薬庫が直撃されたのだ。
ナパーム弾、クラスター爆弾、その他の破壊用爆弾…。北の目標は、火の海に沈んだ。
空気圧が重くのしかかり、呼吸がしづらかった。ディエップ少尉は顔面蒼白で、首をそらせて呼吸をしている。チャン・クアンの顔は煤で真っ黒だ。チャウは胸を抱えている。無線機からジージーいう音が聞こえ、私は我に返った。私は伸びをして、深呼吸をし、戦闘に耐える準備をした。
弾庫からの爆発音はなおも続いている。A-1機は目標に張り付いていた。もう、「火の龍」の音は聞こえてこない。
我々は、吊り下げロープを使って撤収した。上空から、コビー機がヴィ大尉のO-2機の残骸を探して何度も旋回しているのが見えた。彼の名前は、のちにサイゴンのタンソンニャット空港入口にある通信司令部兵営の名となった。
死神は、何度も何度も、私を避けた。
私は海兵隊からPRU(地方偵察部隊)に移った後は米軍空挺特殊部隊とともに転戦し、やがて雷虎部隊に流れ着いた。戦争末期には第60レンジャー部隊とともに再びフエ西南部にいた。
モータウ山地(vùng núi Mỏ Tàu)では、大規模ではないが、しつこく続く戦闘が繰り広げられた。
1975年2月20日、私は小隊を率いて、ある丘の制圧に向かうよう命じられた。
前夜、私は家の真ん中に棺桶の蓋があり、その周りを黒白の喪章が囲んでいる夢を見た。翌朝、何となく落ち着かず不快で、訳もなく苛立っていた。行軍中、小隊の先頭を歩いたのは新兵だった。彼はそわそわとあたりを見回していたので、私は腹が立って、自分が先頭を行くから下がれ、と言った。兵隊人生の中で、私は幾度となく先頭を歩いてきており、私にとっては何ということもなかった。初めのうち、一歩一歩に注意を払い、茂み一つ一つ、草の一本一本を観察した。しかし数時間もすると、私の頭はぼんやりとしてきた。そして、ふいにはっと我に返った。
私は、自分が今、地雷原の上に立っているのを感じた。
その場にじっと立ち止まり、小隊に後退するよう合図を送った。小隊が地雷の影響を受ける範囲から離れると、私は一歩ずつ後ずさりした。枯れ葉に厚く覆われ、自分の足跡が見えない。そして、三歩目。
爆発音とともに私は吹き飛ばされ、半ば寝そべり、半ば座ったような姿勢で地面に落ちた。右腕は、まるで圧搾機にかけられたサトウキビのように潰れている。左手には指が二本、皮一枚でぶら下がっていた。右脚からは、白くむき出しの骨が突き出ていた。
兵士としての私の人生は、ここで終わった。地雷・罠の専門家が、自らその罠にかかって倒れた。
腕の1/3、右脚1/3を失った。左手の指は、三本しか残っていない。私は傷の治療のためグエン・チ・フオン病院に入院した。傷がまだ癒えぬうちに、フエのグエン・チ・フオン病院はダナンのズイタン総合病院に疎開した。私は担架に乗せられ、重傷兵三人と同じ車に運ばれていた。負傷兵を避難させるために、100台を超える赤十字の車両が動員され、その列は数キロにも及んだ。その光景を目にした市民たちは、さぞかし士気が下がったことだろう。
総合病院に入って一週間で、ダナンも失った。医師、看護師は立ち去り、病院には一人の職員もいなくなった。傷は、誰にも手当てされなくなった。そして空腹。飢えをしのぐには、這ってでも行くしかない。私は這って倉庫まで行き、松葉杖を二本手に入れることにした。どの病室を見ても、負傷兵であふれかえっている。負傷兵たちは廊下にも座っている。倉庫の方から、薬を手にした何人かの負傷兵が歩いてくる。私があまりにも苦しそうに這っているのを見て、そこに座っていろ、俺が倉庫に行って松葉杖を探してきてやる、とある負傷兵が言った。
私は二つの松葉杖を脇に挟んで、病院を出た。
ダナンには父の妹である叔母と、父の弟の奥さんであるおば(訳注:以下本章では父親の妹を「叔母」、父親の弟の妻を「おば」とする)の家がある。おばのほうが親しかったので、そちらを先に訪ねることにした。
松葉杖にまだ慣れていないので、数十歩行くたびに休む。負傷兵がひとり、歩道に這いつくばっていた。脚はギプスで固定されていたが、傷が開いていたため、医者が傷の処置をするためにギプスの一部を切り取っていた。彼が這って進むたびに、そこにはウジがこぼれ落ちる。新しい傷は、二十四時間以内に手当てをしなければ壊死する。もう少し進むと、十三、四歳の少年たちが拳銃を持っており、通りかかる人を片っ端から呼び止め、金を巻き上げていた。米の運搬をしている人が通りかかると、少年らは車の前に立ちはだかり銃を突きつけたので、米を運んでいた男は、ポケットの中のありったけの金をすべて渡すしかなかった。
ズイタン病院からおばの家までは七キロあった。500メートルも行くと切断した足に血液が溜まり、紫色のあざになった。自転車に乗った男性が通ったので、乗せてもらった。その人は小柄で、懸命に自転車を漕ぎ、汗をびっしょりかいていた。おばの家まであと二キロのところで、私は降りた。その人は別の方向に行かなければならなかったのだ。私は運搬用自転車が通るのを待った。私には金が無かったが、おばの家に着いたらきっとおばが払ってくれると確信していた。
翌日、おばは解放後接収されたばかりの私立病院に連れて行ってくれた。そこでは、傷を塩水で洗った。激痛だったが、歯を食いしばって耐えた。私が緑の軍服を着ているのを見て、看護師は傷口を洗いながら苛立ちを露わにした。何を未練がましく、いつまでもそんなもの着ているのよ、と彼女は言った。私は南部の人間で、こっちには何も無いんです、服はこれ以外に持っていないんです、と私は言った。おばの家に戻ってから私は短パンを履き、軍服を脱いでおばに洗ってもらい、乾くのを待ってまたその軍服を着た。
おばの家にひと月いたが、おばは本当に気の毒だった。夫はどこかで足止めされているのか、それとも戦場で死んだのか。七人の哀れな子どもたち。私は叔母(訳注:父の妹)の家に移らざるを得なかった。叔母の家は経済的にはましだったが、叔父が気難しい人だった。叔父は私が現れたことに対し何も言わなかったが、私をよそよそしく眺めていた。食事時には、ご飯は一膳しか食べず、二膳目は食べてはいけない、おかずは食べない、と自分で決めた。鍋にご飯がいっぱい残っていて、魚の煮つけが実に旨そうな時も、私は何とか自分を抑えた。飢え死にしない程度に食べた。自分の存在が、叔母夫妻の食い扶持に影響を与えないように、叔母夫妻の重荷とならないように努力した。叔母は私に優しくしてくれたが、夫を恐れていた。叔母の家を去る際、いざという時のためにと、叔母は私のシャツの裾にこっそり千ドンを忍ばせてくれた。
ダナンにいる南部出身の兵士と傷痍軍人を召集する命令が出された。拡声器からの放送を聞き出頭すると、南部へ戻るための交通手段が用意された。私が到着したのは、移送車が一台去った直後だった。二台目の車がいっぱいになる人数になるまでここで待たなければならない。出頭後は、食事を出してもらえた。看護師が毎日、負傷兵の傷口を塩水で洗い、包帯を換えてくれた。米や野菜もくれた。六、七人が一つの炊飯鍋を使い、より元気なひとが弱い人のために食事を作った。そこにどれくらいいたのか正確には覚えていない。早く帰りたくてたまらなかったので、すごく長く感じた。百人集まったところで、それぞれに白い粗布で作った上下そろいの服を一着ずつ作ってくれた。喪服用の生地だった。我々はその上下を着て、二手に均等に分かれて二台のトラックに乗り、サイゴンに帰った。
夜十時、トラックがロンカインを通過したので、私は降ろしてもらった。両親の家に帰った。夜中に戸を叩く音がして、母は震えあがった。母は、戸が開けられなかった。家じゅうの者たちを起こした。全員が、私はもう死んだものだと思っていた。それが今、喪服に包まれてここに現れたのだ。僕、ニャンですよ、ただいま帰りました。母は私を見つめ、一言も言葉を発せなかった。
1967年末、私はヴンタウでの第三期の第三段階水中工作員訓練課程を受けに行った。訓練期間の学びの中で、今だに忘れられない教訓がある。ある日、指導官が全課程の訓練生を海辺に連れ出し、暑い砂浜で三時間走らせた。その後集合し、大尉指揮官が「誰か、疲れた者はいるか?」と尋ねた。一人の訓練生だけが手を挙げ、「私は疲れています」と言った。すると大尉は全員に解散を命じ、中で休むように言った。「私は疲れています」と言った人を除いて。その彼は、もう一度海辺に連れていかれ、さらに二時間走った。走り終わるのを待って全員を集め、大尉は心理学的な教訓を説いた。「君たちが疲れているのは、十分にわかっている。しかし、君たちが忘れてはならないのは、身体がどんなに疲れていても、精神は疲れてはならない、ということだ。つまり、決して疲れたと言ってはならない。力尽き、みじめな失敗をした時も、うつむいてはならない。顔を上げ、笑顔を見せるんだ」。
顔を上げ、笑顔を見せる。
私はフエで生まれた。七歳の時、母が私をボーイスカウトに入れた。週に一度、遊んだり、歌ったりさせてもらった。私が喜んで参加し、グループ活動に向いているのを見て、母は長期的に行かせてくれた。野外での料理法、応急処置の仕方、足跡をたどって道を見つける方法、地図の読み方などを学んだ。家族がバリアに引っ越した10歳まで活動に参加した。バリアに移ってからは、カトリック聖体青少年運動に参加した。ボーイスカウトの一種とも言えるが、カトリックの教義により重点を置いていた。
ボーイスカウトとしての知識と技能が、行軍の際に私を助けた。
1970年から、行軍を終えた後の帰省のたび、私は教会へ行ってタイプライターを借り、後輩たちに読ませるための資料をつくった。
1994年、私がかつてボーイスカウトをしていたと聞いた神父様が私を訪ねてきて、ボーイスカウトの立ち上げについての相談があった。私は心の中で、障がいのある自分にできるわけがない、と思った。小さな子どもたちは、もともと障がいのある人を怖がったり、避けたりしがちだ。そう思いつつも、やってみたい、と思った。私たちは、十人の子どもたちを呼び集めることができた。私が先頭に立つと、はじめ子どもたちは五メートルほど離れていた。恐怖と好奇心が入り混じった表情でじっと私を見る子もいた。
私は子どもたちを心から愛している。同じ年頃に自分が教えてもらったことを、子どもたちに丁寧に教えた。少しずつ距離が縮まっていった。ある時、私が手で肘を叩いていると、子どもたちも肘を叩いた。私は笑って、リーダーを真似しちゃいけないよ、僕には手が無いから肘を叩いているんだから、と言った。子どもたちは笑って、リーダーと同じように肘を叩く方を好むのだった。

1995年、私は友人にコンピューターを貰った。残されている三本の指で、キーボードをたたく練習をした。没頭して、書き続けた。書くことで、悲しみを忘れられた。書いているときは、自分自身を取り戻すことができた。
ニャチャンのオカー峠で起きた航空機事故で唯一の生存者となった外国人女性のニュースを読み、私は敬意を抱くと同時に、残念にも感じた。敬意を抱いたのは、女性の強い意志と、サバイバルや緊急脱出の能力の高さに対してだ。一方で残念に感じたのは、現在、生活の中で起こり得るあらゆる不測の事態に対応するためのサバイバルスキル、緊急脱出スキルを訓練する若者向けの講座がひとつも開かれていないことだった。それ以来、私は自然の中で生き延びる技術を伝える一般向けの本を執筆したいという思いを温めるようになった。
多くの人々が、我が国に5日も7日も出てこられないような手つかずの自然のジャングルなど残っているもんか、と言う。せいぜい数十キロも進めば、すぐに集落、村、山里、村落(訳注:山岳少数民族やキン族の村など様々な背景を持った村々、というニュアンス)や住宅地、農場などに行きつくさ。そんな風に言うのは、君がまだジャングルのことを何も知らないからだ。自然に対する深い理解や技術を持っていなければ、どんなジャングルでも君たちをそこに沈めてしまう可能性がある。
『自然の中で生きる力』と『サバイバル技術大全』という本が私のお気に入りだ。この二冊は、私が兵士としての情熱を込めて書きあげた本だ。
私は書くのが速い。書くことに多くの時間と労力を注いでいるからだ。田舎にいた幼い頃、ボーイスカウト活動にいそしんだ歳月、軍隊での訓練課程、そして実際に11年間戦場で過ごした経験は、私が書き続ける原動力となっている。(1995年から現在まで、ファム・ヴァン・ニャンPhạm Văn Nhânさんは青少年のための生きる力についての本を三十冊、ボーイスカウトの資料を90冊出版している。)

ボーイスカウト活動には、今では百名近くの子どもたちが参加している。私はもう直接子どもたちに指導してはいない。現在指導を担当しているのは、昔、私を見て五メートル後ずさりしていた子たちだ。自分の仕事が生み出した成果を見られるのは嬉しいものだ。
私は現実を生きる。夢見たり、願ったり、「もしもこうだったら」などと考えたりしない。
妻は、四十になったばかりで亡くなった。去年、息子が脳卒中で亡くなった。私は今、息子の代わりに孫を育てている。上の子は二年生で、下の子は幼稚園生だ。子どもたちの母親は、自立できるよう職業訓練を受けている。

2018年、孫に勉強を教える(著者提供)

私は今もインターネットで毎日英語を勉強している。本も出している。執筆し、本を売ることで金も稼げる。
疲れるかって?答えはいつも、「私は疲れない」だ。


